第20編「夜を裂く君の指先」(壊したい夜に、作りたい明日をくれる人がいる――)
雨の降りしきる都会の片隅。繁華街から一歩外れた路地裏に、その店はひっそりと佇んでいる。赤いネオンが揺れる「ALBA」という名前のバーだ。その扉を開けると、煙草とアルコールの混じる匂いが鼻を突く。26歳の神代澪は、何度目かのこの店の椅子に腰を落ち着けた。
「今日も来たのね。」
カウンター越しに声をかけてきたのは、この店のバーテンダー兼オーナーの若い女性、藍沢昴だ。昴の瞳は深い群青のような色をしており、どこか人を見透かすような鋭さがあった。
澪は無言でグラスを指差した。昴はそれを理解し、何も言わずにウイスキーを注ぐ。氷が軽く揺れて音を立てる中、澪はグラスを手に取った。
飲み干した液体が喉を焼く感覚とともに、澪の頭の中にはいつもの衝動が押し寄せてくる。自分自身を切り刻みたいという感覚。そして、それ以上に他人を壊したいという欲望。街中を歩く人々の無防備な背中や、声を上げて笑う誰かの顔。それらを滅茶苦茶にしてしまいたいという強烈な願望が、澪を苛む。
「……またそんな顔してる。」
昴がぽつりと呟いた。その声音には、どこか含むものがあった。
「どんな顔よ。」澪は低い声で応じる。
「全部壊してしまいたい、って顔。」
図星を突かれた澪は、グラスをカウンターに叩きつけるように置いた。中の氷が跳ねて、琥珀色の液体がわずかにこぼれる。
「じゃあどうしろっていうのよ。」澪の声は震えていた。「私の中には、そうする以外の道なんてないの。」
昴は何も言わず、カウンター越しに澪の手を取った。その動作は驚くほど自然で、澪は抗うこともできなかった。昴の指先は冷たく、それが逆に澪を落ち着かせた。
「壊すことしかできないなら、私を壊してみたら?」昴は澪の手を握りながら囁くように言った。
その一言に澪は息を呑んだ。
「……冗談、よね?」
昴はゆっくりと首を横に振った。
「私は壊されてもいい。だって、澪が本当に求めてるのは壊すことじゃないでしょう?」
「……何を、言ってるの。」澪は声を震わせた。
昴は微笑んだ。その微笑みには不思議な力があった。澪が今まで出会ったどの人間の表情とも違う、深い慈しみがそこにはあった。
「澪の中にあるのは、“生きたい”って思いの裏返し。あなたは本当は誰よりも、誰かに愛されたいんだよ。」
その言葉を聞いた瞬間、澪の中で何かが弾けた。押し殺してきた感情が次々と溢れ出し、涙となって頬を濡らす。自分の中にそんな願望があったなんて、考えたこともなかった。壊したい、滅ぼしたい、そう願う自分の裏側には、誰かに触れてほしい、優しく包まれたいという切実な想いが潜んでいたのだ。
その夜、澪は初めて昴と一緒に店を出た。雨の中、昴が澪の手を引いていく。行き着いたのは昴の住む部屋だった。
薄暗い部屋の中で、昴はそっと澪の頬に触れた。
「ねえ、澪。もう壊すのはやめて、少しずつ作ってみようよ。壊すよりずっと、難しいけど楽しいよ。」
澪は震えながら昴を見つめた。その瞳には、確かに希望のような光が灯り始めていた。そして、二人はゆっくりと唇を重ねた。
それは、澪にとって初めての“生きている”という実感だった。




