第17編 「赫い糸の織り手」(赫い糸が織り上げるのは、愛と記憶の果て)
それは、山間に佇む古びた旅館での出来事だった――冬枯れの風が吹き抜ける谷間に、ひっそりと灯る小さな宿。温泉が湧き出るこの地は、かつては多くの人々で賑わったというが、今では訪れる客もまばらで、どこか人の気配が薄い。その旅館に、私は滞在していた。
目的は休息のため、とはいえこの静寂に満ちた場所にどこか惹かれるものを感じていた。空気は冷たく、廊下を歩けば板が軋む音が響く。窓の外には雪がちらつき、白と黒だけの風景が広がっている。だが、そんな中で出会った彼女――彼女の存在だけは、鮮やかな赫い色を纏っていた。
彼女の名は八重子。小柄で、黒髪は一糸乱れずまとめられているが、赤い和装を身に纏っているのが印象的だった。その服装が、この薄暗い旅館の中でどこか浮いて見えた。しかし、不思議と違和感ではなく、むしろ彼女がこの場所の中心であるような気さえした。
最初に声をかけられたのは、暖炉のある小さな広間だった。私はその日、旅館の主人に勧められた地酒を飲みながら、静かに雪を眺めていた。彼女は音もなく近づいてきて、隣に腰を下ろした。
「雪の降る音は、聞こえる?」
突然、そんな言葉をかけられた。
「雪の音?」
戸惑いながらも聞き返すと、八重子は微かに微笑み、私の目をじっと見つめた。
「そう、降り積もる音。静寂の中にしか聞こえない音があるのよ。」
その言葉が妙に印象的で、私はそれから彼女と話すようになった。八重子は、この旅館のどこかに住んでいるようだったが、従業員でも客でもないように見えた。彼女が誰なのか、なぜここにいるのかを聞いても、はぐらかされるばかりだった。
彼女は時折、不思議な話をしてくれた。夜の湯船に現れる女の影の話、鏡に映るもう一人の自分の話――それは決して恐ろしいものではなく、どこか現実と夢の狭間に漂うような話だった。そして彼女自身も、そういった話の中に溶け込んでいるように感じた。
ある晩、八重子は私を旅館の奥の部屋に誘った。その部屋は普段、鍵がかけられていて立ち入りを禁じられていると言う。部屋に入ると、そこには一台の古い織機が置かれていた。
「これが、赫い糸を織る機。」
彼女がそう呟くと、私の目にはその織機が妙に鮮やかに見えた。それは、古びているはずなのに、どこか生き物のような気配を纏っているようだった。
「赫い糸って、何?」
尋ねると、八重子は淡々と答えた。
「人の想いを織り込む糸。この世に生きた者の記憶、愛、恨み、そういったものを織り込むの。」
彼女が言葉を重ねるたびに、その場の空気がどこか重くなり、背筋に冷たいものが走った。
「ねえ、あなたも織ってみる?」
八重子が静かにそう提案した時、私はなぜか断ることができなかった。彼女が差し出した赫い糸を手に取り、織機に向かう。糸を織るたびに、頭の中に様々な映像が浮かび上がった。それは、私がこれまでに感じたことのある感情、過ごした日々、そして――八重子との日々だった。
織り上げた布は、不思議と温かく、赫い色が燃えるように広がっていた。
「これが、あなたの想い。」
八重子はそう言って、布を静かに手に取った。
次の日、八重子は旅館から姿を消した。彼女の気配が消えた後も、織機だけはその部屋に残されていた。私は彼女が夢だったのではないかと思い始めたが、赫い布は確かにそこにあった。
あの赫い布には、きっと八重子の想いも織り込まれている。私はそう信じている。そしてその布を手に取るたびに、彼女の声が聞こえるような気がしてならない――
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