第15編「裂け目の向こうで私たちは」(名前を失った世界でも、私たちは愛を選び取る)
砂漠を渡る風は、いつもその名を告げることなく吹き抜けていく。ただ乾きと静寂だけを残し、彼女たちの肌をひりつかせる。遠くには終わりのない地平線が広がり、空は虚ろな青一色だ。彼女たち――ノアとリラ――は、無言のままその大地を進む。
彼女たちは世界から追放された者たちだった。正確には「者」という言葉すらこの場にはそぐわない。ノアはかつて「男」でも「女」でもない存在として、都市の中でその身体を剥奪され、名前を失った。リラもまた、社会が押しつける役割の中で生きることを拒み、境界の外へと追いやられた。
二人が出会ったのは、砂漠の裂け目だった。風が渦を巻き、砂嵐が襲う中、ノアが視界の中にリラを見つけたのは偶然だった。リラは小さな岩陰に身を寄せ、顔に巻いた布越しにただノアを見つめていた。
「逃げる途中?」
ノアがそう尋ねると、リラは頷きもせずにただ「あなたも」とだけ答えた。その一言が、二人の物語の始まりだった。
二人は言葉を必要としない。名前すら必要ではない。砂漠では、身体を保つことが最優先だ。互いの身体に触れるのも、冷えた夜の寒さを凌ぐためのことであり、そこに意味を求める者はいない。けれど、ノアとリラの間には、確かに何かが芽生え始めていた。
砂漠には時間がない。昼と夜が交互に巡る以外に、何も変化がない。彼女たちは裂け目を超えた先にあると言われる「新たな土地」を目指している。その土地がどこにあるのか、あるいは本当に存在するのかさえ、誰も知らない。
「私たちが目指しているものは、何?」
リラが初めてそう問いかけた夜、ノアは焚火の炎をじっと見つめたまま、答えを返さなかった。沈黙は長く続いたが、それは不快ではなく、むしろ親密さを孕んでいた。やがてノアは、ぽつりと呟いた。
「多分、自由。」
リラはその言葉を飲み込み、砂漠の冷たい空気を吸い込んだ。自由とは何か。身体が奪われた者にとって、自由とは何を意味するのか。
やがて彼女たちは、朽ちた廃墟にたどり着いた。壁には、かつての支配者たちの痕跡が残っている。「男」と「女」とが明確に分けられ、従属と支配が制度化された世界。リラはその壁を見つめながら、そっとノアの手を取った。その感触は乾いた砂漠の中ではありえないほど暖かかった。
「私たちは、彼らとは違う。」
ノアはリラの目を見つめ、静かに言った。それは誓いだった。彼女たちが新たな土地を見つけたとしても、そこを支配するのは「男」でも「女」でもない、「彼ら」のような制度でもない。
二人は焚火の傍ら、互いの身体を重ねる。そこには名前も、役割も、過去も存在しない。ただ二つの身体が、風の音と炎の揺らめきの中でひとつに溶け合うだけだ。
彼女たちが裂け目を越えるその日、砂漠の空は赤く燃えるような朝焼けに包まれていた。その光は希望か、それともまた別の苦難の始まりかはわからない。ただ彼女たちは歩き続ける。新たな地平線の先に、自らの手で自由を見出すために。




