第1241編「「ふたり分の呼吸(いき)」」
夜のアトリエには、カフェインとインクの香りが満ちていた。机の上には何枚ものスケッチと図面、使いかけのカラーチューブ、そして読みかけの美術書。
「栞、もう朝になっちゃうよ」
彩葉がソファからこちらを見て、困ったように笑った。ゆるくまとめた髪がほどけかけて、肩にかかっている。
「もうちょっとだけ……この線の流れが、どうしても納得いかなくて」
私はシャーペンを握り直し、紙に向かった。鉛筆の芯がカリカリと音を立てる。
「でも、昨日も寝てないでしょ?」
彩葉が立ち上がり、私の背後にまわる。ふわりと柔らかい毛布の感触。
「ほら、これかけて。寒いでしょ?」
「……ありがと」
彼女の指がそっと私の肩に触れる。その温度に、少しだけ心がほぐれた。
「でも、彩葉こそ眠れてる? 最近、ずっと私に付き合ってくれてるけど」
彼女は少し口を尖らせた。
「お互いさまでしょ? 栞ががんばってるのに、私だけ休むなんてできないよ」
「……そっか」
私は手を止め、彼女の方を見上げた。
「でも、ちゃんと休んでほしいのは、本当だよ」
彩葉は小さく息をついて、私の髪をそっと撫でた。
「それは、おたがいさま」
その手が、私の指と絡む。
「ねえ、栞。どっちかが崩れたら、一緒に倒れちゃうんだから。だから、私たちはふたりでバランスを取らなきゃダメ」
「……うん」
彼女の手を、ぎゅっと握り返す。
ひとりでは立っていられなくても、ふたりなら支え合える——それだけで、この世界は少しだけ優しくなる。それがこの世界における、たったひとつの真実。




