第1225編「白百合の残り香」
大正も終わろうとしている頃、港を見下ろす丘の上に、白亜の校舎が聳え立っていた。厳格な規律で知られる聖マグダレナ女学院。その寄宿舎の一室で、園田椿は窓の外を眺めていた。眼下に広がるのは、灰色がかった海。彼女自身の未来のように、どこか靄がかっている。椿は地元の裕福な商家の一人娘で、学院を卒業すれば、親が決めた相手と結婚することが定められていた。その運命に、漠然とした息苦しさを感じながらも、ただ、読書の世界にだけ安らぎを見出していた。
二学期が始まった日、教室に新しい風が吹き込んだ。転校生、一条澪。長く艶やかな黒髪を無造作に束ね、他の生徒が身に着けている質素な制服とは明らかに違う、どこか影のある美しさを放っていた。その瞳は、挑戦的でありながら、深い孤独の色を湛えているようにも見えた。教師は彼女を、東京の華族の縁戚だと紹介したが、それ以上のことは語られなかった。
澪は、誰とも馴れ合おうとはしなかった。休み時間には一人で図書室に籠り、西洋の詩集や哲学書を読み耽っている。その孤高な姿に、椿はなぜか目を離すことができなかった。ある雨の日、図書室で偶然隣り合わせになった。椿が読んでいたのは、与謝野晶子の歌集だった。
「……『みだれ髪』、ですか。情熱的ですね」
不意にかけられた声に、椿は顔を上げた。澪が、静かな微笑みを浮かべてこちらを見ていた。
「ええ……あの、一条さんも、お好きなんですか?」
「ええ。抑えつけられた感情が、言葉の奔流となって溢れ出す……そういうものに惹かれます」
その言葉は、まるで椿自身の心の奥底を見透かしているかのようだった。その日から、二人は言葉を交わすようになった。最初は図書室で、次第に寄宿舎の椿の部屋で。澪は、椿が知らなかった世界の話をした。海外の自由な思想、新しい芸術の動き、そして、家柄や性別にとらわれずに生きようとする人々のこと。椿は、澪の話を聞くたびに、胸が高鳴るのを感じた。決められた未来しか知らなかった彼女の世界が、鮮やかに色づき始めるようだった。
澪もまた、椿の持つ純粋さ、そして内面に秘められた芯の強さに惹かれていた。椿は、澪が時折見せる寂しげな表情の奥にあるものを、理解したいと願った。
「椿さんは、まるで白百合のようですね。清らかで、凛としていて……でも、その花弁の下には、強い情熱を隠している」
礼拝堂の帰り道、澪がぽつりと言った。椿は頬を染め、うつむいた。澪の言葉は、いつも椿の心の最も柔らかな部分に触れる。
二人の親密さは、学院の中で次第に噂されるようになった。「姉妹」の関係を超えた、特別な絆。それは、この厳格な女学院においては、決して許されるものではなかった。教師たちの監視の目は厳しくなり、級友たちもどこか距離を置くようになった。
椿の心は揺れた。澪への想いは、友情なのだろうか。それとも、もっと別の……名前をつけることをためらわれるような、激しい感情なのだろうか。決められた許嫁がいる。家の期待もある。澪との関係は、すべてを壊してしまうかもしれない危険なものだった。
ある晩、寄宿舎の消灯時間を過ぎて、椿は澪の部屋を訪れた。澪は窓辺に座り、月明かりの下で何かを書いていた。
「……澪さん、眠れないの?」
「ええ、少し。……椿さんこそ」
澪は椿を手招きし、隣に座らせた。窓の外には、静かな夜の海が広がっている。
「私ね、ここに来る前……少し、厄介なことがあったんです」
澪は、ぽつりぽつりと自身のことを語り始めた。没落した家、望まぬ縁談から逃れるようにしてこの学院に来たこと、自由を求める心と、それを許さない現実との間で引き裂かれていること。その告白は、痛々しく、そして切実だった。
「でも、椿さんといると……少しだけ、息ができるような気がするんです」
澪はそう言って、椿の手をそっと握った。その手の温かさに、椿の心臓は大きく波打った。罪悪感と、抗いがたい幸福感が同時に押し寄せる。
「私……私も、澪さんといると、本当の自分でいられるような気がする……」
椿は、震える声で答えた。二人は見つめ合い、どちらからともなく、そっと唇を重ねた。それは、初めての、そして禁じられた口づけだった。白百合の蕾が、密やかに開いた瞬間だった。
しかし、幸せな時間は短かった。卒業が間近に迫り、二人の別れは避けられないものとなっていた。椿は故郷に帰り、家業を継ぐ男性と結婚する。澪は、わずかな縁を頼って東京へ行き、自立の道を探すという。
卒業式の前夜、二人は学院の裏手にある、白百合の咲く小さな庭で会った。
「……手紙を書きます。必ず」
澪が言った。
「ええ……私も。でも、私たちの手紙は、きっと誰かに読まれてしまうわ」
椿の声は悲しみに濡れていた。
「それでも、書きます。言葉にならない想いも、行間に込めて」
二人は、互いの存在が、これからの人生の支えになることを、言葉少なに確かめ合った。それは、成就することのない愛の、切ない誓いだった。
数年の歳月が流れた。昭和に入り、時代は少しずつ不穏な空気を纏い始めていた。椿は、故郷で許嫁だった男性と結婚し、妻として、母として、穏やかだがどこか満たされない日々を送っていた。夫は実直な人だったが、椿の心の奥底にある渇望を満たすことはできなかった。本棚の奥に隠した澪からの手紙を、時折読み返すことだけが、椿の密かな慰めだった。
ある日、椿は夫が購読している新聞の片隅に、小さな記事を見つけた。東京で、自由思想を唱える演劇活動に関わっていた女性たちが、治安維持法違反の容疑で検挙されたという記事だった。その中に、「一条澪」という名前があった。椿は、血の気が引くのを感じた。
椿は、数日間悩み続けた。夫に知られれば、家庭は崩壊するかもしれない。社会的な立場も危うくなる。しかし、澪が困難な状況にあることを知りながら、何もしないでいることはできなかった。かつて澪が与えてくれた、自由への憧れ。そして、今も胸の奥で燃え続ける、彼女への消えない想い。それが、椿を突き動かした。
椿は、夫に内緒でなけなしの貯えをかき集め、東京へ向かう汽車に乗った。人づてに澪の状況を調べ、弁護士を雇うための費用を届けようと考えたのだ。それは、椿にとって、人生で最大の、そして最も危険な決断だった。
留置所にいる澪との面会は、短い時間しか許されなかった。やつれていたが、澪の瞳には、かつての凛とした光が宿っていた。
「……椿さん、どうして……」
澪は驚きと戸惑いの表情を浮かべた。
「あなたを、放っておけなかったから」
椿は、格子越しに澪の手を握った。あの夜と同じ、温かい手だった。
「……馬鹿ね、椿さんは。自分の立場が危うくなるのに」
「いいの。あなたと出会って、私は初めて『生きる』ことを知った。あなたからもらったものを、少しでも返したかっただけ」
短い面会の間、二人は多くを語らなかった。しかし、互いの目を見れば、言葉にしなくても想いは通じ合っていた。変わらない魂の繋がりが、そこには確かに存在していた。
椿の行動が功を奏したのか、あるいは時代の気まぐれか、澪はほどなくして釈放された。しかし、二人が再び自由に会える日は、すぐには訪れなかった。戦争の影が、すぐそこまで迫っていたからだ。
椿は故郷へ帰り、再び日常の中へと戻っていった。澪は、監視の目が光る中、静かに身を潜めるようにして暮らしていると風の便りに聞いた。二人が再び言葉を交わすことは、ついになかった。
それでも、椿は後悔していなかった。心の奥には、いつも澪の存在があった。彼女がくれた自由への渇望、そして、禁じられた愛の記憶。それは、椿が息苦しい現実の中で、自分自身を見失わずに生きていくための、密やかな支えとなった。
戦後、すべてが変わり果てた世界で、椿はふと、あの白百合の庭を思い出すことがあった。儚く散った恋。しかし、その残り香は、人生という名の、時に残酷で、それでも愛おしい道のりを歩む椿の心に、いつまでも深く、静かに漂い続けているのだった。それは、誰にも奪うことのできない、二人の魂の絆の証だった。
(了)