第1174編「水星式恋愛論」(重力の違う星で、ふたりの距離は変わるのか?)
地球の恋愛は、重すぎる。
そう言ったのはエリスだった。
「私たち、いっそ地球の引力から逃げ出さない?」
私はコーヒーカップを持ち上げたまま、彼女を見つめた。
「また突拍子もないことを……」
「でも、本気で考えたことあるでしょ?」
「あるわけない」
そう言いながら、私はふと考えてしまった。
もし、恋愛に重力が関係するなら。
もっと軽やかに、もっと自由に、もっと思いのままに――そんな愛の形が、違う星にはあるのだろうか?
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「だから、水星に行くの」
「は?」
エリスは、宇宙船のフライトチケットをひらひらと振った。
「私たち、水星でデートしよう」
「デートって、そんな気軽に言うような場所じゃないでしょう!?」
「いいえ、水星は最適なのよ。だって、地球の約0.38倍の重力。つまり、感情の重さも0.38倍になる」
「……そんな理屈、初めて聞いたわ」
「それに、水星の一日は地球の176日分。長い夜をふたりで過ごすのに、ぴったりでしょう?」
私は、呆れながらも、心のどこかでワクワクしている自分を自覚していた。
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――そして、水星。
宇宙服のなかで、エリスが笑っている。
「どう? 軽くなった気がする?」
「……まあ、歩くのは楽ね」
「それだけ?」
彼女は私の手を取った。
確かに、手のひらの温度は変わらないはずなのに、心のどこかがふわりと浮くような感覚がある。
「恋って、重力に左右されるものなのかしら?」
「ううん。重力に左右されるんじゃなくて、場所が変わると、見え方も変わるってことよ」
「それってつまり……」
「私たちは、どこにいても“私たち”だけど、場所によって愛の形が変わるってこと」
私は、宇宙ヘルメット越しに、エリスの顔をじっと見つめた。
水星の夜は長い。
だから、この恋もゆっくりと進めばいい。
(了)