第1007編「掌の上の真理」(言葉が交わるたび、あなたの輪郭が鮮やかになる)
**「すべての出会いは、世界の形をわずかに変える。」**
机の上に、ノートが一冊。淡いインクで書かれた文字が、夕暮れの光を受けて薄く滲んでいる。その一行に、琴音はそっと指を這わせた。
「また、妙なことを書いてるわね」
向かいに座る栞が、くすりと笑う。彼女の指が、琴音のノートの端を軽く摘まむ。
「妙?」
琴音は片眉を上げる。
「だって、そんなの当たり前じゃない? 誰かに出会えば、その分だけ何かが変わるでしょ?」
「でも、どんなふうに変わるかはわからないわ」
琴音はゆっくりとノートを閉じた。
「私たちは ‘言葉’ によって変わるのよ、栞」
栞は少しだけ首を傾げた。
「言葉?」
「そう。言葉は、それ自体が ‘関係’ なの。発した瞬間に、相手との距離を決めるもの」
栞は黙って琴音を見つめた。
**——では、私たちの間にある言葉は、いまどんな距離を示しているのだろう?**
***
**「真理は言葉の外にある。けれど、言葉なしに真理を知ることはできない。」**
栞の指先が、琴音の手の近くに触れる。
「ねえ、琴音」
「なに?」
「私と話してるとき、どんな ‘言葉の距離’ を感じてる?」
琴音は一瞬だけ息を止めた。
ノートの上で揺れる影が、机の木目と静かに溶け合う。
「……近いわ」
「そう?」
「ええ。でも、まだ ‘完全に’ ではない」
「じゃあ、どうしたら ‘完全に近づける’ んだと思う?」
琴音は、ノートのページをめくる。その指先を、栞がふと見つめる。
「言葉の外に出ることよ」
「……言葉の外?」
「そう。言葉は ‘関係’ だけど、本当の距離は、言葉の ‘向こう側’ にあるのよ」
栞は、小さく笑った。
「つまり……私たちは ‘言葉を超えた関係’ を目指せばいいの?」
琴音は視線を逸らす。
「……そういうことになるわね」
栞の指が、ゆっくりと琴音の手の甲に触れた。
それは、まるで筆の先が紙の上をすべるように、そっと。
**——言葉では測れない距離が、静かに生まれ始める。**
***
**「すべての沈黙には、意味がある。」**
栞は、琴音の手を包むようにして、そっと握った。
「ねえ、琴音」
「……なに?」
「今の ‘言葉の外’ にあるものって、なんだと思う?」
琴音は息をのむ。
栞の指が、わずかに動く。そのたびに、琴音の肌の上で、微細な波紋が広がるようだった。
言葉が消えていく。
音ではない何かが、ふたりの間に満ちていく。
もはや、彼女たちに言葉は不要だった。
距離は、もう測るものではない。
**——それは、いま、ただ ‘ここ’ にある。**