第1編「君が触れるこの世界」(完璧する彼女に、わたしは……)
高校二年の春、私はこの世界の法則がひとつ崩れる音を聞いた。
それは、間宮千尋が私に微笑んだ瞬間だった。
教室の隅で本を読んでいた私に向けられた笑顔。奇跡のように美しく、恐ろしく、そして圧倒的だった。彼女はその日、クラスの誰にも同じような笑顔を見せたのだろうが、私の胸に刻まれたのは彼女だけだった。
──変だ、と感じた。
千尋は、完璧すぎる。
彼女の声は滑らかで、誰にでも同じ調子で響く。話す言葉には棘も熱もない。それなのに、彼女の存在が生み出す「場」の中にいると、誰もが安心し、魅了されてしまう。私も例外ではなかった。彼女を見つめるたびに胸が締め付けられるような感覚を覚えた。
でも、そんなことはどうでもよかったのかもしれない。だって私は、間宮千尋に恋をしてしまったのだから。
その日から、私の世界はすべてが歪み始めた。黒板に書かれた文字の意味が曖昧になり、授業中の先生の声が遠く響く。クラスメイトの顔も名前も、背景のモザイクに溶けていく。
千尋だけが、鮮明だった。
ある日、私は勇気を出して、彼女に話しかけた。
「間宮さん、今日の放課後、少し話せる?」
驚いたように目を見開いた彼女が、微笑む。その瞬間、私の時間が止まる。
「うん、いいよ。どこで待ち合わせる?」
心臓が飛び跳ねそうになるのを必死で抑えながら、校舎裏のベンチを指定した。
放課後。私は校舎裏のベンチで、息を殺して彼女を待った。
空は紫に染まり、風が髪を撫でる。千尋は、約束の時間ぴったりに現れた。
「待たせちゃったかな?」
「ううん、全然……。」
心臓の音がやけに大きく聞こえる。彼女は隣に座り、こちらを見つめていた。その目はまるで、すべてを見透かしているかのようだった。
「で、話ってなに?」
喉が乾く。何を話したかったのか、自分でも分からなくなってしまう。けれど、彼女の前では言葉を選んでいられなかった。
「間宮さんって、どんな世界に生きてるの?」
自分でも意味の分からない言葉が口をついて出た。けれど、千尋は驚きもせず、微笑んだまま答えた。
「私の世界?」
「そう。間宮さんが見てる世界って、どんな感じ?」
彼女は少しだけ黙り込んだ。そして、不意に小さく笑った。
「変わってるね、あなた。」
その言葉に、なぜか胸が温かくなる。彼女は空を見上げたまま、静かに話し始めた。
「私が見てる世界はね……たぶん、普通だと思う。けど、最近少しだけ変わったんだ。」
「変わった?」
彼女は私に目を向ける。その瞳には、かすかな揺らぎがあった。
「あなたが現れてから、色が増えたの。」
私の呼吸が止まる。彼女の言葉の意味を咀嚼する前に、彼女の指がそっと私の手に触れた。
その瞬間、世界が崩壊した。
空は紫から黄金へと変わり、風が虹色の粒子となって舞う。私たちを囲むすべてが色と音を帯び、無限の広がりを持つ。彼女の手が私の手に触れる、それだけで世界はこうも変わるのか。
「……ねえ、あなたも変わったでしょ?」
耳元で囁かれるその声に、私は頷くことしかできなかった。
そう、この瞬間、私たちは同じ世界を見ていた。