わたしの可愛い子豚侯爵さま〜愛しの子豚侯爵は婚約破棄をしたいらしい〜
「もう、本当にわたしを愛していないの? わたしの子豚ちゃん?」
わたしの声は震えていた。
だって、こんな、突然に……。
「ああ。愛してなどいない! 最初から愛などなかったのだ」
「そんな……嘘だと言って。わたしの、大切な子豚ちゃん……」
「やめて! 彼をそんな風に呼ばないで!」
彼の隣に立っている女が、キンキンする声で叫ぶ。
その叫び声で、夜会に勤しんでいたはずの周囲が、一気に色めき立った。
やれやれ。
あんまり大事にしたくなかったんだけれど、そうもいかないみたい。
周りの人々の視線や耳が、一斉に注がれる気配がした。
「彼のことを、豚、豚と馬鹿にするのもいい加減にしてください! あなたには人の心はないの? 悪口を言われた人がどれだけ傷つくか、悲しむのか考えたことはないの?」
「……傷ついていたのね。知らなかったわ、ごめんなさい」
「今さら謝ったって遅いぞ! この人でなしめ! お前が僕を『子豚ちゃん』とからかう度に、どれだけ傷ついてきたと思っているんだ?! 昔少し太っていたからと言って、それをネタにずっとからかい続けるとか、鬼の所業だろ?!」
「そうよそうよ! 今はこんなにすらっとしていて美しい彼の、一体どこが豚だというの?! 昔は昔。大切なのは今の彼でしょう? あなたは今の彼をちゃんと見ていないのね。だから彼を傷つけることしか言わないのだわ。本当に、とんだ悪女ね。あなたの存在は、彼にとって害悪にしかならないわ。彼の目の前からさっさと消えてちょうだい」
散々な言われように、強メンタルを自負するわたしも、さすがに傷つくわ。
わたしはただ、彼のことを愛しているだけなのに。
それに、わたしが今の彼をちゃんと見ていないですって?
わたしはおもむろに、胸元から眼鏡を取り出してかけた。
これをかけると、彼のことがよく見えるの。
眼鏡越しに見る彼は、キラキラと輝いていた。
やっぱりいつ見ても素敵ね、わたしの子豚ちゃん。
「わたしは、本当のことしか言ってないわ。だってやっぱり、あなたはわたしの愛しい『子豚ちゃん』だもの」
「この期に及んでまだ言うのか? しかも、何かとかける、その奇妙奇天烈なショッキングピンクの眼鏡にも、もう我慢がならない。いいか、よく聞け。お前との婚約は破棄する!」
「えっ……」
「ははっ! さすがに驚いたようだな。お前のその絶望の表情が見られて嬉しいよ。その眼鏡が邪魔してるせいで、いまいちはっきりとは見えないのが残念だ」
彼は、呆然としているわたしの顔をせせら笑った。
「わたしとの、婚約を、破棄、する?」
「そうだ。そして、彼女と婚約を結び直す!」
「侯爵様! 嬉しいです!」
ぐっと彼に抱き寄せられた彼女は、嬉しそうに頬を染めながら、微笑んだ。
ああ、あなたは本気なのね。
本気でその女を、わたしの代わりにしようとしているのね。
浮気ならばよかったのに。
今までは浮気だと思ったから、わたしのことをおざなりにしていても許そうと思っていた。それほどまでにわたしの愛は深かったのだもの。
ただ、許すのはあくまで浮気まで。本気になったらダメなのに。
だけど――。
「あなたは本気なのね」
「本気だ」
「本当にもう、わたしを愛していないのね」
「だから、愛していないと言っただろうが。今までも、お前を愛したことなどなかった。むしろずっと嫌いだった! 今は、その声を聞いただけで虫唾が走るし、とりあえずその不快な眼鏡を外せ!」
わたしを嫌うあまり、眼鏡までも不快に感じるほどなのね。
とっても悲しいけれど、もう修復は無理なのだということは、わたしにもよくわかった。
「ねぇ、あなた。あなたは、本当に彼を愛しているの?」
わたしは、今度は彼女に問いかけた。
彼女は、わたしをきっ!と睨みつけながら答えた。
「はい、私は彼を愛しています。あなたが傷つけ続けた彼の心を、私は一生かかっても癒やし続けるわ。それから、とりあえずあなたはその、ふざけた眼鏡を外しなさいよ。こっちは真面目な話をしてるのよ?!」
「はぁ……わかったわ。じゃあ、これからはあなたが彼に愛情を注いであげてね」
「もちろんよ! あなたなんかに心配されなくても、わたしがたくさんの愛情を注いで、彼を幸せにしてみせるわ!」
「嫌われていようと、何と言われようと、彼はわたしの大切な人だったの。彼をわたしから奪うからには、彼の一生に責任を持つと誓って?」
「当たり前でしょう?」
自信満々な彼女からの返事を聞いてから、わたしは再度彼と目を合わせた。
「あなたもそれでいいのね? 彼女に愛されてそれで満足だと、わたしの愛はもう必要ないと、そう言うのね?」
「当然だ。何が愛なものか。毎日お前に豚、豚と罵られて、おかしくなりそうだった僕を、彼女が救ってくれたんだ。これからの僕の人生に、お前など必要ない!」
その言葉を聞いたわたしはうなだれた。
「そう。もうあの頃には戻れないのね。はぁ……では、婚約破棄の契約書と、彼と彼女の新しい婚約の契約書を」
わたしは、側に控えていた従者を手招きした。
「はい」
すすっと前に歩み出た従者は、さっと二枚の羊皮紙を取り出した。
一枚は、わたしとの婚約を破棄するための書類。
そしてもう一枚は、彼と彼女が新しい婚約を結ぶための契約書。
わたしと彼は、婚約破棄の書類にサインをして。
彼と彼女は、新しい婚約の契約書にサインをした。
「手続きは済んだぞ。さっさと出て行け、この魔女め! 二度と僕たちの前に現れるな!」
それが、今のあなたの望みなのね。
「わかったわ。彼女とお幸せにね」
わたしと彼の仲はこれでおしまい。
そう思うと、今まで堪えていた涙が、ぽろり、と一粒こぼれ落ちた。
せっかく、目元を眼鏡で隠していたのに台無しね。
わたしは、彼の幸せのために歩き出す。
彼との思い出を心に抱いたまま、彼から遠ざかる。
一歩、また一歩。
そうよ。彼の言う通り。
わたしは、悪女じゃなくて魔女なのよ。
彼は、目も心も腐ってしまったけど、最後に見たものは正しかったのだわ。なんてね。
わたしが一歩遠ざかるごとに、解けるのは彼にかけた魔法。
わたしが遠ざかるごとに豚に近づく彼の姿。
それは、単なる体型の比喩でもなんでもない。
正真正銘ただの豚。
一歩で彼の頭には耳が生え。
二歩目で尻尾が生え。
三歩目で手足が蹄に代わり。
四歩、五歩で姿も豚になる。
ああ、本当に可愛い子豚だったのに。
愛を注いで人間にして。
金を注いで侯爵にして。
そうして磨きながら育て上げた、可愛い可愛い子豚侯爵が。
とうとうわたしの手を離れてしまった。
背後に響き渡るのは、けたたましい獣の鳴き声と女の金切り声。
そして、今宵の夜会に集った人々の悲鳴らしきものが聞こえてくるけれど――もう、どうでもいいわね。
さようなら、わたしの可愛い子豚ちゃん。
「悪いお人ですね」
グスグスと鼻を鳴らしながら歩いていると、貴族の従者のフリをした、不肖の弟子が話しかけてきた。
「何が?」
「こうなることをわかっていながら、彼にかけた魔法のことは、何もおっしゃらなかったのでしょう? あなたからの愛情の供給が途絶えたら、彼がただの豚に戻ってしまうということを」
「だって、本当に愛していたんだもの。彼は自分を人間だと思い込んでいたから、自分の正体が豚だなんて知ったら傷つくのはわかっていたもの。だから、遠回しに自覚させようとしていたつもりなんだけど……ダメだったみたいね」
「まぁ『可愛い子豚ちゃん』は、豚にとっては褒め言葉でも、人間にとっては侮蔑の言葉も同様ですからね」
「あら、そうなの?」
「はい。ですから、彼が人間に近づくに従って、感じ方も変わっていったのでしょうね」
「本当に愛情を込めて呼んでいたのに……わたしは彼を傷つけていただけだったのね」
「ぶひぶひぶひぃ―――っ!」
その時、人の群れをかき分けて、一頭の豚が駆け寄ってきた。
哀れみを誘うような、つぶらな瞳で見てくる桃色の豚。
その姿になって、ようやく思い出したのね、子豚ちゃん。
『豚の姿では君を抱きしめることができない』
そう鳴きながら、人間になることを望んだ過去の自分を。
けれど、もう遅いの。
婚約という契約を破棄したことで、わたしからあなたへの愛情の供給ラインは途絶えてしまったのよ。
もちろん、あなたが断ち切ったのだけれど。
もう、わたしがどんなにあなたへの愛を叫んでも、その愛で人間に戻ることはないでしょう。
そういうことも含めて、契約時に伝えていたのだけれど、豚だったから忘れてしまったのね、きっと。
気づくのがもう少し早ければ、まだ修復ができたかもしれないのだけれど。
「ごめんなさい。そんな目で見つめられても、もう、わたしがあなたとよりを戻すことはできないの」
「ぷっぷぎぃぃ――っ!!!」
「いいこと、子豚ちゃん? これが愛しいあなたに贈る、最後のプレゼントよ。実は、あなたにかけた人間になる魔法は、まだ完全には解いていないの。新しい契約書を交わしておいたから、彼女からの愛が本物なら、あなたはそのうちまた人間に戻れるはずよ。あなたが人間の姿を保つには、絶え間のない愛情の供給が必要だってことを、今度こそ忘れないでね」
ぶるぶると身を震わせる彼の姿を見て、わたしも悲しくなった。
でもわたしは、それ以上言葉をかけることができなくて。
ブヒブヒと必死に擦り寄ろうとする彼の額に、キスを一つ落とした。
「さようなら、わたしの子豚ちゃん」
素直で可愛いわたしの子豚ちゃん。
できることならばずっと、あなたの側にいたかったけれど。
あなたの前から去ることを約束してしまったから、その願いは叶わない。
魔女の約束は誓約と同じ。破ることができないから。
外に出て眼鏡を外すと、溜まっていた涙がドバッとこぼれ落ちてきて、その滑稽さに思わず笑ってしまった。
珍しく気を利かせた不肖の弟子が、ハンカチを差し出してきたので、ぐしぐしと涙を拭いた後、わたしは一度だけ夜会の会場を振り返った。
先ほどまでの喧騒が嘘のように、辺りは静まり返っていた。
◇◇◇
「はぁぁ……本当に、別れが辛かったなぁ。子豚ちゃん、これからどうなるのかしら?」
大陸行きの列車に乗ったわたしは、ふかふかの背もたれに後頭部を埋めつつ、つぶやいた。
もう、わたしの子豚ちゃんではなくなった彼のことに思いを馳せながら、窓の外を見る。
「まだ彼のことが気になってるんですか? 新しい婚約者に愛されて幸せになるって、自分で言っていたではないですか」
やや不機嫌な声で答えたのは、わたしの隣に座る不肖の弟子。
「そうだけど。理屈じゃないのよ、こういうのは」
「そうですか」
「ああぁぁぁ〜! 彼女に可愛がってもらえてるといいんだけど」
「そんなに後悔なさるなら、なぜ手放したりしたんですか? あなたは魔女なのですから、恋敵の彼女を人知れず排除するなり、どうとでもできたでしょう?」
「なに怖いこと言ってるのよ、あなた? わたしは、昔話の魔女みたいに、悪いことに魔法を使いたくないの。それに、子豚ちゃんがもうわたしの顔も見たくないって、嫌いだって言ってたし……」
自分で言ってて、段々と落ち込んでくる。
好きな人に『顔も見たくない』『嫌いだ』って言われて、もう頑張れなかったのだ。
確かに、あれ? 最近ちょっと子豚ちゃんの態度が冷たいなぁって思っていたんだけど。
まさかあそこまで嫌われていただなんて。
魔女だからなのか、元々人の感情を察するのが少し苦手なのよね。
魔女は思ったことはすぐ口に出すし、おかしな比喩を使って遠回しに伝えたりなんかもしない。
好きなものは好き。
嫌いなものは嫌い。
古い魔女も新しい魔女も、その辺の性格はみんな同じ。
だけど、人間の心って難しい。
「こうなったら、新しい子豚ちゃんを探すしかないわね」
失恋の傷は、新しい恋で癒すもの。
何年か前に会った、先輩魔女がそう言っていたわ。
すると、ますますしかめっ面になった弟子がつぶやいた。
「……私では、ダメなのですか?」
「えっ?」
「あなたの可愛い『子豚ちゃん』が、私ではダメなのかと聞いているのです!」
「何よ。変な慰めとかいらないわよ? 大体、あなたは人間でしょう? 子豚ちゃんじゃないわ」
「お忘れですか? 私も元は子豚だったのですよ?」
えっ? そうだっけ?
わたしは、今の今まで、列車の窓越しに見ていた彼を振り返った。
「やはりお忘れなんですね。まぁ、もう何十年も前の話ですから、お忘れになっても仕方がありませんが」
わたしは慌てて胸元から、ショッキングピンクの眼鏡を取り出してかけた。
恐る恐る、彼の姿を見てみると――なんと、人間だと思い込んでいた彼の姿が、白と黒のツートンカラーの豚に変わった。
「あっ!」
これは、相手の本質を見抜く眼鏡なのだ。
例え魔法で姿を変えていても、この眼鏡をかければ、元の姿を見ることができる。
だから、あの桃色の子豚ちゃんと会う時も、時々かけては可愛い子豚姿を愛でて、堪能していた。
彼は、この眼鏡も気に入らなかったみたいだけれど。
「あなたは――子豚のモーリス!?」
「はい、あなたのモーリスですよ」
彼は、わたしの眼鏡を外しながらニッコリと笑った。
「だから、あなたの次の相手にピッタリだと思うんです」
そうだった。
なぜ忘れていたんだろう。
この子も、わたしの可愛い子豚ちゃんだったのだ。
何十年と当たり前のように隣にいて、最近は生意気な口しかきかなくなったから、すっかり忘れていたわ。
「私は、あなたからの愛情を常に感じておりましたよ。私の可愛い魔女さん」
「子豚ちゃん……」
「はい、私はあなただけの子豚ちゃんです」
草原のような淡いグリーンの瞳に、今までにないほど優しげな光を瞳に宿しながら、不肖の弟子はそっとわたしを抱き寄せた。
ああ、彼から香るお日様の匂い!
それと、干草の香り!
「ねぇ、あなたはいつまでも側にいてくれる?」
「はい、いつまでもあなたのお側に」
初めて耳にする甘い囁きに、わたしは顔が熱くなるのがわかった。
「じゃあ、次の新しい子豚ちゃんを探しに行きましょうか」
「えっ? 子豚ちゃんは私だけでいいではありませんか?!」
だって。
可愛い子豚ちゃんから愛を返された幸せな魔女は、もっと欲張りになってしまったもの。
次は、わたしを大好きな可愛い子豚ちゃんが、ヤキモチを焼いてくれるところを見たくなってしまったの。
わたしは、列車の窓を開けて、後ろへと流れゆく景色に向かって叫んだ。
「次の子豚ちゃーん、待っててね〜!」
「そ、そんなぁ」
(完)
お読み下さりありがとうございました!