3−6
こん。
擬音にするならそんな音だろうか。
金属質な音がした。
けれど、それは人の喉が出した音で、次にはギターが、鳴いた。
アヤが地面に座り込んでいる。
黒い髪を乱し、咳をなんとか押し殺し。
時折、殺しきれない咳が金属質な音を立てた。
顔色は赤くはなく、熱は無さそうだ。
と、ベースを置き、駆け寄りながらも思った。
ボリュームを絞っていないベースが鳴く。
とりあえず水の入ったペットボトルを渡すと、アヤは焦点の合わない瞳でそれを受け取る。
息をする度、何か硬いものを引っ掻いたような音がする。
「保健室の先生呼んでくる?」
アヤは苦しそうに喘ぎながら頷く。
僕は動揺しながら、駆け出す。
ベースのシールドコードが足に引っかかりアンプから抜ける。
酷い音が響いた。
リノリウムの廊下を駆ける。
曲がり角で生徒にぶつかりそうになりつつも保健室へ。
気付かない内に切れた息の上、混乱した頭で
「アヤが……音楽室……咳が」
と、文章にならなかったが、保健室の先生は、それだけで理解したらしく、立ち上がった。「音楽部室の結城くんだね」
保健室の先生は二十半ばの齢で、その手の男子には人気の美人だ。
白衣を揺らしながら先生は歩く。
「彼女の持病、知ってるかい?」
先生は落ち着いた調子で言う。
「いえ、何かあるんですか?」
できることなら走りたい程焦りながらもその落ち着いた態度に少し、冷静さを取り戻す。
「そう、言ってなかったの」
はぁ、と溜め息をついてアップにした髪をがしがしと掻く先生。
部室の前に着く。
アヤが目線を上げる。
乱れた髪が口の端に張り付いていた。
「白沢、先生」
そういえば、そういう名前だった。
「無理に話さなくてもいいわよ」
そう言って白沢先生はアヤに近づく。
「まったく、無茶をするわね」
アヤがギターのボリュームを絞って、下ろす。
「君、結城くんのカバン取って」
少し戸惑いながら、アヤのカバンを白沢先生に渡す。
「薬は?」
アヤが咳き込みながら首を横に振る。
「ちゃんと飲まないと」
「薬、嫌いだから」
白沢先生がカバンを渡す。
薬の袋を取り出して、吸入薬を取り出すアヤ。
「ちゃんと周りの人に言って、気をつけてもらいなさい?」
そう言ってこっちを見る白沢先生。
「でも」
「でももしかもないの」
ふぅ、と溜め息をつく先生。
「君、何て言ったかしら?」
どうやら名前を聞かれているらしい。
「向坂です」
「じゃ、向坂くん、綾ちゃんを送ってあげて」
アヤの家に?
意味もなく動揺している自分を自覚した。
「男の子なんだから、ちゃんとエスコートするのよ」
アヤは青白い顔をして突っ込む気力も無い様子。
「分かりました」
とりあえずアンプの電源を落としてベースを片付ける。
アヤの発作も少し収まったらしく、僕がやると言うのを制止して息切れしながらもギターを片付けていた。
「気をつけて帰るのよ」
という先生に頷き、歩き出す。
廊下ですれ違う生徒がアヤの様子に怪訝そうな顔をするのをうざったく思いつつ、昇降口へ。
「家、近いの?」
アヤは弱く首を横に振る。
少し迷って携帯を出してタクシーを呼ぶ。
校門の桜はとっくに青々と。
「ギター持つよ」
つらそうなアヤに手を差し出すと、ギターを渡してくれる。
「部室に置いてきても良かったんじゃないかな」
というと、弱々しくも決然と。
「私のムスタングを置いて行きたくない」
その気持ちは痛い程分かる。
ギタリストにとってのギターはただの楽器の域ではない。
ベーシストのベースもまた然りだ。
タクシーが来る。
僕は前席へ。
時折思い出したように咳き込むアヤを乗せてタクシーは走る。
何とか誘導してもらい、アヤの家の前へ。
着いたのはアパート。
自分が払うと言うのを固辞してアヤが全額出す。
「ここの五階」
息絶え絶えのアヤが言うが、エレベーターが有るようには見えない。
「……階段?」
頷くアヤ。
大丈夫かなと思いつつ、何とか上がる。
膝に手をつき息を整えるアヤ。
鍵を開けて中へ入ると天窓のあるアパートの最上階。
いや、鉄筋だとマンションと言うんだっけ。
ふらふらと部屋に向かうアヤ。
「……お邪魔します」
部屋に入ったアヤの後に続き躊躇いながら入る。
女の子の部屋なんて始めてだ。
いいのかなと思いながら入る。
ベッドに倒れ込んだアヤ。
床にはヤングギターやギターマガジンが転がっている。
脇のラックにはマンガと文学書が混ざっている。
「ギターどこに置けばいい?」
「ケースから出してスタンドに立てて」
言われた通りにしながらふと思う。
こんなに無防備なのは気を許しているのだろうか。
それとも男として見られてない?
咳き込むアヤ。
いや、気力が無いというのが一番か。
力のないぼんやりした瞳でアヤが姿勢を変え、座る。
「寝てた方がいいんじゃない?」
「座ってた方が楽」
上着を脱いでリボンを解くアヤ。
その姿にどきっとするのが止められなかった。
少し目を逸らす。
「ご両親は?」
こほ、と少し咳をするアヤ。
薬が効いてきたのか少し落ち着いている。
「父親は居ない。母親は仕事」
「そう」
アヤは少し首を傾げる。
「聞かないんだね」
「聞かれたい?」
ううん、と首をふるアヤ。
少し笑う。
「実はお姉ちゃんと私で父親が違うんだ」
秘密を共有する子供のように、笑うアヤ。
それは確かに納得できる話ではあった。
余り似ていないのだ。
漆黒の髪とか、同じ所もあるけれど。
そんなことを考えると、また少し意識してしまう。
「それじゃ、僕はもう行くね」
アヤが少し寂しそうな目をするけれど、それを口に出せる程、それに応える程、僕らには勇気がなかった。