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後編

「こんにちわ、瞳子さん」

「令佳さん」

 玄関を開けると、リネンの黒いマキシワンピ姿の令佳が買い物袋を片手に立っていた。

「サンドイッチの材料を買ってきたわ」

「ありがとう。後で精算させて。とりあえずどうぞあがって。散らかっているけど」

「あら、綺麗にしているわよ。私なんてお掃除、ついさぼってばかりで」

 そんな会話を交わしながら、瞳子はキッチンに令佳を通した。

「ゆで卵は作ってあるのよね?」

「ええ。殻を剥いて刻むだけよ」

「瞳子さんはマヨネーズ卵を作って下さる? 私はハムと野菜を切るから」

「ええ」


 あれから。


 瞳子と令佳は一緒にお茶しに行ったりする仲になっていた。瞳子は令佳に対して疑念を持たないではないが、令佳の方は何かと瞳子に話しかけてきて、それは懐いている。人の好い瞳子はついほだされ、無碍に出来ずにいる。

 今日は前日約束していた通り、瞳子の家でランチにサンドイッチを作るのだ。

「瞳子さん。お料理中に無作法だけど、お手洗いに行ってもいいかしら?」

「ええ。そこの廊下の右奥よ」

「ありがとう」

 そうして、令佳がその場を辞し、一人になって瞳子はふっと溜息を吐いた。


「瞳子さん? どうかした?」

 お手洗いから戻ってきて、また野菜を切り始めた令佳が瞳子に声をかけた。

「うん、何でもない」

(ああ。なんだろう。この嫌な感じ……)

 瞳子は自分の胸の内を眺めている。

 令佳は悪い人じゃない。あたりも優しいし、落ち着いている。年の近い姉が出来たような気がする時すらある。

 でも、そんな令佳と滝一の間には何かあるのではないか。

 どうしてもその疑念が拭えず、瞳子はゆで卵のみじん切りをしながら、思わず自分の指を切りそうになった。


 その時、令佳が瞳子を振り返り言った。

「その包丁、瞳子さん。ちょっと貸してくださらない? こっちのではよく切れないの」

「令佳さん……」

 瞳子は覚悟を決めるように、令佳の大きな黒い瞳を見つめて言った。

「うちの主人と令佳さん、どういう関係なの?」


 一瞬の間。

 令佳と瞳子の目が合い、空気が緊迫する。


 その緊張感に負けまいと、瞳子は必死で自分を鼓舞した。

 令佳の瞳の色が仄暗くゆらめいた。


 しかし、次の瞬間、

「ほほ。私と浜田さんの仲を疑っていたの? 可愛い方ね」

 令佳は何事もないような調子で続けた。

「浜田さんは大学時代の古い友人なの。そして、私の主人は浜田さんの会社の上司よ。主人がちょっと会社の事で悩んでいるようだから、主人のことで浜田さんにも相談に乗って頂いていたのよ。言えばややこしくなりそうだから言わなかったけど、貴女には余計な心配をかけたわね」

 そう笑みながら、令佳は瞳子を見つめる。

 それは優しく、慈愛の表情で。

「私の勘違い……。私の気のせいだったのね」

 気の抜けたような言葉が思わず瞳子の口から漏れていた。


 その時。

 ホッと瞳子が溜息をついたのは束の間だった。


 令佳は瞳子に向けてはっきりと、その手に握る包丁を向けた。

 その薄い刃はいぶし銀に鈍い光を放っている。


「……この泥棒猫……」


 令佳は、それまで聞いたことのない低くドスのきいた濁声だみこえで呟いた。

 令佳の目は血走っている。聖母のようないつもの笑みは消え、それはまるで鬼のような、そう般若と言うべき形相で瞳子を睨んでいる。

 そして、狂気をその身の内から迸らせながら叫んだ。

「教えてあげる。リュウちゃんの初めての女は私よ。リュウちゃんとつきあっていたのは私なのに、私からリュウちゃんを横取りするなんて! この性悪女!! あんたなんか地獄に落ちればいい」

 およそ普段の令佳とは思えない口汚さで瞳子を罵ると、令佳は突然、手にしている包丁を己が身に向け、そして自分の肩を刺したのだ!


「令佳さんっ!!」

 鮮血がその場に飛び散った。

 令佳は膝を崩しながら、切った左肩を押さえている。

 ゆらりと令佳の視線が揺らいだ。

 その目は仄暗く妖しい光を宿している。

 そして、令佳はやはり初めて会った時と同じように、口を大きく弓のように歪め、ニヤリ……と笑った。


 その時、遠くからサイレンの音が聞こえてきた。


「パトカー?」

 予期せぬ事態に激しく動揺しながらも、この閑静な住宅街には似つかわしくないそのけたたましい音に瞳子は訝る。

「来たわね。貴女……もう終わりよ」

 切れた肩を押さえながら、不気味に令佳が呟いた。

「どういう意味?!」

「ふふ。さっきトイレに行った時に警察に通報したのよ。この包丁には貴女の指紋がくまなくついてる。貴女に刺されたって警察には言うわ。貴女は私とリュウちゃんの仲を疑ってた。刺すことだってありえるってリュウちゃんは思うでしょうね」


 その時、玄関のインターフォンが鳴った。

 令佳はばっと身を翻した。

 そのまま玄関まで走り出て、

「助けて下さい! あの女に刺されて……」

 と、到着した警察君の胸に倒れ込んだ。

 瞳子は立ち尽くしたままだったが、瞳子の足下には令佳が投げ捨てた血のついた包丁が残っている。

「違います! 令佳さんが自分で勝手に!」

 警察官に身柄を確保されながら、瞳子は懸命に自己の身の潔白を訴えた。

「事情は署で聞きます」

 しかし、二人組の警察官はそう言うだけで、瞳子の言うことは何も聞き入れられず瞳子はその場で逮捕された。



 ◇◆◇



「お世話になりました」

 瞳子と滝一は深く頭を下げた。

「気をつけてお帰り下さい」

 警察官も一礼する。

 二人は警察署を後にし、呼んでいたタクシーに乗った。

 滝一が自宅の場所を告げると、滑るように車は走り出した。

 二人は暫く黙っていたままだったが、滝一がゆっくりと口火を切った。


「たしかに令佳とは大学生の頃付き合っていたよ。だが、彼女は異常者だった。束縛もヒドくて逃げるように別れたんだ。別れた後も数年は彼女のストーカー行為に怯えていた。だがお前と出逢い結婚して、絶対に家庭を、お前を守らなきゃならないと思ったよ。だがあいつは俺を探し出し、付けて来た。まさか俺の上司と結婚してまで俺を追いかけてくるなんて……。実は俺は、仕事でへまをしていてね。でもその弱みをあいつが握って俺を脅迫してくるとは……。だから、あいつに言われるがまま、早朝や夜中のコンビニや退社後にあいつと逢い引きをずるずると……」


 滝一は息を吐いた。


「家の中に監視カメラをつけていて本当に良かったよ。こんなことがあるかもしれないと思っていたんだ」

「あなた……」


 滝一の左隣で瞳子はぎゅっと滝一の右手を握った。


 あの後。

 すぐに滝一が動かぬ証拠として差し出した監視カメラの映像の結果、瞳子は程なく釈放される事になったのだ。

 しかし、取調室で自白を強要された恐怖は瞳子の身には骨の髄まで染みこんでいる。

 警察での処遇も怖かったが、あの時。

 自分の身を切りつけ、鮮血を飛び散らせながらも勝ち誇ったように狂った目で瞳子を見つめた令佳の瞳。

 美しい口元をグニャリと歪めたあの気味の悪い笑み。

 美しい大輪の赤い薔薇は自らの棘で自らを刺した。

 その狂い咲きのような凄惨なまでの令佳の生き様を、瞳子は一生忘れる事は出来ないと思う。


「怖かったわ……。あなた」

「もう大丈夫だよ。瞳子」

 滝一の胸に小さな顔を伏せた瞳子を滝一は右手で優しく抱き締めた。



 ◇◆◇



「ほら、瞳子」

「ありがとう。あなた」


 その晩。

 数日ぶりの我が家で、瞳子は熱燗を滝一からお酌されている。

「お疲れ。瞳子」

「あなた、本当にありがとう」

 二人で盃を合わせた。

「美味いな、この肉」

「そりゃあ、グラム二千円の松坂牛だもの」

 あんな目に遭ったのだ。このくらいの贅沢は許されるだろう。

 大好物のすき焼きに二人で舌鼓をうちながら、しかしふと瞳子は呟いた。

「でも、隣のご主人……。矢内さんも気の毒よね」

「矢内係長? 妻に言われるまま、部下の不祥事なんて社秘情報を漏らすような無能なあの人が?」

「だって、令佳さんはあなたのことを愛していて、あなたを追いかけるためだけに矢内さんと結婚した、てことでしょう?」

「まあ、そうだな」

「気の毒な人」

 矢内のことから瞳子は令佳のことに思いを馳せた。


 あんなに美しい人なのに。

 ストーカーの末の恋の結末は、塀の中……。

(私には理解できない。そんな自分勝手な独りよがりの愛なんて)

 瞳子と滝一は確かにお互い心から愛し合っている。

 その愛情、信頼感あってこその恋愛であり、結婚ではないのか。相手に疎まれ、受け入れてもらえない一方的な恋情なんて、あまりにも哀しすぎる。

「気の毒な人……」

 死ぬほどの恐怖を味わわせられたが、今、瞳子は心底、令佳を哀れに思っていた。


 その時、玄関のインターフォンが鳴った。


「今頃、誰かしら?」

「俺が出るよ」

 そう言って、滝一が席を立った。

 ドアの開く音がして、滝一の声が確かに聞こえた。

「矢内係長!」

(矢内?!)

 思わず瞳子も立ち上がった。

(今頃何だろう。謝罪にでも来たのかしら)

 そう思って瞳子も玄関に行った。

 だがしかし、瞳子が滝一の肩越しに見たものは矢内の血走っているまなこだった。 

 矢内は強張った笑みをひきつらせながら、憎々しげに吐き捨てた。


「まさか令佳が浜田君を好きだったとはね。全く笑えない冗談だ。しかし、僕は令佳を愛している。彼女が帰ってくるまでいつまでも彼女を待つよ。だから逮捕させた君たちが憎い。絶対に許さないからな。覚えておくといい」


 彼の瞳は令佳と同じように仄暗く妖しい光を放った。


「……ふ。ふはは。おまえ達。絶対に許さん。許さんぞ!」


 矢内は焦点の定まらない目でその場に立ち尽くし、ねじれて乾いた彼の笑い声が瞳子の耳に響き続けた。


 いつまでも。いつまでも────── 



   了





本作は家紋武範さまよりプロットを頂き、香月が執筆しました。

家紋さま、プロットを下さり、企画に参加させて頂いてどうもありがとうございました。

又、表紙は遥彼方さまに描いて頂きました。妖しく素敵な表紙をありがとうございました。

本作は、香月初のホラー作品です。

拙かったと思いますが、お読み頂いた方、本当にどうもありがとうございました。

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[良い点] 拝読しました。 令佳の登場シーンから口もとで読者に怪しさを匂わせて、 途中良い人を演出していく流れ、良かったです。 そしてラスト、一件落着と思わせてのどんでん返しも、 ドキドキ感を煽って…
[一言] ゾクゾクしました。 美しい隣人でしたっけ? あのドラマを思い出しました。 妖艶な美女に一度なってみたいものです。 (^^;
[良い点] 読んでいて引き込まれました。いや~、現実モノのホラーは想像し易いだけに怖い怖い。 [一言] 企画より拝読いたしました。 初のホラーとのことですが、とても雰囲気が出ていて良かったです。それ…
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