前編
五月の日差し眩しい清々しいある朝。
浜田瞳子は、小さなピンクの薔薇を綺麗に飾った自宅の玄関先で夫の滝一を見送っていた。
「あなた。ネクタイ曲がってる」
「ああ、直してくれよ」
「もう、いつまでたってもそんなんじゃ会社でやってけないわよ」
そう言いながらも瞳子は自分より少し背の高い滝一の胸元の赤いネクタイを微笑みながら整えている。
「いってらっしゃい」
「行ってくるよ」
二人は軽いハグとキスを交わす。それは新婚以来変わらない毎朝の光景だった。
瞳子は滝一を見送ると、家の前に出て掃き掃除を始めた。毎朝の単調な日課の一つ。でも、瞳子はその日常の幸せを誰よりも感じている。
瞳子より三歳年上の滝一は二十九歳で急成長中のベンチャー企業に勤めるサラリーマン。瞳子と結婚する少し前に敏腕を買われて転職したばかりの頼り甲斐のある優しい夫。小さいながらもマイホームも手に入れた。そろそろ子供もという話もしている。
(ああ、なんて私は幸せなんだろう)
抜けるような五月の青空を眺めながら、瞳子はしみじみと小さな幸せに今日も浸っていた。
不意にその時、車のブレーキ音がして、瞳子はふと横を向いた。
視線を遣った先には、お隣さんが引っ越していって空き家のままだった隣の家の前に、大きなトラックが二台止まっていた。
(引っ越し……?)
見るともなしに瞳子が見ている間にも、次々と大きな家具や荷物が家の中へと運び込まれていく。
その時だった。
様子を見ていた瞳子の息が一瞬、止まった。
(綺麗な人……!)
茶色のロングの髪を丁寧に巻き、ナチュラルにメイクした瞳子より少し年上と思われる一人の女性。シンプルな黒いマキシワンピースは一見して仕立てのいい上品なフレンチリネン素材。上から白いロングカーデを羽織っている。手脚が細長く、スタイルもいい彼女はその着こなしも垢抜けている。
女性の瞳子から見てもそれは妖艶で魅力的だ。
暫し見とれていると、彼女の視線が瞳子の方にゆっくりと向いた。
その時。
彼女は口を大きく弓のように曲げてニヤリと笑った。ニコリではない。ニヤリ。それはまるで……。
しかし次の瞬間、彼女は実に柔和な魅力的な笑顔で瞳子に近づいてくると言った。
「初めまして。この度、主人と二人で越してきた矢内令佳と申します。これ、つまらない物ですがお近づきの印に」
そう言って、引っ越し挨拶の品を折り目正しく、瞳子に手渡した。
「あ……、ご丁寧にどうも。浜田瞳子と申します」
(気のせい……。気のせいよね。さっきのあの……)
瞳子は自分の邪念を打ち消すように、笑みを返した。
彼女も穏やかな美しい笑みを湛えたまま瞳子を見つめている。
それはどこか妖しげな笑み。まるで勝負を挑んでいるような……。
(でも、笑い方なんて人それぞれ。人それぞれよ。彼女にとってはこれが普通なんだわ……)
瞳子はわけのわからない胸の動悸を抑えながら、そう自分に言い聞かせた。
◇◆◇
「ただいま」
「おかえりなさい、あなた」
その晩、八時過ぎ。滝一が帰宅するといつものようにハグを交わした後、瞳子はキッチンでコンロの鍋の火をつけた。
「今夜は何?」
「肉じゃがとほうれん草のおひたしとシジミのお味噌汁よ。シジミは体にいいから」
「美味そうだなあ」
スーツを脱ぎながら滝一は嬉しそうにキッチンを覗き込んでいる。食いしん坊の滝一はアフター5に外で飲んでくることも少なく、帰りが遅くなっても瞳子と二人で夕食を摂るようにしている。
「あなた、肉じゃが好きだものね」
そんな素朴なところがいいのよねと密かに瞳子は口元をほころばせながら、手早くささやかだが愛情たっぷりの食卓を整えた。
「そうそう。お隣に新しい人が引っ越してきたのよ」
「へえ。どんな?」
「それがすっごい、美人の奥さん!」
「へえー」
「何。あなた、見てみたいとか思ってるんでしょ!?」
「んなこと言ってないだろー」
「もう、美人に弱いんだから」
「だから、瞳子と結婚したんだろ」
「そ、そんなこと言ってごまかしてもダメよ!」
大袈裟に横を向いた瞳子に、
「お前だけだよ」
そんな殺し文句を滝一は瞳子の耳元で囁く。
「もー」
瞳子は初々しく顔を赤らめ、そうやって顔を寄せ合い仲良く笑う二人だった。
◇◆◇
「いってらっしゃい、あなた」
「行ってくるよ」
翌朝。変わらないキスとハグで瞳子は滝一を見送った。
しかし、家の中に戻ってテーブルを見た時、滝一が弁当を忘れていることに気づき、慌てて後を追った。
すると、思いがけない光景に瞳子は出くわしたのだ。
(あなた……?)
滝一は何故か、隣の家の前であの令佳と話をしている。背中をこちらに向けているので、滝一の表情はわからない。
しかし、彼女は艶やかに笑っていた。
それは嬉しそうに頬を紅潮させ、そう、まるで恋人と話しているかのように。
「あな、た……」
震える声で瞳子は滝一に声をかけた。
「あ……瞳子」
振り向き、ばつが悪そうに頭をかく滝一。
「あなた、お弁当。遅刻するわよ。早く行って」
「あ、ああ。行ってくる」
そうして滝一の背中を押す。だが。滝一の目はまごつきながらも令佳を捉えたまま。瞳子は逃げるように家の中へと駆け込んだ。
(やられた……。ううん。滝一さんに限ってそんなことはない。一時の気の迷い。滅多に見ないような美人を見たからに違いないわ。そう。そうよ。きっとそうよ……)
レースカーテンを開けるとまだそこに立っている令佳の姿に、瞳子はすぐ身を翻す。
妖しいまでに美しい令佳の笑みを見たくはなかった。
◇◆◇
それからの日々。
滝一の態度が明らかにおかしくなった。
朝の見送りを避け、一人で家を出ようとするし、帰りも遅い。頼みもしないゴミ出しをしようとしたり、何かと用事を作っては一人で夜中にコンビニなんかに出かけようとする。最近では、行き先も言わずに家を空けようとしたりもする。
そんな時、瞳子は見てしまった。
シティホテルの喫茶室で令佳と二人きりでいる滝一を。
思わず瞳子は二度見した。滝一の表情はあまり見えないが、熱っぽく興奮しながら話しているようだ。それを頷きながら聞いているような令佳。
見ていられない。夫が隣の奥さんを口説いている姿。本来なら現場を押さえて怒鳴り込んでやれば良かったのかもしれない。だけどそれじゃあまりにも惨めだ。
(あんな美人に勝てっこない。勝てるわけなんて……)
◇◆◇
「あなた! どういうこと?! 何故、隣の奥さんとあんなところで」
滝一は視線をろくに合わせない。落ち着きなく、唯うろたえている。
「あなた。まさか浮気……」
「違う! そうじゃないんだ。そうじゃ……」
滝一の視線は泳いでいる。
(この人は『何か』を隠している)
瞳子はそう思った。それはやはり令佳との不倫以外考えられないのではないか。
しかし、滝一は瞳子の両腕を掴んで言った。
「気にするな。彼女とは話もするんじゃないぞ! いいな!!」
今まで瞳子が見たこともないものすごい剣幕でそう言うと、
「あなた!」
滝一は足早にその場を辞し、寝室に閉じこもった。後には、広いリビングに呆然と瞳子だけが取り残された。
◇◆◇
その翌朝。
滝一を見送った瞳子はソファでぼおっと物思いに耽っている。
(おかしい。いつからだろう……)
それは瞳子が考えるまでもなかった。
(あの隣の奥さんが引っ越してきてから、滝一さんは)
そう思いながら、瞳子は令佳のことを思い浮かべる。
大輪の一輪咲きの赤い薔薇のような美しい微笑。例え棘があったとしても、男なら誰でも引き寄せられるだろう。
(だから……滝一さんも……)
そこまで考えた時、ドアフォンが鳴った。
「はーい」
宅配かしらと思ってドアを開けると、
「おはようございます」
瞳子は息を飲んだ。
麗しい微笑を湛えた令佳がそこに立っていた。
◇◆◇
「どうぞ」
瞳子は、ストレートのダージリンを淹れると、白磁のティーカップを令佳の前に差し出した。
「ありがとうございます」
実に楚々とした所作で令佳はそのカップに口をつけた。
(美女は何やっても様になるのね)
そんなことを瞳子はぼんやり思いながら、令佳に思わず見とれていた。
カチャリ、とカップをソーサーの上に置くと、令佳は改めて瞳子の目を真正面から見つめて言った。
「浜田……瞳子さん、でしたわよね。せっかくお隣同士になったのだから、仲良くさせて頂きたいとずっと思っていましたの。私、ここに越してきたばかりですし、近所で感じの良いカフェやお店とか紹介して頂いて、出来ればご一緒したいわ」
一言一言が優雅で上品な令佳の物言いをほーっと瞳子は溜息を吐きながら聞いていた。
「今日、どこかランチの美味しい店に案内して頂けないかしら」
まなじりを下げ、にっこりと令佳は微笑んだ。
(意外。案外と……良い感じ、じゃない?)
瞳子はそれまでの令佳への先入観を少し取り払った。
存外、令佳の笑みは人懐こい。口角を上げ微笑む令佳はフランス人形のように愛らしい。その美しさは、女の瞳子にも抗いがたい魅力がある。それに、身近にカフェ友のような存在が出来れば瞳子にも嬉しい。
「それなら、駅前に行きましょう。西口に良いお店があるんですよ、矢内さん」
「令佳、と呼んで。瞳子さん。お隣同士のよしみでこれからお互いの家も行き来しましょうよ」
「令佳さん……」
やはり、少し年上のような感じがする。それは華やかな中にも落ち着いた雰囲気だ。いやいや、歳を聞いてみるのはもう少し仲良くなってから、などと瞳子は思う。
(それにやっぱり……滝一さんと本当はどういう関係なのかも)
それを思うと、微かに瞳子の胸は疼いた。
◇◆◇
「ただいま」
「お帰りなさい」
その日も滝一が帰宅したが二人は最近、いつものようなハグもしない。
あれ以来、二人の仲はどこかギクシャクしている。
「今日の晩飯は何かな」
しかし、今夜の滝一はどこか瞳子の機嫌を伺うように愛想良く会話を持とうとしている。
「あなたの好きな海老フライとコーンポテトサラダにコンソメスープ。海老は奮発して有頭海老よ」
「おお、そりゃ凄い。早速頂くよ」
そうして、滝一は早速、海老フライにナイフとフォークを入れた。
「うん、美味い」
滝一はご機嫌に食を進めている。
その時。
「ねえ、あなた……」
「うん?」
「あの」
そこまで言って瞳子は口をつぐんだ。
(あの令佳さんと本当はどういう関係なの)
今日、滝一が機嫌がいいのもひょっとして、令佳と何かあったのではという邪推が瞳子の胸をよぎる。今朝も滝一は一人で出社したし、今夜の帰りも遅かった。
(でも、聞くのは怖い……)
瞳子は、それまでの幸せな日常が音を立てずに崩れていくような気がしていた。
表紙は、遥彼方さまに描いて頂きました。