大体は嘘にならない 01
乾いたモーター音と微かに漏れる水道の流れる音を聞きながら、僕は薄らと曇った窓から見える景色をぼんやりと眺めていた。三月の初めにもなると、僅かながら外観を彩る街路樹は微かな緑を展開し、桜の開花宣言が世間の注目となっていた。
黒板に書かれる漢文を板書しながらも、僕は全く別のことを考える。それは例えば天体のことだったり、星のことだったり。
昼休みに近づくにつれ物静かだった教室からは話し声が微かに漏れ始めて、やがて鈍いチャイムの音が鳴り始めると教科書とノートを仕舞い始める生徒が何名か出てきた。呆れた教師は根負けしたように、書きかけの内容を諦めて教室を後にした。後を追うようにして、多数の生徒たちも教室の外へと流れ出ていく。決して教師を追いかけているわけではなくて、学食や購買部へと向かう連中だろう。
僕はゆっくりと立ち上がって、教科書とノートを机へ仕舞って、鞄の中からコンビニで買った食料と飲み物が入った袋を取り出した。黒板には先ほど書かれた漢文が残ったままで、消されずに残っていた。
五分もかからずに昼食へ向かう生徒たちの流れは収まって、残りは弁当や通学で購入した食料を持参した生徒がゆったりとどこかへ移動している。三月といえども、まだまだ外の気温は低く、外で食べる生徒は少ない。ともあれば、おそらく別のクラスへ移動しているのだろう。
教室を出て左に曲がって、一階への階段を下りる。体育館に繋がる渡り廊下を出ると、三月の薄ら寒い風が吹き込んでくる。体育館の入口を逸れて、その右に聳える旧校舎の入口へと向かう。
旧校舎と言いつつも、実際には一階部分にある美術室や音楽室は使われていて、二階部分の旧教室も部室として一部使われている。更にその上の屋上も昔は出入り可能だったと聞いている。今では一部の生徒と教師しか使えないようになっている。別に誰かが自殺したとかそういうものなんかじゃなくて、ただ単に一部の柵が老朽化しているからだと噂されている。本当のところどうだろうと別に構わない。
僕はポケットの中から鍵を取り出して屋上への扉を開錠する。微かな手ごたえを感じて僕は力を込めて扉を押して外へと出る。快晴とは言えないけれども、最近の天候の中では割と落ち着いた空模様だ。朽ち果てたコンクリートタイルを見ると、やはり立ち入り禁止になっているのも頷ける。
僕は大きく深呼吸する。まだ仄かに暖かい陽光は遮るものはなく、じわじわと身体の温度を上昇させた。
ふと、陽光に影が差した。その一瞬の影はまるで暗幕を張った一室のように真っ暗で、そしてどこか心をざわめかせた。だけどもすぐにその心の動揺の正体を知ることとなった。
「あれ」
屋上の更に上。給水ポンプの上に一人の少女が立っていた。
少女の目は遠くの町へと向けられて、当然僕が屋上に入ってきたことは知っているはずなのに、興味がないのかいないものとして扱われている。
彼女の視線の先を僕もまた眺める。だけどもただの日常が広がっているだけで、何も変哲もない景色だ。
いったいその景色に何が夢中にさせるのだろう。
僕はまた少女の方に視線を戻す。だけどそこにはもう誰もいない。
「なんだったんだ。もしや陽炎とか」
それにしては季節が違いすぎる。それに陽炎というよりも幻想だろう、と僕は自分の考えを改める。幽霊だろうか、僕は首を振る。そんな非日常的な生活が起こるはずがない。
言っただろう。
誰かがそう囁いた。
非日常こそ日常で、日常こそ非日常なのだと。
「で、私がそんな話を信じるとでも」
保健室へ少女を担ぎこんで、すぐに救急車で運ばれていった。殺人現場では第一発見者が一番に疑われるけども、今の僕はまさにその容疑者だった。
「信じてもらおうと思ってないですが、事実を言ったまでです」
「屋上に落ちてきた、ねぇ。私は親方じゃないんだけど」
「何の話ですか?」
「いーや、こっちの話。で、清水君が屋上に落ちてきた彼女を担いできたと」
保険医の加藤さんは信じられないといった仕草で肩を竦めた。白いシャツにピンクのカーディガンを羽織っている。この時間は下校時間に重なるので、保健室に溜まっている連中がいなくて助かった。
少女から視線を外した後、気が付けば彼女は給水塔から屋上の地面に落下していた。いや、落下したというのはあくまで推測で、果たして彼女は落下したのだろうか。給水塔から地面までは三メートル以上はあったはずだから、落下後の衝撃音が聞こえていたはずだ。
「ま、いいわ。執行猶予をあげるから今日は帰っていいわ」
「ありがとうございます。って、それって有罪ってことですよね」
それに僕がお礼を言う必要はなかったりもするのだけれども。
「いちいち煩いわね。ま、君にメリットがあるわけじゃないしねぇ」
「デメリットしかないですね」
「うーん、私も名探偵でもないし。ま、首を洗って待ってなさい」
「分かりました、メリットで首を洗っておきますね」
「メリットは髪を洗うものよ。でもせっかくだから足も洗ったほうがいいかもね」
「僕は犯罪者なのは確定なんですね」
保健室を出て、僕は少し考える。
こちらとして事実は伝えたので、これ以上何の釈明のしようがない。それに目撃者もいないので、事実上僕が一番犯人に近い人間なのだ。でも僕は本当は事故というのを知っている。それは僕だけが知っている事実だ。
「いや」
そうじゃない、僕とそして彼女が知っている事実。結局彼女が目が覚めればわかることだ。そうすればどうして彼女が給水塔に登っていたこと、そして、そこから飛び降りた理由。全てに説明がつく。
取り敢えず、彼女が死んでいないことを願いながら、僕は回復を待つだけしかできないのだ。そして僕の身の潔白が証明されるまでは、屋上の出入りも禁止されてしまった。こうなることなら鍵をもう一つ複製しておけばよかった。もともとあの鍵は職員室に管理されていたものを複製したものだ。
「あれ、清水じゃないか」
ちょうど渡り廊下を歩いて、自分の教室に戻ろうとしたところで宮城と出会った。肩にからうようにして金属バットを抱え、バットの先端にはグローブが引っかかっている。どうやら部活上がりのようだ。
「こんな時間までどうした。確か帰宅部だったよな」
「ちょっと用事があってな」
「そういえば、救急車来てたけど、どっかの部活動で怪我でもしたんかな」
「転んだんじゃないか」
当然僕はとぼけておくことにした。十中八九加藤さんが呼んだ救急車だろう。
「ふぅん、まぁいいや。って部室に忘れ物してたわ」
「そか、じゃあまた」
「おう、また。鍵閉まってなきゃいいけど」
宮城はそのまま小走りで廊下を逆戻りしていった。その姿を見ながらふと違和感にかられた。僕はその場で少し考えてみるけれども、いったい何を疑問に思ったのかが思いつけない。
西日から差し込むオレンジ色の陽光がリノリウムの床を反射して少し眩しい。渡り廊下のほとんどは下校の時間が近づいているのか、鍵が占められていて、窓越しに見える学校の正門からは多くの学生が公道へと出て行っている。
僕もまた教室に置いていた鞄を回収して、外へと出る。ゆっくりと吹き付ける風はどこか冷たく、どこか不気味な感覚を僕は感じ取った。正門を出るときにあの屋上を眺める。もちろんあの給水塔に少女はいない。その光景はただの乾いた日常の一部でしかない。
「そういえば、名前聞いておけばよかった」
自宅付近までたどり着いてから、ぼんやりとつぶやいた。容疑がかかっているのは、もちろん仕方のないことだと理解している。もしも立場が逆転しているのであれば、同じことをしていただろう。先生は生徒を信じるものなんて言葉を聞いたことあるが、それこそお互いが理想を無責任に押し付けているだけだ。先生だって生徒だって人間なんだから。
ともあれ無根拠に信じるのは無理だとしても、証拠があれば話は別となる。
「身の潔白を証明するためには、彼女に会って話をするしかないのか」
微かな溜息が漏れるけれども、それは三月の風にすぐに吹き飛ばされる。ただ蝕むように身体の体温だけが奪われていく。
「もう少し穏便にできないですかね?」
「無理な相談ね」
あっさりと加藤さんは僕の要望に首を振る。
始まりは午後の授業が始まる五分前だった。食事も終え、教科書などを揃えてたところに校内放送で呼び出された。
「職員室じゃなくて、保健室なんだから大丈夫でしょ」
「校内放送で呼ばれた時点で、アウトです」
「何がアウトなのかしら。むしろ貴重な体験よね」
「できれば目立つようなことは避けたかったのですが、授業も休んでしまいましたし」
「大丈夫よ、午後の授業は数学でしょ。彼とは顔見知りだから」
「あれ、そうなんですか」
「えぇ、同じ大学にね。学科は違うのだけど、何回かニアミスしてるのよね」
「ニアミスって顔見知ってはないってことですよね」
「細かいことはいいの、容疑者君。心証が悪くなるだけよ」
ここは裁判所なんだろうか。それでも保健室に呼び出された原因は心当たりが大有りではあるけれども。
「昨日の女子生徒って大丈夫でしたか」
「えぇ、別に命に別状はないわ。ただ貴方に確認したいことがあるの」
「僕は突き落としてないですよ」
「その発言に困ってるのよね。確かに君は給水塔の上から彼女が落ちたと言ったわね」
「そうです、給水塔の上に確かにいたので」
「ただね、病院に運ばれて頭を検査したけど、特に打ったような形跡はなかったの。全身に異常なしってことよ」
「それはないでしょう。あの高さから落ちれば骨折は無いにしろ、打撲くらいはしているはずじゃ」
「私も気になって見に行ったんだけど、確かに怪我はするよね、落ちればね」
「何が言いたいんですか。いや、言いたいことは分かるんですけど」
それでも一応聞き返しておいた方がよさそうだ。
「そう、本当に彼女は落ちたのかしら?」
「正直目を離していたので、分かりません。ただ降りるにしても梯子を使わないといけないので、僕が目撃したタイミングからすると落ちたとしか考えられないんですよね」
「はっきりしないわね。ま、保健室に抱えてきているし、着衣の乱れもなかったから証拠不十分で無罪になりそうね」
「着衣の乱れって。そこまで疑われてたのですか」
「えぇ、そういうことって稀によくあるから」
「多いのか少ないのか分からなくなりますね、それ」
加藤さんは振り返り、バインダやファイルが載った机の抽斗を空けて紙コップとティーバッグを取り出した。何故そんなところに入っているのか気になるが、どうやら淹れてくれるらしい。
「どうせ教室に戻っても注目の的なんだし、飲んでいきなさい」
「ありがとうございます」
時計を覗くと既に授業から二十分程経過している。これから戻っても意味はないだろう。
「そういえば、あの女子生徒の名前って教えてもらってもいいですか」
「いいけど、どうして?」
「いえ、身の潔白を晴らすために言質をとる必要があるわけで」
「なるほどね。ま、ほぼ無実でしょうけど。国枝綾子という名前よ」
「国枝、タイの色が一緒だったから同学年かな」
「見たことないの?」
「えぇ、あまり他のクラスとは絡まないので」
「ふぅん。清水君って自分のクラスにも友達少なそうね」
「あの、先生がそんなこと言っていいのでしょうか」
「いいのよ。客観的な意見も必要でしょ。それに私だって言う相手は選ぶわよ」
「それは褒められてるのでしょうか」
「そうよ。割と現実を見ているし、夢見なさそうだし」
話を続けつつも加藤さんは手元のバインダーに何かを書き込んでいる。別に彼女も先生ということだし、暇ということではないのだろう。ただ僕に気を使って会話を続けているのだろう。
ともあれば、ここで会話を続ける必要もないわけだし、僕は近くにある本に手を伸ばす。感染症についての本だった。
「あなた、損な性格ね」
「校内放送で呼ばれた時点で損してますよ」
僕は目線を本に移したまま返事をする。
「そういうところよ。変なところで気を使って、気付かない振りしてる」
「気付いているなら、そのまま気付かない振りをしてくれるのが優しさですよ」
「熟練しているわね、そういった対応を含めて」
加藤さんはバインダを置いて、大きなため息をつく。それは僕に対してのため息なのは分かるけども、原因はもっと違うところにあるのだろう。
「少なからず、そういった人間だって学校には存在しますよ。十人十色ですからね」
「君は十人十色というよりも、一人無色といったところね。何色にも染まれる、いわば優柔不断男」
「あの、僕はイチ生徒なわけで、かなり傷つく発言をされてますよ。辞めたらどうするんですか」
「辞めないから問題ないわよ。それに君には決して響かないでしょ」
その疑問符はあまり意味を持たない断定の言葉に近い。だから僕はその言葉に対しては何も回答しないし、何も思うところはない。
「無色なんで、染まってしまったら最後ですよ」
「脱色するから大丈夫よ。というか、染まるというよりも色を上に乗せているといった方がいいかしら」
うまい例え方だ。
「だから見かけ上は染まっているように思うけど、ふき取れば綺麗さっぱり消えてなくなる」
「そういうコンロとか窓ガラスとかあれば通販番組ですごく売れそうですね」
「海外の通販番組とかでやってそうね。ま、比喩だけど、そういうことよ。そういうのを自覚あってやっている人間は少なからずいるのよね。それが君」
「激レアキャラというわけですね」
「ガチャ回しても、なかなか出ないくらいにね」
「先生の口からガチャという言葉を聞くのは新鮮ですね」
「あら、先生だって所詮は人間だからガチャだってするし、ゲームだってするわよ。生徒の手前真面目ぶっているだけど、キャバクラだって行くわよ」
女性の口から、というか学生に向かってキャバクラなんて発言はしないで頂きたい。
「例え方が過激ですけど、実際にそういった事案があったと勝手に認識しました」
そろそろ紙コップに入った紅茶は飲みごろだろう。僕は加藤さんにお礼をいって口を付ける。
「ま、いいわ今日はこの時間で授業終わりでしょ。目立たない時間帯になったら帰っていいわ。私の見立てだと君は無罪ね」
「ま、現在の法律ですと疑わしきものは罰することはできないので」
「証拠不十分ね。どちらにとっても」
ちょうど加藤さんが一息ついたところで、本日最後の授業が終えたことを知らせる鐘が鳴る。あとはホームルームを残すのみだろう。
「ですね」
確かにこの話のポイントはどちらに倒れても証明できない難しさにある。例の国枝氏が復活することが事件解決の鍵を握る。ただ彼女がまた嘘を付いたとして、僕にはそれを否定する術がない―――し、彼女もまたその嘘を証明する証拠を持ちえない。
当人同士の発言に限っては信用されないのが実際のところだ。
「ま、私は国枝ちゃんとお話したことはないから、完全未知数ね。別に不登校児でもないわけだし。無事蘇生することを祈るのみね」
「それ、一回死んでませんか」
保険医ともあろう人が不吉なことを言わないでほしい。いや、保険医だからこそ死ぬという言葉に対して慣れているのだろうか。
「ま、本当にここまで来たら祈るのみね。祈る以外に何かできればいいのだけど、人間には無理よ。そもそも祈りという行為は、あくまで自己満足だと私は思うけど」
「それについては同意しますけど。ただ世間体を見ると、周りを見て祈っている振りをしますし、悲しんでる振りをします。ある程度、そういった混じるという行為は必要かと思いますけど」
「混じってないわよそれ。演じているだけよ」
「だとしてもです。よく、ロールプレイングゲームってあると思うんですけど、ロールって和訳すると役割なんですよね。ある意味、僕も学校というシナリオに沿って、役を演じているわけですよ」
「演じているという自覚があるという時点で、最悪なまでに最低ね」
「甘んじて受け入れましょう。その批判は」
でもその発言を理解している時点で加藤さんもまた最悪なまでに最低ではないだろうか。もちろん口にすることはないだろうが。ただそれもまた、加藤さんから見れは若気の至りなのかもしれないけれども。
「受け入れただけで、反省もしないでしょ。といっても私からあなたに何かを正せということはないのだけれども」
だけど誰もが意識するかどうかは分からないけど、演技をしているのだ。ほら、有名な曲の歌詞にあるように。それが理想かどうかは置いといて、自分の一番やり易いように演じるのだ。
加藤さんもまた保険医という役を演じているのだ。それは働いているという言葉とはまた少し違うと思う。
「話を総括するつもりもないから、敢えて何も言わないけれども。国枝ちゃんが復活するまでは大人しくしておいたほうがいいわ」
「大人しくしていたのに、放送で呼び出したあなたが言いますか」
「仕方ないじゃない、だったらどうやって呼び出せばいいのよ。ラブレターとか果たし状スタイルがよかったかな」
「周りに見られた時のリスクは大きいですね」
「幸い、明日から休日なんだから皆忘れてると思うわよ」
「いえ、あと四十三日くらいは忘れられないんじゃないですかね」
「それは諺よ」
僕は結局あまり読むことのできなかった本を戸棚に戻して席を立つ。外では運動部の声も聞こえ始めたのでそろそろ頃合いだろう。
「では、お邪魔しました」
「また国枝ちゃんが復帰した時に事情聴取ね」
「分かりました。できれば事情聴取せずとも終わってほしいですけど」
僕は保健室のドアを開ける。
「あ、そうそう国枝ちゃんね、清水君と同じクラスよ」
何故それを先に言わないのだろうか。