妹の為を
「――うごっ!」
早朝、僕の腹部に尋常じゃない衝撃が訪れた。
それは鉛袋のような、米俵のような、何か重量のあるものがある程度の高さから投げつけられた時の痛みに似ており、思わず目が飛び出そうになる。内臓が全て口から出てきそうだ。
突然の出来事に動揺する余裕も無い僕は、ベッドの上で腹に乗った謎の物体を手で弄る。んん……想像していたより柔らかい。なんだこれ?
「っあ……んん……」
すると、腹の方から何処か聴き慣れたような、でも初めて聞くような艶やかな声が漏れ出した。これは……!
瞬時に覚醒した意識で勢いよく上体を起こし、その時にひっくり返り蛙の潰れたような声を上げた――千鶴に驚愕の視線を向ける。何してんだこいつは。
「あ痛たた……もう! 折角こんなに可愛い妹が起こしに来てあげたのに、酷いよお兄ちゃん!」
僕の膝下まで転がった千鶴は、寝そべったまま僕を睨みつける。
いつもなら可愛いという所だが、今日は状況が違う。朝っぱらからなんてことをしてくれたんだ。それと、僕の膝元に君の胸がこれでもかと押し付けられてるから、早急に退いて貰いたい。早急に。
怒り半分照れ半分の僕は、残り半分を見せぬよう千鶴を睨み返す。
「今何時だと思ってるんだい……」
しかし、千鶴の方が一枚上手。
更に目を吊り上げた千鶴は、僕にグイッと迫る。やめて、胸が形を変えて……。
「それはこっちの台詞だよ! 今何時だと思ってるの!? 今日から学校始まるよ!」
そう言ってベッド脇に置いてあった目覚まし時計を手に取った千鶴は、それを僕の顔面に押し付けた。
「痛い痛い痛い……って、そんな言う程時間迫ってないじゃん!」
時計を受け取った僕は、ひりひりと痛む鼻を抑えつつ時間を確認した。時刻は七時。僕がタイマーしたのは七時半。何してくれてんの貴女。
――本日は四月七日。確かに、千鶴の言う通り僕たち在校生は今日から新学期が始まるのだが、学校へは九時までに登校したら大丈夫なのだ。それに僕たちの家から蘭学は三十分もかからない程近くにある。急ぐ必要なんてこれっぽっちも無いぞ。
若干怒りを覚えた僕が千鶴を睨みつける。すると――。
「……てへっ」
なんて宣い舌を出してウィンクまで飛ばしてくる。それも頭に拳をこつんとくっつけたコンボ付き。何て野郎だ……。
鼻の奥が熱くなったことを瞬時に察した僕は彼女から視線を直ぐに逸らし、天井を見上げた。
「取り敢えず、ご希望通り起きますから、早く退いてくんなまし」
「それでよしっ。じゃあリビングで待ってるからねー!」
膝下から柔からな感覚が消え、視界の端で千鶴が僕の部屋から出て行くのが見える。扉を閉める際に「ご飯出来てるからね!」と付け足して。
それを見送り、丸い最新式の照明を見つめて溜息を吐き出した。全く、朝っぱらから嵐のような妹である。早朝くらいは優雅な一時を送らせてもらいたいものだ。しかし、これを注意したところで何の意味も無いのは昔から知っているし。
そんな事を考え、また一つ深い溜息を吐き出した。
一日の始まりにこんなに息を吐いていては、今日はあまりいい日にならないのかもしれないな。
漸く鼻の熱が治まった僕は、重たい腰を持ち上げ妹の待つリビングへと足を運んだ。
***
始業式。
新たな学園生活が幕を開けた今日、僕は学生で最も気を使う二年生となった。入って来た新入生と、最上級生という事で鼻息を荒げる先輩方に板挟みにされ、窮屈な思いをしなければいけない。そう考えるだけで気が滅入ってしまうのは僕だけなのだろうか。
「三日ぶりだな春! 今年もよろしく頼むぜ~。最高の一年にしような!」
やはり僕だけのようだ。
無事始業式を終え、今年お世話になる二年三組の教室で自分の席に腰掛けていた僕は、背後からする聞き慣れた声に真顔で振り返った。
「元気だね。周りに引かれてるけど」
「んー? 今の引かれる要素あったか?」
「君は一つ一つの言動に気をつけた方が良いよ。最高の一年にしようなんて、君の取り巻く環境には最高のご褒美になるわけだからね」
「……はっ!」
思い出したかのように顔色を青くする淳平。そう、学園内の彼の周囲には常に多くの腐女子が張って目を光らせている。小さなオカズですら取り溢すことの無いように。
恐らく、今の会話も何処かで聞き耳を立てているだろう。
と、いう事はだ。最悪僕すらも巻き込まれて彼女たちの快楽の道具にされてしまうのだ。流石にそれは何としてでも阻止したい。そうなってくると、もう彼が日常的に全てを警戒する必要がある。
そういう事だから、是非とも頑張って頂きたい。
「フ、フジョシ、コワイ……コワイ……」
三日ぶりに瞳から光を消した淳平は心さえも何処かへやってしまったようだ。可哀そうに。
同情した僕は机のフックに掛けていた軽いスクールバッグを手に取り、空いた左手で彼の肩を叩いてその場を後にする。
淳平は僕に用事があったみたいだが、僕には何もないのだ。精々僕の為に沢山ボロを出しておくれよ。僕を救うと思ってさ。
二学年の集う二階を後にした僕は、上履きを履き替え学園正門付近で千鶴を待っていた。
うちの妹は中学二年の時暴漢に襲われたことがある。あの綺麗な顔立ちに中学生にしては発育の良かった身体。狙われて当然だと思うのだが、そこまで考えが至らなかった僕は彼女を救い出すのに少々時間を食ってしまった。
まあ事が始まる直前に助けられたからよかったものの、それでも千鶴の心には深いトラウマが残ってしまったのだ。
それ以降、こうして二人で家まで帰るようになった。千鶴の安全が第一だが、僕の平静の為にも、ね。因みに、当時の犯人は連続強姦魔として指名手配されていたようで、見つかった時には肉片と化していたようである。怖いね。
そんな懐かしく僕の心が黒く染まりそうな記憶を頭の隅で思い返していると、校舎のほうから千鶴が歩いて来た。しかし、その雰囲気はあまり好ましいモノではなく、足取りが重いように見受けられる。何かあったのか?
心配に思った僕は千鶴に駆け寄った。
「お疲れっ。どうだったー?」
千鶴達一年生も、今日は在校生に合わせ四時限までの日程になっていた筈だ。まさかそれでも疲れた……とかかな。
何となく妹の感情を想像しつつ、顔に影を落とす千鶴を覗き込んだ。
「あっ……んー、普通だったかなー? なーんてっ! めっちゃ楽しかったよ!」
しかし、僕に気づいた千鶴は表情を一変させ、いつも通りの活発な笑みを浮かべて僕の背中を叩いた。なんか引っかかるな。
ちょっとした違和感、些細な変化。
本当に、普通の友達だったなら気が付かない程の事だが、僕には身に覚えがある。
忘れもしない二年前、夏の終わり、死んだガラス玉、喧騒、ボール、黒い月――。
落ちる瞼の隙間、僕の瞳に熱が宿る。
「――そっか、ならよかったよ」
「お兄ちゃんは何かと心配し過ぎー。アタシだってもう立派な高校生なんだから!」
「はいはい、身体は大人、頭脳は子供の名探偵千鶴ちゃんですねー」
「ちょっと! それ違うから!」
すっかりいつもの調子を取り戻した千鶴。彼女は日頃と変わらず太陽のような笑みを浮かべ、マフラーを直した。朝はしていなかった。
僕の天使はいつも通り。
変わらない毎日、変わらない通学路。変わら――歪な香り。
いつもと違う千鶴の匂い、悲愴に染まった、黒くくすんだ、可笑しな可笑しな可笑しな。
僕が可笑しいわけじゃない。いつもと違うんだ。あの時の、あの瞬間の、あの憎たらしい奴の香りがする。芳醇な、濃厚な、粘着質な。
僕が悪いんじゃない、君が悪いのだ。僕の大切な大切な大切な、大切な妹を傷つけた。君のせいなんだ。僕が悪くない。
今回の罪は重いぞ。
またホトトギスが一羽死ぬ。鳴かないホトトギス。それを寄越したのは何処の誰なのか。匂いで解る。君たちはまた僕を怒らせた。
――普通の毎日に異常が迷い込む。