先生と生徒
「むー」
手にした紙を眺め、思わず唸り声を上げる。紙には難解な文字の羅列。この怪文書を解読しないことには、わたしの明日はないのだ。しかし何度眺めてみても、分からないものは分からない。
仕方なくぺらぺらと同じような内容の紙をめくっていると、たった一枚、なにも書かれていないまっさらの紙が出てきた。
試しに顔の高さまで持ち上げたり裏返してみたり光に透かしたりしてみても、当然のことながらなにも起こらない。もしかすると火で炙ると文字が浮かんでくるとか、コインでこすると見えなかった文字が浮かんでくるとかそういうものなのかもしれない。
水平に持ち上げた紙を横から見ると、薄っぺらさが際だつ。
「やっぱりどこからどう見ても、普通の紙だよ、ねえ」
ということは、これはプリントミスというものだろうか。確か全部で八枚あったはずなのだが、その中の七枚目が白紙だった。単に二枚くっついていたとかならば問題はないのだが、何度数え直してみても。手元にはきっかり八枚しかない。
「どうしろってのよ、これ」
期限はもう、二日後に迫っている。悩んでいる暇はない。わたしは携帯電話を手に取り、心当たりに片っ端から電話してみた。だが結果は惨憺たるもので、誰も彼も直接書き込んでしまっていてコピーを取ることは不可能だと言うのだ。
「写し合いはご法度だけど、理由が理由だから七枚目だけ貸してあげる。その代わり、頑張って問題も全部書き写しなさいね」
そんなことを言ってくれる友人の好意はありがたい。ありがたいのだが、意味不明の文字がみっちりと詰まっているであろうその内容を書き写すなど、わたしにはとうていできそうになかった。
「むむむむむ」
腕を組んでさらに唸ること十五分。こうして真っ白な紙を睨んでいても、状況は変わらないどころか時間がなくなるという点では悪化する一方だ。
「背に腹は代えられない、か」
わたしは白紙を含む八枚の紙を掴み、重い腰を上げた。
勇気を振り絞り嫌々訪ねたとあるマンションの一室で、わたしはとりあえずひと息に用件を捲し立ててみる。
「プリントミス? ああ、なるほど。運が悪かったんだな」
そう言って暗号文が書かれた新しい七枚目を差し出してくるのは、ほんの数日前にも会ったばかりの、とても見慣れた顔。
「それにしても、今ごろ気がつくというのも問題だと思うんだが。あと二日で八枚終われるのか」
「これでも、一応、努力はしてみたんだけど」
そう。この紙の束を睨んでいたのは、なにも今日だけではない。約五週間、忘れたいと思いつつも何度か挑戦してはみたのだ。それでもこの漢字の羅列を解読できなかったのだから、どうしようもない。レ点や返り点が分からなくても、人間生きて行けるじゃないか。
「そんなに難しい問題だったか」
「わたしにはじゅうぶん難しかった」
「しかしな。これは俺が去年授業で教えたはずだぞ」
「う。お、教え方が悪いからでしょ、きっと」
「ほほう。自分の理解力は棚に上げて俺の教え方が悪いと言うのか、お前は」
現代国語は得意と言っていいわたしだが、古文と漢文ははっきり言ってちんぷんかんぷん。まさに壊滅的と言っていい成績なのだ。昨年度の一年間わたしのクラスの古典担当だったこの教師には、隠しようもなく既にバレバレだった。
「い、いいんだもん。内部進学に古典の成績は関係ないって、担任が言っていたんだから」
じりじりと近付いてくる口元だけの笑顔が不気味で、わたしは思わず怯んでしまう。けれど伸びてきた手から逃げ損ね、頬に触れられた箇所から伝わる熱に、ぞくりと肌が粟立った。
「いっ、いひゃい。にゃにひゅゆにょー」
次の瞬間、両方の頬の肉を思い切り抓られていた。
「おお。相変わらずよく伸びるな。お前の顔は」
楽しげにむにむにと引っ張られているわたしの頬は、確かに人よりも少しふっくらとしているしその分柔らかい。だから友人たちからも時々つつかれたり触られたりすることがある。みな一様に「癒される」と言うのだが、触られて気持ちがいいのは同性からだけで、異性特に同年代や年上の人の接触からは、できるだけ逃げている。あたり前といえばあたり前だ。
にもかかわらず、目の前の成人男性約一名に限っては、そのあたり前のことが通用しない。頬に限らずあちらもこちらも好き放題触ってくれるのだ。これは由々しき問題だ、と常々思っている。
「夏やせとは無縁でよかったな」
「どうせデブですよ」
「ばかかお前は。そんなことを言っているんじゃない。間違ってもダイエットなど考えるなよ。お前はその丸っこいところがいいんだから」
つまりわたしは太っているのだと言われているのも同然のその言葉が、事実を言い当てられているだけによけいに腹が立つ。
「それって、ぜんっぜん褒められている気がしないんだけど」
「小さくてころころしているところが可愛いと言っているんだが」
ぼっ、と。顔から火が出そうなくらいに一気に頬に熱が集まるのが分かる。
「昔飼っていた犬が、こんな感じだったな」
「犬かい!」
思わずツッコミを入れてしまったとしても、わたしのせいではない。たぶん。一瞬脳裏に浮かんだ「しろまめ」という名の珍しい白毛の豆柴は、文句なしに可愛かったけれども。ちなみに飼い主はこの人で、名付け親は幼かった頃のわたしだ。
「確かに内部進学には差し障りはないだろうが、課題を提出しないとなると平常点に響く」
平常点。その言葉に、ぐっと言葉を飲み込む。
「大学部の質を維持するために、内部選考が厳しくなっていることは知っているだろう。いくら古典以外の成績で太鼓判をもらっているお前でも、平常点まで足りないとなると色々まずい」
その言葉はすべて事実なので、なにも言い返すことができない。やはり腐っても現役国語教師。説得力だけは人一倍ある。
「進学できないとなると、俺もお前の両親に合わせる顔がない」
「いやあ、先生、うちのお父さんからの信頼が異常なくらいにぶ厚いから、大丈夫だよ、うん」
なにしろわたしが生まれてすぐに、酒で酔った勢いとはいえ、友人の息子である当時中学一年生だった先生との縁談を勝手に決めてしまったくらいなのだから。それを承服してしまった先生の父親も諸手を上げて喜んだ両家の母も、さらには何を考えたのかそれを承諾した先生も、みんなどこかおかしいのだと誰も言わないからわたしが言っておく。
「ということで、取引だ」
「へ」
なにが「ということ」なのだか瞬時に理解することができないのは、体に纏わりつく他人の体温に気を取られていたからだ。
ちなみに婚約期間十八年の現在、今のような過度のスキンシップはままあるものの、キスもまだという清い関係である。その事実がわたしの両親からの信頼にさらに輪をかけているのだ。
「本来、教師が生徒の課題を手助けするなどあってはならないということは知っているな」
「はあ、まあ」
「だが今の状況とお前の成績を鑑みても、到底二日後の提出に間に合わないことは自明の理というものだ」
そのあまりな言われ方に、頬に上っていた熱が一気に冷めた。さらに悔しいことにそれが実に的確な表現だと、自分でも認めざるを得ないほどの成績ではあったのだ。少なくとも昨年度は。今年度の一学期ももちろんそうなのだが。
「そこで提案だ。今日と明日、貴重な残り二日間の夏休みをお前のために割いてやる。その代わり」
密着していた頬が離れてできた隙間から見上げると、実に楽しげに緩められた表情が見て取れた。いつもは鯱張った気難しい顔しか見せないくせに、こんな時にそんな顔をするなんて卑怯だと思う。恐らくわたし以外の誰も知らないであろうその笑顔に、不覚にも鼓動が激しくなるのを止めることができない。
だがそれ以上に脳裏をよぎる嫌な予感に、対照的にわたしの顔が引きつった。
「ま、まさか」
わたしは思わず、見かけによらず厚い胸板を両手で力いっぱい押し返そうとした。そのくらいではびくともしない力の差が憎い。
「今年度が終ったら、遠慮なくもらい受ける」
「な、ななななな、なに、を」
「お前を」
ちょっと待て。頼むから落ち着け。
「なんで、漢文ごときの課題の交換条件がそれになるのっ」
「なにを言う。その漢文ごときのために内部進学できないとなると、間違いなく俺との結婚が待っているんだぞ」
つまりこういうことだ。
課題を手伝ってもらう交換条件として、高校卒業後すぐに嫁に来いというのだ。しかし手伝ってもらわなければ二日後の提出には絶対に間に合わないだろうし、平常点が足りなければ内部進学が難しくなる。外部を受験するには国語の成績に問題がありすぎるし、何よりも父の頭には外部進学の文字はない。さらにはわたしの花嫁姿を一日千秋の思いで待ち続けている祖母などという存在もいたりして、就職するにしても専門学校に行くにしても、そこには「結婚」の二文字が待っているのだ。
「う、うああああ」
思い切り不本意だが、八方塞がりだということに気付かされてしまった。どちらに転んでも十八の花嫁という構図が待ち受けているなんて、わたしは思わず人生を嘆いた。いいとか嫌だとかそういう問題ではないけれど、もう少し、こう、選択肢があってもいいんじゃないかと思うのだ。
「もちろんお前が自力で課題を片付けられるのならば、話は別だがな」
そんなこと、西からお日様が昇るくらいにあり得ない。
友人からの言葉にもあったように、課題の写し合いはご法度になっている。ばれれば見せた方も課題点を差っ引かれるので、そんな迷惑をかけるわけにはいかない。
顔面蒼白のわたしとは対照的に、やたらと血色も機嫌もいい先生が、心底憎らしく思えた。