第187話 コロネ、お試しメニューに衝撃を受ける
「オサムさん、お待たせしました。お手伝いに来ましたよ」
「よろしくお願いします」
「おっ、ありがたいぜ。こっちは、俺とアノンで朝定食を回すので、精一杯でな。ジルバはジルバで、食器の回収とかもあるから、そっちでバタバタだったしな」
「うんうん、というか、お客さんが気を遣って、持ってきてくれたりするのが救いだよね。ペースをあげたらあげたで、回転が速くなるだけだから、限界があるしねえ」
「まったくよー。オートの食洗器がなかったら、この人数じゃ回せないわよねー」
うわ、こっちはこっちで色々と大変そうだね。
それもそうか。そもそも、お客さんの多くはオサムの料理を楽しみにしているんだものね。もちろん、パン工房も白パンも目玉のひとつではあるけど、オサムの朝定食が食べられるのは、今日のスタイルの時だけだから、それは人が集まるよね。
ちなみに、朝定食のメニューはAセットが魚定食で、焼き魚がメイン。Bセットが納豆定食で、C定食がとろろ定食とのこと。
そっか、納豆は聞いていたけど、とろろも食材としては存在するのか。
確かに朝にとろろごはんって、お腹に優しそうではあるね。
相変わらず、こっちの人にしっかり受け入れられているのか、心配になるメニューだけど。
「て言っても、白パンのおかげで、いつもほどの慌ただしさじゃないけどな。普段だったら、普通番の連中にも手伝ってもらわないと、どうしようもなかったしな。いい感じで分散はされているはずさ」
「まったく、いつもこんな大変なことをやってるんだもんね、飲食業は大変だよ」
やれやれといった感じで、アノンが苦笑する。
やっぱり、新聞作りとは別の大変さがあると言う。
特に今日の場合、オサムに良いようにこき使われているしね。
「それで、オサムさん、今日のお試しメニューって何ですか?」
話しながらも、オサムやアノンの手は動いているものね。
今もできたばかりの朝定食のひとつが、ふわふわと宙を飛んで行くのが見えたし。
誰が頼んでいるのかはお察しだ。
コロネたちも聞くべきことは聞いて、どんどんお手伝いに入った方が良さそうだよ。
「ああ、スープだよ。コンソメスープ」
「あ、なるほど、コンソメスープですか」
つまり、この漂ってきている匂いは、スープの香りってわけか。
というか、コロネがイメージしていたコンソメスープよりも、ずっと匂いとかが深い気がするんだよね、これ。
もしかして、かなり手が込んでいないかな。
「いわゆる、コンソメ・ドゥーブルってやつだ。こっちの世界のハーブとか足して、多少はアレンジしてあるがな。一応、基本となってるスープは、不定期でたまに店でも出しているんだぜ。そっちはそっちで、なかなか人気のメニューなのさ」
「そうなんですか」
「ああ、一応、そっちが好きなやつらには、それとなく情報を流しておいた。アビーとかがやってきたのも、そのためだろうな。スープだけなら、鉱物種でも食べられるからな」
なるほど。
お酒だけじゃなくて、汁物も大丈夫なんだね、鉱物種の人って。
まあ、具材が入ってくると難しいんだろうけど。
それにしても、コンソメスープか。
いや、実際、おいしいコンソメスープって、ちょっと頭ひとつ飛び出している感じの味なんだよね。そもそも、コンソメって、一から作ると馬鹿みたいに手間暇と材料がかかるし。
日本のこんぶとかつおぶしが、魚ダシの芸術と言うなら、コンソメスープは西洋の肉と野菜の旨みを限界まで引き出したスープと言えるのだ。
というか、作る人によって、それぞれ個性が違うので、どういう味かと言うと表現が難しいんだけどね。
固形のコンソメの味って、本来のコンソメとちょっと違うし。
いや、あれはあれで、美味しいんだけどね。
まあ、コロネにしても、色々なコンソメスープの細かい違いとかは、あんまり詳しくはないし。本当に美味しいコンソメスープを飲んだこともあるけど、コンソメ・ドゥーブルっていうのがどういうものなのか、あんまりピンと来ていないかな。
「そうだな。折角だから、ちょっと味見してみるか? そっちのでっかい寸胴に入っているのが、それだ」
ちょっと待ってな、とオサムが朝定食の作業を片付けて、コンソメスープの入った鍋の方へと向かう。
そして、ふたを開けた瞬間、そのスープが目に飛び込んできた。
「うわっ! すごいきれいなスープですね」
黄金色に輝く、澄んだスープ。
わずかに赤みがかっているのは、トマトを使ったからだろうか。
具材の旨みのエキスが凝縮された、何も入っていないシンプルな姿のスープ。
だが、その存在感のすごさには目を見張る。まるで、その後ろに、スープを作るために使われたお肉とか野菜の姿が透けて見えるかのようだ。
実際、ふたを開けた瞬間に広がった匂いには、人をうっとりとさせる成分が含まれているのだろうか。匂いをかいだだけで幸せになってしまうかのような。そんなスープだ。
これが、コンソメスープか。
たぶん、向こうでも日本だと、コンソメの素を使って簡単に作れるお手軽料理っていうイメージだろうね。
でも、手の込んだコンソメスープには、確かに魔力のようなものがある。
吸い込まれるようなその輝き、複雑にからみあった鼻腔をくすぐる芳香。
どんどんお腹が空いてくる香りだ。
「ああ。汁物を甘く見ることなかれってやつだ。向こうで、同じ商店街の洋食屋のおやじさんに習ったんだが、俺も初めて口にした時には衝撃が走ったもんだぜ。まあ、どうしても、いざ店で出すとなると値段が上がっちまうからなあ。実際、このコンソメの味が好きだって言ってくれる連中も多いんだが、どっちかと言えば、お試しメニューとかのサプライズ限定になってるか」
申し訳ないんだが、とオサムが苦笑を浮かべる。
ちなみに、値段はスープ一杯で、銀貨三枚になるのだそうだ。これについては、向こうで作り方を教えてくれたおやじさんから受け継いだ時と同じ値段とのこと。
何でも、その洋食屋さんが元々とある有名なホテルで料理を作っていた人だそうで、オサム自身、徹底的にコンソメの素晴らしさを叩きこまれたのだとか。
さすがに普段の営業で用意しても、注文がどうなるか読めないため、不定期でサービスの一環として作っているような感じらしい。
そもそも、作るのが大変だし。
「俺としても、その時に俺が味わったような衝撃を、こっちのみんなにも味わってほしいのさ。だから、まあ、ハレの日のメニューってわけじゃないが、そういう位置づけにはしてあるか。一応、ガゼルのやつにも教えてあるから、あいつの店だったら、コンソメスープを口にすることはできるがな」
「あ、それで、昨日はガゼルさんが仕込みのお手伝いに来ていたんですね」
なるほど、納得だ。
コンソメにも色々あるらしく、このコンソメ・ドゥーブルはまだ、ガゼルも習っていなかったので、ちょうど良かったとのこと。
こうして、少しずつ、オサムの料理が周りに伝わっていくんだね。
「うわあ、美味しそうなスープですね」
「あれ? リリックも食べたことないの?」
「いえ、コンソメスープは、オサムさんが年に一回くらい、孤児院にも持ってきてくれるので、食べたことはありますけど、この色のスープは初めてです。と言いますか、コロネ先生。オサムさん、このスープに関しては、作るたびに味が違うんですよ。本当に、ごちそうスープって感じです」
リリックが言うには、子供たちにもコンソメの衝撃を味わってほしいと、オサムが本当にたまに作ってきてくれるのだそうだ。
そのため、リリックも孤児の頃から、飲んだことはあったんだけど、本当にものすごく美味しくて、でも、スープはひとり一杯だけで、もっと飲みたいけど我慢な感じの味なのだとか。ちょっとでも余ると、子供たちで取り合いになってしまうので、そういうことがないように気を付ける、そんな思い出の料理なんだって。
ただ、このスープのおかげで、真剣に料理に興味を持つ子供もいるらしく、オサムやガゼルを中心に、子供向けの料理教室なども開いたりもしているらしい。
その時の子供が、将来別の職業に就いた時も、料理は好きでいてほしい。
そういう感じなのだとか。
今日の朝、惣菜作りを手伝ってくれた人の中にも、元孤児の人は混じっているのだとか。
うん、やっぱり、十数年の積み重ねって、すごいよね。
「はは、今日のも新しいアレンジに近いしな。まあ、味見してくれよ。で、振舞う時にでも、その味をお客さんと共感してくれって感じだな」
そう言いながら、オサムが小さめな味見用のスープ皿に、コロネとリリックそれぞれの分を取り分けてくれた。
艶やかに、光り輝くスープ。
粘粉の時に、ゼラチンの話が出たが、このコンソメ・ドゥーブルもまた、たっぷりのゼラチン質を活かした料理なのだとか。この黄金色の澄み切った輝きは、そうでなければ、出すことができないとのこと。
何はともあれ、これは試食だね。
ドキドキしながら、スプーンですくって、口の中へと運ぶ。
と、次の瞬間、今まで食べたことがないような、旨みが口の中いっぱいに広がった。
「……すごい。これ、本当にすごい」
ダメだ。美味しさの表現が思いつかない。
まず、コンソメスープというから、普通のスープのような食感を想定していたのだが、思っていた以上に、まろやかな口当たりに驚かされる。
熟成した牛の肉の味、その香ばしい香り、それらがゼラチン質でまろやかになったスープそのものに溶け込んでいるのだ。何というか、味の深みが段違いと言ってもいい。
その、汁物というにはわずかにしっかりした食感が、トロリという感じで、口の中に残って、広がっていく。
なるほど、スープは飲むものではなく、食べるものだというのも、よくわかる。
いや、本当は具材の入ったスープのことなのだろうけど、このコンソメスープは、汁だけなのに、まるで食べているかのような感覚なのだ。
これを作るために、どれほどの肉や野菜が使われているのだろうか。手間暇だけでも、三日間。それだけの時間をかけて、じっくりと作られたスープは、本当の意味でのごちそう料理と言って、余りある。
そんな味のスープだった。
深い味。それでいて、すっきりと澄み切っている。
たった一口。
本当に、たった一口で、すべてを持っていくだけの力が、このスープにはある。
そんな気がした。
「これが、コンソメスープですか。オサムさん……本当に、衝撃でしたよ」
「そっか、良かったぜ。コロネの場合、案外、本物のコンソメスープも口にしたことがあるんじゃないかと、内心冷や冷やしてたんだぜ? 確か、お前さんの留学先だと、割とポピュラーなメニューだからなあ。ま、毎日の料理として出せる店は、それほど多くないだろうがな」
何であれ、喜んでくれて良かった、とオサムが笑う。
横ではリリックも無言で、恍惚の表情を浮かべている。
というか、そのまま、とろけちゃうんじゃないかって顔をしているよね。
よっぽど、このスープが美味しかったみたい。
もう一口、食べながら、その味をしみじみと感じつつ思う。
やっぱり、本当に美味しい物を食べている時って、人間、何もしゃべりたくなくなるものだよね。ただ、この幸せな味に浸っていたいというか。
本当は、この美味しさを伝えたいんだけど、ただただ無言というか。
だからこそ、なんだろうね。
本当に美味しいものは、とにかく、食べてもらいたい。
そう思うのは。
「いや……これは、ぜひ皆さんにも食べてもらいたいですよね」
「だろ? そういうわけだから、味見が終わったら、お客さんみんなに振舞ってくれよな。申し訳ないが、ひとり一杯だけだ。まあ、この町の連中で、ズルしようってやつはいないはずだから、そういうのは心配しなくていいがな」
「はい、わかりました」
ちなみに、パン工房のお持ち帰りのお客さんにも、こっそりと提供していたのだとか。
いや、ピーニャたち、いつの間に、そんなことを。
ふふ、まったく、そういうところの気配りはしっかりしているんだよね、オサムも。
「それじゃ、リリックもそろそろ、こっちの世界に戻ってきて。飲み終わったら、コンソメスープを配りに行くよ」
「……あ、はい。わかりました、コロネ先生」
そんなこんなで、残ったコンソメスープを満喫しつつ。
お試しメニューを振舞うのにとりかかるコロネたちなのだった。




