第165話 コロネ、酵母を仕込む
「さて、それじゃあ、今日は天然酵母、いわゆる『パンの素』作りの続きをやるよ」
「コロネさんが空き時間で、毎日かき混ぜていたやつなのですね?」
「そうそう、今まで作っていたのは、『液種』とか『発酵エキス』とか呼ばれるものね。ほら、ピーニャが作り方を知っている『パンの素』はどんどん、小麦粉とかライ麦粉を継ぎ足してたでしょ? わたしがやっていたのは、その前の段階まで、ね。酵母を作る発酵のための準備段階って感じかな」
ワイン作りとかからも想像できると思うけど、ぶどうは発酵に適した果物なんだよね。まあ、今使っているのは、プルーンだから、ちょっと違うけど、パティスリーで使うなら、安定性の高い酵母の方がいいから、個人的にはこっちの方が好きかな。
ちょっと見は、水が濁っているいて、プルーン……やまぶどうも色が少し抜け落ちて、ぷよぷよになっているから、これ、食べ物に使えるの? って感じではある。
匂いとかも、ちょっとすっぱい匂いがするしね。
ただ、これで順調に育っているのだ。
もし、本当にまずい場合は、かび臭かったり、顔をそむけたくなるようなツンとした匂いがしているのだ。
そういうときは、雑菌が繁殖してしまっているので、一からやり直しになってしまう。
基本、なめても大丈夫で、お酒っぽくなっていると成功かな。
「なるほどなのです。『液種』ですか……ちょっとお酒っぽい匂いがするのです」
「ふうん、今やってるのは、『パンの素』の作り方の途中かあ。ちなみに、細かい製法とかは、新聞で触れない方がいいのかな?」
一緒についてきたアノンが、そう聞いてきた。
ちなみに、今、工房の調理場にいるのは、ピーニャとアノン、それにショコラが隣のテーブルの上で踊っている感じだ。
リリックは、夕食後もバターとチーズ作りがあるので、教会の方に行っている。
ガゼルは、また二階の厨房に戻ってしまったし、ジルバはと言えば、ふわわのもとに向かったみたいだ。
さておき。
天然酵母の作り方かあ。
週刊グルメ新聞って、王都でも出回るんだよね。
そうなってくると、どうなんだろ。コロネとしては、あんまり知られても困ることじゃないけど、例えば、ヨークさんのところとかで、似たような製法で酵母を作っていたとすれば、かなりまずいことになるんじゃないかな。
何、勝手に製法を公開してるんだ、とか。
うん、ちょっとやめておいた方が良さそうだ。
「あー、他のパン屋で同じような製法をしてるとトラブルが起きそうですので、ちょっと伏せてもらってもいいですか? たぶん、細かい作り方については、パンを作っている人とかしか、興味なさそうですし」
「了解。ま、読み物としては面白いかも知れないけど、グルメ新聞なんだから、出来上がった料理の方がいいだろうしね。ま、今回のターゲットはあくまで、コロネだから、コロネの一日のお仕事のひとつとして、触れておく程度にしておくよ」
「はい、それでお願いします。それじゃあ、続きの説明に行くね。この『液種』と同量の小麦粉を混ぜていくのね。十分から十五分くらいかけて、しっかりとこねるって感じかな。この時、注意したいのは温度ね。この『パンの素』の場合は、二十五度くらいで、常に温度を保っていくって感じかな」
「わかったのです。パン作りは温度と湿度が大事、なのですね」
「そうそう。今日のところは、『液種』も三種類あるし、ちょうど三人いるから、それぞれで、小麦粉を混ぜて、こね合わせて行こうか。アノンさんも手伝ってくださいね」
せっかくだし、立っている者は親でも使うよ。
やることは基本同じだし、ひとつひとつ説明するようなことじゃないからね。
「うん、わかったよ。ちなみにコロネ、『パンの素』が三種類あるのって、何か意味があるの? 見た感じ、そんなに違いはない気がするんだけど」
「ええとですね、これ、基本はやまぶどうと水で作っているんですけど、ひとつはそれに加えてハチミツを混ぜてまして、もうひとつにはりんごをすったものを加えているんですよ。なぜ、違うものを作っているかと言うと、実は、酵母……こっちの世界だと小精霊ですか。その小精霊にも、種類がたくさんありまして、わたしたちが育てたいのは、パンを膨らませるための小精霊なんですね。もし可能なら、その小精霊だけを中心に選り分けたいので、色々と試しているってわけです」
こっちの世界の酵母で、イーストを選り分けるのだ。
普通は研究室とかじゃないと、難しい作業だと思うけど、幸いと言うか、こっちの世界の場合、ちょっと試せそうなスキルがあるからね。
ダメ元でやってみるって感じかな。
もしうまくいけば、パン作り特化の酵母のできあがりだ。
「今日はまだ、発酵が進んでませんけど、この『パンの素』がそれぞれ育ったら、今、お店で使っている『パンの素』とも比較してもらう感じですね。ほら、ピーニャに『小精霊感知』のスキルを使ってもらえば、そういうことができるかもしれませんし」
「あ、それはピーニャの役割なのですね」
コロネさんが考えていたのは、そういうことなのですか、とピーニャ。
あれ? 説明してなかったっけ?
そういえば、細かいことはピーニャ本人にも話してなかったかも知れない。
反省反省。
「ふうん、なるほどね。ちなみに、この『パンの素』ができるのっていつになるの?」
「一応、明後日の朝くらいですかね。月の日を予定してます」
手順としては、『液種』に小麦粉を加えて混ぜて、半日寝かして、さらに小麦粉と塩を加えて、半日。そして、もう一度、小麦粉と水を加えて、半日で完成というところだ。
細かい時間については、微調整が必要かもしれないけど、向こうだと、この手順でルヴァン種の天然酵母を作ることができる。
注意点は、保管や作業の時の温度の維持、それにつきるかな。
後は、『種継ぎ』を繰り返すことで、酵母が維持できる。
裏を返せば、一度育った酵母は保存が効かないので、使っては増やして、育て続けなければならないんだけどね。
一度、流れを止めると、一からやり直しになってしまう。
「あ、それなら、まだ密着してるかな。だったら、ボクもその作業を手伝うよ。妖精と精霊の両方から、チェックできた方が確実でしょ」
そう言って、アノンが姿を変えた。
あ、酒蔵で会った、『木霊』のくろきの姿だ。
本当にすごいね、アノンは。
ドッペルゲンガーって、何でもありだね。
「すごいですね、アノンさん。それって、くろきさんの姿ですよね?」
「うん、くろっちのだよ。この町にも精霊種はいっぱいいるけど、たぶん、小精霊関係だったら、その見極めが得意なのって、くろっちとしろっちなんだよね。後はまあ、ヘレスさんもそうかな。ただ、ヘレスさんの場合、ちっちゃいころの姿を他の人の前でさらすと、ボクが怒られるから。ご勘弁を、って感じ」
結局、アノンが姿を自由に取れるのは、怒らない相手か、アノンの方が強く出れる人だけみたいだね。
そういう意味では、けっこう気を遣っているみたい。
というか、コロネの姿は普通に使われちゃってるけど。
「ま、ふたりがかりなら、何とかなるんじゃない? ね、ピーニャ」
「なのです。こと、パンが絡むことに関しては、ピーニャも全力を出させてもらうのですよ。美味しいパンを作るために、頑張るのです!」
おー、ピーニャが燃えているね。
でも、ちょうどアノンが来てくれて良かったかな。
これなら、本当に、イースト作りも何とかなるかも知れない。
「それじゃあ、今日のところは、『液種』と小麦粉を混ぜる作業ね。さあ、張り切って、終わらせちゃおうか」
「はいなのです!」「了解!」
そんなこんなで、天然酵母の作業に取り掛かる三人なのだった。
「はい、後は、保管庫で半日寝かせれば、次の工程ね。お疲れ様でした」
各自、それぞれ身体強化を使っていたので、特に問題なく、この工程は終了した。
というか、試しにやってみたけど、コロネも、身体強化を十分以上維持できるようになったみたいだ。
この作業中は『枯渇酔い』の状態にはならなかったし。
これもメイデンの特訓のおかげかな。
ちょっとずつではあるけれど、成果のようなものは感じ取れる。
やっぱりね。向こうの世界の出身としては、魔法が使えるってのは、何となくうれしいんだよね。わくわくするというか。
まあ、魔法とか、呪文を唱えただけで、簡単に使えるわけじゃないってのは、イメージとはちょっと違ったけど、ひとりひとりのスキルと考えれば、当たり前だよね。それでも、努力次第では伸ばすことができるって、確信が持てたのはうれしいのだ。
この調子で、訓練も頑張ろう。
「ふうん、今日はこれでおしまい? 寝かせる時間の方が長いんだね」
「そうですね。パン作りの場合、発酵の作業が多いですから。と言いますか、アノンさん、本当にすごいですね。それって、サイくんの姿ですよね?」
今、アノンは、巨人種のサイくんの姿になっている。
小っちゃい頃、ということだけど、さすがにサイクロプスだけあって、子供のころから大きいよね。もうすでに二メートルは越えている感じだし。
さっき、『混ぜるって力仕事だよね?』とか言って、そっちの姿に変化したのだ。
本当にすごいよね。
模写のスキルだっけ?
一家に一台、アノンちゃん、という感じだ。
まあ、当の本人に言わせると、興味の方向性が料理に特化しているので、それ以外ではあんまりスキルを使えないらしいんだけど、逆に言えば、料理がらみなら、たぶん、アノンが最強なんじゃないかな。
お手軽に変化してるし。
「まあね、基本、この町の住人だったら、一通り姿見は持っているかな。一部のおっかない人たちについては、使うつもりはないけど、変化できないこともないし」
「そういえば、アノンはドーマさんとかにも気に入られているのですよね」
「うわ!? やめてよ、ピーニャ!? ドーマさんは嫌だよ。下手をすると、延々と戦闘訓練に付き合わされるじゃない。あのね、ボクの能力は、そういうののためにあるんじゃないんだよ? まったく、あの人は、平和主義者を捕まえて、ほんと、困ったもんだよね」
「なのです。コロネさん、こういう能力持ちなのですが、アノンはピーニャたちと一緒に旅をしていた時も、自分から戦ったりはしなかったのですよ。そういうのは嫌いなんだそうです」
へえ、そうなんだ。
聞いていると、ものすごく強そうな感じがするけどね。
興味がないことには、からっきしって感じかな。
「それでも、訓練とか、頼まれれば付き合ったりもしたけどね。相手を叩きのめすとか、そういう使い方はダメだよ。ドッペルゲンガーの風上にも置けないよ。前にも言ったけど、ボクのモットーは『面白半分』なんだから」
「でも、料理とかでは手伝ってくれるんですね」
「面白いからね。今のボクにとっては。さもなけりゃ、グルメ新聞なんて作ってないもの」
言いながら、アノンの姿が再び、コロネの小さい頃の姿に戻る。
「だからね、コロネのことも興味があるんだよ。密着取材が終わっても、時々は遊びに来るから、その時はよろしくね。料理がらみだったら、能力を使って手伝ってあげるから」
「はい、ありがとうございます。こちらこそよろしくお願いします」
笑顔のアノンにお礼を言いつつ。
改めて、この町の人、いや、この町にやってくる人か。
本当に面白い人がいっぱいいるなあ。
そう思うコロネなのだった。




