第156話 コロネ、闇狼の威圧を受ける
「今までのは、身体能力とか、魔力の増強、それに周辺警戒と、それに対応する反射の精度をあげるための訓練って感じか、な。基礎のトレーニング、ね。そして、今からやるのは、精神面の強化だ、よ」
「精神面の強化、ですか?」
どちらかと言えば、先程よりも真剣な表情を浮かべるメイデン。
基礎トレーニングとは違い、ここから先はリスクも生じてくるとのこと。
「うん、簡単に言えば、失敗すれば死ぬ、という状況を乗り越えることか、な。命をやり取りする状況に身を置くことへの自覚、その恐怖心の克服。言い方は悪いけど、死を傍らに置いて、落ち着いていられるか、それを養うのがこの訓練の目的、ね」
これについては、個々で乗り越え方が違うので、自分で手段や理由付けを見つけるしからない、とメイデン。
「例えば、闘争本能を高めている人もいる、よ。自分より強い相手と戦うことに、恐怖ではなく、興奮を覚える感じか、な。わたしの父様もそんな感じ、ね。恐怖心を何かに置き換えるか、あるいはそのままの形で抑え込むか、ね。その人の性格や、本質によっても色々な方法があると思う、よ」
『ふん、まあ、そんなのは今更な感じだがな。負ければ死ぬ。それは自然の摂理というものだ。ゆえに、強くあらねばならんのだ。生まれて以来、安全な場所でしか過ごしたことがない赤子に、いきなり求めるのは酷かもしれんが、少なくとも、その安全が誰によってもたらされているか、それを意識すべきだとは思うぞ』
野に生きるとは、そういうことだ、とウーヴも言う。
彼も親として、そういう教えはしているとのこと。
『いくら俺が子供に甘いと言っても、生存がかかる領域については、軽んずるつもりはない。己の身は己で護れ。それができずに命を落とすことになっても、致し方ないことだ。厳しい言い方だが、それについて来れなければ、楽にしてやるのも優しさだ』
「まあ、人間種の場合はうーさんたちと違って、群れることで安全を確保してる部分があるし、ね。そもそもの地力も違うし、成長の速度もあんまり早くない、し。あんまり、子供のころから、そういう命がけの状況が続くと、逆に心が荒んでくるんだ、よ。だから、あんまり厳しいことを言わないで、ね」
『ふん、数の力、か。まあいい、俺にしても、人間どもが個々に俺と同等まで強くなっても困るからな。ふふん、貴様らは数が多いのだから、案外、そのくらいがちょうどいいのかもしれんな』
「それで、具体的には、どういう訓練をするんですか?」
ふたりが言いたいことは、よくわかった。
となると、問題はこれから何をするのか、ということだ。
うん、やっぱり嫌な予感しかしないよね。
「はっきり言ってしまえば、死線を乗り越えるってことか、な。今から、うーさんに、全力で戦闘態勢に入ってもらうから、その状態と対峙してみて、ね」
「全力で……?」
ええと、ちょっと待ってもらえますか?
いきなり、全力とかちょっとシャレにならないような気がするんだけど。
「うん、こればかりは、うーさんのさじ加減になるから……一応、手加減はしてもらおうとは思うけど、最初に、大丈夫、死にはしないから安心して、とも言えないんだよ、ね。この訓練の場合、その死ぬかもしれない状況を克服するためのものだから。だから、大丈夫、とはわたしも言わない、よ」
『別に俺も、貴様が憎いわけではないから、その辺りは気を付けるがな、コロネよ。だが、俺の全力の殺気を受けて、無事かどうかまでは俺もわからんぞ。俺は貴様ではないのだからな。さっきも言ったはずだ、死ぬなよ、と』
うわあ、ふたりとも考え方がスパルタだ。
頑張れ、生き残れ、必死についてこいよ、って感じだよ。
うーん、何となく、方向性は違うけど、向こうの店長を思い出すなあ。
パティシエの修行に行った初日に、ガツンと言われたのとか。
自分に厳しい人って、考え方とか似通っているのかな。
まあ、そのおかげかどうかはさておき、コロネも変な意味で免疫はついてるけど。
「ぷるるーん! ぷるっ!」
「え? ショコラもやるの?」
「ぷるるっ!」
どこか楽しそうに、ぷるぷる震えながら、ショコラが頷く。
いや、よくわかってるのかな?
何だか、一緒に遊びたいって言ってるみたいなんだけど。
『はっはっは! いいぞ、ちびすけ。だったら、貴様も参加しろ。コロネが死なないように護ってやれ。ふふん、それでこそ、野生のモンスターたる、だ』
「うん、良いと思う、よ。これは精神面の訓練だから、たぶん、そっちの方が、成長できるかも、ね。それじゃ、ショコラもコロネと一緒にいて、ね」
「ぷるるっ!」
何だか、よくわからないうちに、ショコラも訓練することになっちゃったね。
とりあえず、ショコラを肩に乗せた状態で、ウーヴと少し離れて向かい合う。
やはり、会話をしている時はあんまり怖くないけど、いざ、こういう風に相対すると、その迫力が伝わってくる。
狼というだけでも怖いのに、その大きさが向こうの狼より、一回りも二回りも大きいのだ。優に五メートルはあるだろうか。映画とかで、大きい狼とかと会うシチュエーションはあったけど、いざ、自分がその立場になると、本当に怖い。
闇色の目を見ていると、吸い込まれそうな感覚に襲われる。
たぶん、余計なことを色々考えてしまうのも、逃避のようなものなのだろう。
具体的に何をするのか、わからない分、得体のしれない違和感が体にまとわりついているような感じだ。
何となく、ショコラに手を伸ばしてなでる。
ぷにぷにした触感が、手に伝わってきて、それで、少しだけ平静に戻れる。
いや、この感触はすごいよね。
こんな状況でも、癒しとか、大した肌触りだよ。
『おい、メイデンよ。言われた通りで良いのだな?』
「うん、わたしが責任を持つ、よ。いざという時は、すぐに、メルを呼んでくるから」
メイデンの言葉に、場の緊張感が高まっていくのがわかる。
何かある可能性は否定できない。
そういうことだろう。
問題があるとすれば、今をもって、これから何が起こるのか、コロネにはまったくわからないということだろうか。
説明が一切ない、死の恐怖って、言葉の響きの方が変な想像を掻き立ててしまって、それが少しずつ膨らんでいくのだ。嫌な感覚だ。
『わかった。いくぞ……!』
途端、ウーヴの雰囲気が変化した。
敵意の伴った視線。
闇色の靄、いや、オーラというか、陽炎のようなものが濃度を増して、ウーヴの身体を包み込んでいく。
殺気。こちらを殺すという明確な意志。それが、はっきりとした形をもって、正面からコロネへと飛ばされているのが、わかる。経験の薄いコロネでも、はっきりと、だ。
檻がない状態で、猛獣と対峙すると、こうなるのだろうか。
飛行機事故の直前の感覚は、無機物な死、というイメージによって、支配されているような感じだったが、これはまったく違う。
明確に、こちらを殺す、という強い意志。敵意というのは生温い、ただただ、目の前の敵を屠るというためだけの感情。じりじりとした空気とでも言うのだろうか。感覚的には、訓練場の温度そのものが下がっていくような錯覚を覚える。
驚きなのは、そんなことを考えていられる自分自身に対して、だ。
なぜだろう。
死が迫っている、と感じる状況でも思考はまだ生きているのだ。
冷静というのとは、少し違うだろうけど。
『ガアアアア――――――!!』
「――――っ!?」
先程の怒鳴り声とは、一線を画す咆哮。
訓練場一帯が震えている。
耳にした瞬間、肌へと空気の震えが伝わった瞬間、それらひとつひとつが、殺される、という感覚を容赦なく、引き起こしていく。
怖い、とか、恐ろしい、とか、そういった言葉で表現できるようなものではなく、一個の生き物としての本能、そう本能だ。
この場に留まっていたくない。
今すぐ、悲鳴を上げて逃げ出したい。
死にたくない。
生物としての魂の叫びが、身体の中を渦巻いていく感覚。
と、同時に違和感もある。
どうして、わたしは、そう認識できている?
おかしい。
ウーヴの死の咆哮に震えている自分と、それを少し俯瞰して見ているような自分。
何だ、これ。
これが走馬灯を見ている時の脳の動きってこと?
確かに、本当に死が迫った時は、びっくりするほど冷静になれるって、聞いたことがあったけど、そういうものなのかな。
例えば、ショコラの感触とか、そういうものも意識できる。さっきと変わらず、ぷにぷにしているし。当のショコラも、恐怖でおののいているかと思えば、そうではなくて、コロネと目の前のウーヴを交互に見ながら、ちょっと楽しそうにしているのが伝わってくる。
いや、ショコラの場合、これが遊びだと思っているのかな。
コロネも、これが本気じゃないと、思っている?
だから、少し冷静でいられているってこと?
よくわからない。
いや、このよくわからない感覚が、死への恐怖だとすれば、こんなものどう克服したらいいのか、わからないよ。
だって。
今なら、たぶん、普通に動けるもの。
『ふん……』
殺気はそのままで、一瞬だけ、ウーヴの視線が、メイデンへと移る。
と、メイデンがそれに気付いて、血相を変えた。
「えっ……!? ダメだ、よ!? うーさん、ちょっと待って!?」
え? 何が、とコロネが思った、その瞬間だった。
さっきまで、穏やかな闇狼だったはずの、殺意の塊が、もの凄い勢いで、眼前まで迫ってくるのに気付いて。
あ、これはあの時と一緒だ。
思い出した。
この世界にやってきて、初めて、ウーヴと出会った時。
その時の感覚だ。
しかも、今のはそれよりもずっと――――――。
なるほど。
これが、死の恐怖、か。
突進してくるウーヴの姿が、ゆっくりと、たぶん、スローモーションで見えているのだろう。ゆっくりと、近づいてくるのを感じながら。
コロネの思考は、いったんそこで、ストップした。
「ぷるるーん!? ぷるるっ!」
「え!? ショコラ!?」
いや、思考が止まっていたのは、本当にわずかな時間だったのだろう。
ショコラが動いたのに気付いて、すぐに、何が起こっているか、気付く。
近づいてくるウーヴに向かって、ショコラが飛びかかったのだ。
え? これって、わたしを護ろうとして?
ちょっと、ショコラ、ちょっと待って!
『――――!? おい、ちびすけ、ちょっと待て!?』
ウーヴが動揺を浮かべたのも一瞬。
そのまま、ウーヴの身体がショコラへと衝突し、その存在そのものを吹き飛ばした。




