↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
<R15>15歳未満の方は移動してください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

凪の底で名前を呼ぶ

作者: 好山 雪
掲載日:2026/08/10

夜行フェリー〈しらなみ〉が岸壁を離れたとき、夏帆のスマートフォンに貝殻のアイコンが現れた。

白い巻き貝を、黒い海が囲んでいる。

アプリの名前は〈NAGI〉。

インストールした覚えはなかった。

〈AIがあなたの聴覚に合わせ、船内騒音と船酔いを軽減します〉

〈航海中はイヤホンを外さないでください〉

画面の下に、利用開始のボタンが青く光っている。

「こんなサービス、予約に入ってた?」

夏帆が訊くと、向かいの席で缶ビールを開けていた圭太が身を乗り出した。

「何それ。見せて」

二十八歳になっても、圭太の好奇心は大学時代と変わらない。アプリ制作会社のエンジニアという肩書が、その性格へ後から追いついただけだった。

夏帆が画面を見せる前に、実咲が「あ」と声を上げた。

「私にも来た。NAGIってやつ」

直哉と佑斗のスマートフォンにも、同じ貝殻があった。

五人が乗船前に再結成したグループチャットには、招待リンクが届いている。

送信者の名前は表示されていなかった。

〈BLUEのみなさまへ。十年ぶりの航海を、静かにお楽しみください〉

BLUE。

大学のダイビングサークルの名前だった。

夏帆は反射的に周囲を見た。

二等指定席のラウンジでは、家族連れが窓の外へ手を振り、旅行客が弁当を広げている。誰もこちらを気にしていない。

窓の向こうでは、港の灯りがゆっくり遠ざかっていた。

「直哉が仕込んだの?」

実咲が笑った。

「今回の幹事だし、サプライズ好きじゃん」

「俺じゃない」

直哉は即座に否定した。

彼はフェリーを運航する海央汽船に勤めている。この再会旅行も、旧型船〈しらなみ〉が八月で引退すると聞いた直哉が持ちかけたものだった。

東京湾側の汐浜港から、かつて合宿をした栞島まで十一時間。

学生のころ、五人は毎年この航路を使っていた。

もう一人と一緒に。

「船会社の公式アプリじゃないよ」

直哉は貝殻のアイコンを長押しした。

削除の表示が出ない。

「俺も今初めて見た」

「じゃあ誰がBLUEを知ってるんだよ」

佑斗が声を落とす。

五人の間に、エンジンの振動だけが残った。

答えは全員の頭に浮かんでいた。

誰も名前にはしなかった。

圭太が通りかかった乗組員を呼び止めた。

「すみません。この船酔い対策アプリって、船のサービスですか」

若い乗組員は首を傾げた。

招待リンクを自分の端末へ送ってもらい、開く。

〈この航海に、あなたの声は登録されていません〉

白い画面に、そう表示された。

「登録されてないって、何が?」

乗組員が訊く。

次の瞬間にはページが消え、船会社の公式サイトへ切り替わっていた。

圭太は自分の端末を機内モードにした。貝殻は消えない。電源を切ると、真っ暗な画面の中から波の音がした。

ざあ……ざあ……。

砂浜へ寄せる波ではない。

水の中で聞く、鈍く潰れた海の音だった。

その底から、女の声が五人の名前を呼んだ。

『夏帆。実咲。直哉。佑斗。圭太』

誰も動けなかった。

声は、十年前の汐見灯だった。

夏帆が〈利用開始〉へ触れる前に、NAGIは勝手に聴覚テストを始めた。

〈最も遠くに聞こえる音を選択してください〉

五つのボタンが並ぶ。

〈エンジン〉

〈波〉

〈呼吸〉

〈笑い声〉

〈助けを呼ぶ声〉

最後の二つを見た瞬間、画面が切り替わった。

〈選択時間を超過しました〉

〈あなたは、遠くの声を聞き分けることが苦手です〉

実咲がイヤホンを外した。

「これ、船内の音を本当に消せるのかな」

いつものように、怖さを好奇心で隠す声だった。

「使わない方がいい」

夏帆が言う。

「もう使ってるだろ…」

圭太が端末の音量をゼロにした。

それでも水中の波音は続いている。


「スピーカーから出てない。イヤホンもつないでない。どうやって聞かせてるんだ」

直哉は船内の無線周波数と干渉していないか調べた。佑斗は医療系のサイトで、集団性の耳鳴りや低周波音による幻聴を検索した。

どの説明も、灯の声が五人の名前を呼ぶ理由にはならなかった。

窓の外で、防波堤の赤い灯台が遠ざかる。

灯が最後に立っていた場所にも、同じ色の灯台があった。

夏帆は、船が出る前に降りればよかったと思った。

まだ港内だ。乗組員へ本気で頼めば、作業艇で戻してもらえる可能性はあった。

しかし、降りる理由を説明できない。

死んだ後輩の声がしたから。

十年前のいじめを思い出したから。

口にした瞬間、隣にいる四人との関係だけでなく、自分の現在まで壊れてしまう気がした。

夏帆は旅行雑誌の編集者として、海辺の町や島を紹介している。プロフィールには〈海を愛する元ダイバー〉と書いた。


その海で、一人の後輩を死なせたことは誰にも話していない。

直哉には婚約者がいる。

実咲には配信者としての信用がある。

佑斗はスポーツジムで子どもたちに水泳を教えている。

圭太は、人の声を扱うアプリを作っている。

五人とも、灯の死んだ海を土台にして、何事もなかった生活を建てていた。

NAGIは、その土台の下から叩いている。

〈本船はまもなく外洋へ出ます〉

〈途中下船はできません〉



2

灯はBLUEの一年後輩だった。

小柄で、いつも耳にかかる髪を銀色のピンで留めていた。海洋生物より水中の音に興味があり、防水マイクを抱えて潜った。

魚が珊瑚を齧る音。

海底の砂が潮に転がされる音。

遠くを通る船のスクリュー音。

「海の中は静かだと思われてるけど、本当はいろんな音があるんですよ」

灯はよくそう言った。

潜水中の呼吸が少し速いだけで、圭太は臆病者と呼んだ。

小柄で、髪形が夏帆と似ていたため、先輩たちは灯を〈チビカホ〉と呼んだ。灯が嫌がると、今度は〈泡〉と呼んだ。呼吸が速く、他人より多くの泡を吐くからだ。

五人が笑えば、灯も笑った。

先輩に逆らえなかっただけだと、今なら分かる。

当時の夏帆は、仲間になれたのだと思っていた。

三年の夏、栞島の夜間訓練で、圭太が水中スピーカーを持ち込んだ。実咲が録音していた灯の荒い呼吸を、海中で流すためだった。


真っ暗な海の中で、自分の呼吸音が四方から聞こえる。

灯は混乱し、浮上の合図もせず水面へ向かった。佑斗が足をつかみ、落ち着かせるふりをして数秒引き止めた。直哉はそれを面白がり、カメラを回した。

夏帆は船の上で、映像を配信用サイトへ投稿した。

〈幽霊に呼ばれてパニックになる初心者ダイバー〉

顔にはぼかしを入れた。それで個人は特定されないと思っていた。

声はそのままだった。

映像は拡散された。灯の怯えた呼吸に音楽をつけた動画まで作られた。大学内でも灯だと知られ、講義中に口で泡の音を真似されるようになった。

灯はBLUEを辞めた。

半年後、栞島へ一人で渡った。

夜明け前、合宿で使っていた防波堤に、靴とスマートフォンが残されていた。

遺書はなかった。

遺体も見つからなかった。

灯がいなくなったあと、夏帆は彼女の録音データを一つだけ見つけた。

BLUEの共有フォルダに、題名のない音声が残されていた。

夜明け前の栞島で録ったものだった。

最初の一分は、穏やかな波と係留ロープの軋む音。そのあと、まだ眠っている先輩たちを起こさないよう、灯が小声で解説していた。

『いま、沖でスナメリが息をしました』

水面を破る短い呼吸音。

『姿は見えなくても、音があれば、そこにいるって分かります』

声は弾んでいた。

怯えて呼吸する灯しか動画に残さなかった自分たちとは、別人のようだった。

続いて、テントから出てきた夏帆の眠そうな声が入る。

『何してるの、チビカホ』

『スナメリがいます』

『見えないじゃん』

『夏帆先輩にも、いま聞こえたでしょう?』

録音の中の夏帆は、あくびをして答えなかった。

その朝のことを、本人は忘れていた。

灯は覚えていたから、データを共有したのだろうか。

ただ美しい音を聞かせたかっただけなのか。

夏帆は何度か聞いたあと、ファイルを削除した。

死んだ灯の声を聞くと胸が苦しくなるから。

その苦しさを、自分が灯を大切に思っていた証拠のように感じていた。

実際には、聞きたくないものをまた消しただけだった。

スマートフォンには五人が参加するグループへ発信した履歴があったが、通話の記録は端末から削除され、受けた五人も全員、波の音しか聞こえなかったと答えた。

大学は、いじめと自殺の関係を認めなかった。

五人も同じ証言をした。

悪意はなかった。灯も楽しんでいた。動画は本人の希望で消した。最後の音声は雑音だけで、意味のある言葉は入っていなかった。

五人の証言が偶然揃ったわけではない。

灯が行方不明になった日の午後、大学近くのカラオケ店へ集まり、話す内容を決めた。

防音された部屋なら、誰にも聞かれないと思った。

直哉が最後の電話について話すと、圭太は最初に通話履歴を消した。

実咲は録音していた灯の声を削除した。

佑斗は夜間訓練の映像が残る共有フォルダを空にした。

夏帆が、大学へ提出する説明を考えた。

灯はサークルに馴染んでいた。

動画は本人の了解を得て投稿した。

退部後は連絡を取っていない。

最後の電話には波の音しか入っていなかった。

「これを全員、同じ順番で言おう」

夏帆が読み上げるたび、四人が復唱した。

その音声を圭太が録り、調査前に何度も聞けるよう共有した。

五人は、真実より上手に嘘を話せるよう練習した。

カラオケ機器の採点画面には、歌っていないのに九十八点と表示された。

「完璧じゃん」

実咲が笑った。

その笑いに全員がつられた。

同じころ、海上保安庁は灯の身体を探していた。

灯の母親は防波堤で、娘の名前を呼び続けていた。

五人はそれを知らなかった。

知らなくて済む場所を選び、自分たちの声だけを聞いていた。

NAGIが最終音声を五つの記憶から復元するのは、あのカラオケルームで五人が一つの嘘を作ったからかもしれない。

誰か一人の記憶だけでは、もう事実と嘘を分けられない。

五人分をつなぎ、重ならない音を拾って初めて、消した夜が戻ってくる。

十年後の船上で、圭太が笑った。

「声、似てただけだろ。生成AIなら数秒の素材で作れる」

「誰が作るの?」

実咲が訊いた。

「灯の家族とか。俺たちに復讐したい誰か」

「灯の家族に、この旅行の日程を教えた?」

誰も答えなかった。

灯の母親は葬儀の席で、五人の顔を一度も見なかった。

夏帆はNAGIを開いた。

〈航海を開始しますか?〉

〈AIがあなたの記憶から、失われた海の音を復元します〉

利用規約も会社名もない。

画面の最下部に小さな文字があった。

〈目的地――汐見灯さんが待っている場所〉

夏帆はスマートフォンを伏せた。

「引き返してもらおう」

「無理だ」直哉が言った。「客一人の事情で航路は変えられない。あと一時間もすれば外洋に出る」

「事情って、何て説明するんだよ」

佑斗が苛立った声を出した。

「死んだ後輩の声が、俺たちにだけ聞こえるって?」

実咲は窓の外を撮影していた。

「配信する気?」

夏帆が訊く。

「証拠を残すだけ。何かあったとき、データがあれば――」

実咲の画面にコメントが流れ始めた。

彼女は旅行系の配信者として二十万人以上の登録者を持っている。深夜の臨時配信にも、すぐ数百人が集まった。

〈海きれい〉

〈音小さくない?〉

〈後ろに誰かいる〉

実咲が振り返る。

ラウンジの窓際には誰もいない。

コメントが増えた。

〈濡れてる女の子〉

〈ずっとカメラ見てる〉

〈何か言ってない?〉

実咲の背後の窓に、濡れた手形が浮かんだ。

海側から、五本の指がガラスを押していた。

〈航海を開始します〉

五台のスマートフォンが同時に告げた。

船内の音が、消えた。

3

エンジンも、話し声も、食器の触れ合う音も聞こえない。

周囲の人々は普通に動いている。子どもは口を開けて笑い、売店の店員が客を呼び止めている。けれど五人の耳には、何も届かなかった。

完全な無音の中で、泡だけが弾けた。

ぼこっ。

ぼこ、ぼこっ。

水中で誰かが息を吐いている。

夏帆は耳を塞いだ。音は頭蓋骨の内側から響いた。

『先輩』

灯の声がする。

『私の呼吸、面白かったですか』

圭太が椅子から立ち上がった。

「やめろ! 誰がやってる!」

自分の怒鳴り声も聞こえていないらしく、必要以上に大きな声だった。

乗組員が近づき、何か話しかける。夏帆には唇の動きしか分からなかった。

直哉が身分証を見せ、身振りで事情を伝える。五人は医務室へ案内された。

廊下を歩く間も、泡の音がついてきた。

医務室で聴力を調べると、全員に異常はなかった。

船医の声は聞こえない。紙へ〈スマートフォンから音がした直後、何も聞こえなくなった〉と書いて渡した。

船医が五台を確認したとき、貝殻のアイコンは消えた。

紙に〈問題のアプリがありません〉と書く。

圭太が自分で持ち直すと、NAGIが戻った。

〈音響調整が完了しました〉

〈不要な音を除去しました〉

〈これより、必要な音だけを再生します〉

その瞬間、船内の音が戻った。

エンジンの低い振動。空調。船医の声。

五人は同時に息を吐いた。

「一時的な症状かもしれません。今夜は飲酒を控えて、横になってください」

船医には、集団で気分を悪くした旅行客としか見えていなかった。

圭太は医務室を出るなり言った。

「アプリの音声を抜く。端末の中になくても、出力の痕跡くらいは残るはずだ」

「一人にならない方がいい」

夏帆が止めたが、圭太は笑った。

「怖いなら全員俺の部屋に来れば?」

五人用の個室は取れず、圭太と佑斗、夏帆と実咲が二人部屋、直哉だけが会社枠の一人部屋を使っていた。

圭太の部屋へ集まり、彼はノートパソコンと端末をケーブルでつないだ。

NAGIを操作するたび、画面上の数値は変化する。だが通信先も処理内容も表示されない。

「こんなのありえない。見えてるのに、データとして存在しない」

「生成AIなんでしょ」

「生成する本体がないんだよ」

圭太が苛立ってキーボードを叩く。

NAGIから質問が表示された。

〈汐見灯さんの最後の音声を削除したのは誰ですか?〉

五人の顔から血の気が引いた。

「各自で消しただろ」

佑斗が言う。

「聞いたあと、全員で決めた」

「私は最後まで聞いてない」

実咲が早口に言った。

「雑音だけだったから途中で消した」

「俺もだ」

「嘘」

夏帆の声に、四人が振り向いた。

「意味のある言葉が入ってた。灯は、私たちの名前を呼んでた」

直哉が低く言う。

「どうして今さら言うんだ」

「みんな聞いてたと思ってた」

圭太のパソコンから、消去を確認する電子音が鳴った。

灯の音声を消した夜と、同じ音だった。

圭太がヘッドホンを外す。

「今の、聞こえた?」

床が大きく傾いた。

外洋へ出た船が、うねりを越えたのだ。

棚からペットボトルが落ちた。天井のハンガーが揺れ、壁にぶつかる。

圭太が耳を押さえた。

「息が、うるさい」

自分の呼吸が聞こえているらしい。

「止まらない。俺じゃない。誰かが、すぐ後ろで――」

振り返っても、壁しかない。

圭太は部屋を飛び出した。

追いかけたが、廊下の角で姿を見失った。

十分後、船内放送が圭太を呼び出した。

返事はなかった。

彼が見つかったのは、午前零時二十三分。

鍵のかかった一人用シャワー室だった。

床も壁も乾いていた。

圭太は排水口に顔を押しつけ、両手で喉を掻きむしって死んでいた。

口から、海藻の切れ端と大量の海水があふれていた。

〈一人目の音を回収しました〉

〈呼吸音の復元率 21%〉

医務室へ運ぶため、圭太の身体を仰向けにした。

肺を圧迫された口から、さらに海水が流れ出した。

小さな透明の生き物が床で跳ねた。

栞島周辺の浅い海に棲む、体長数センチのエビだった。

乗組員が採取しようと容器を取りに行った数秒の間に、跡形もなく消えた。

夏帆たちは医務室前の廊下へ集められた。

圭太の端末だけは、持ち主の手を離れてもNAGIを表示していた。

画面に水中映像が流れている。

暗い海へ、圭太が一人で沈んでいく。

レギュレーターはない。息を止め、両手で口を押さえている。

画面の端には、AIによる解析値が出ていた。

〈呼吸保持時間 四十二秒〉

〈推定限界まで 十秒〉

数値がゼロになると、映像の圭太は大きく口を開けた。

大量の泡が上へ昇る。

画面が暗転した。

「圭太は、水中スピーカーの音量を上げた」

佑斗が言った。

「灯が浮上しようとしても、まだ余裕があるって言って止めた」

「足をつかんだのは佑斗でしょう」

実咲が返す。

「俺はパニック浮上を止めただけだ」

「違う。撮影が終わるまで待てって、直哉に言われたから」

「俺のせいにするな」

四人の声が荒くなる。

圭太が死んだ悲しみより、自分が次に選ばれないための言葉が先に出ていた。

NAGIは会話を録音している。

〈記憶の海図を更新しました〉

〈汐見灯さんの最終音声を五つの断片に分割しています〉

五人の名前の横に、それぞれ短い波形があった。

圭太の波形だけが再生できる。

押すと、灯の最後の電話が流れた。

『先輩たち、私のこと――』

そこで切れた。

実咲の端末では、その続きが再生された。

『――覚えてますか』

佑斗、直哉、夏帆。

一人ずつ聞こえる場所が違う。

五人全員の記憶をつなげなければ、音声は完成しない。

「私たちが聞いた順番を覚えてる」

夏帆は言った。

直哉は首を振った。

「違う。アプリが、そう思わせてるだけだ」

その否定も、NAGIの波形へ取り込まれた。

4

〈しらなみ〉は最寄りの港へ向けて進路を変えた。

そう船内放送が告げたのは、圭太の遺体が医務室へ運ばれてから三十分後だった。

乗客には急病人が出たとだけ説明された。シャワー室の前は立入禁止になり、夏帆たち四人は別々に事情を聞かれた。

圭太は酒を飲んでいた。船酔いもしていた。足を滑らせ、排水口へ顔をぶつけた可能性がある。

乗組員はそんな仮説を口にした。

海水と海藻がどこから来たのかには触れなかった。

夏帆はNAGIを見せようとした。乗組員が顔を近づけるたび、貝殻は消えた。〈一人目の音を回収しました〉という画面を撮影しても、写真には黒い背景しか写らない。

「集団で同じ幻覚を見るなんてある?」

実咲が廊下の壁へ背を預けた。

圭太の死を見てから、頬の震えが止まらない。

「アプリは私たちの名前を知ってる。灯のことも。これが幻覚なら、四人で同じ幻覚を作ってることになる」

「灯の家族が仕掛けた可能性は?」

佑斗はまだ人間の犯人に縋っていた。

「圭太をシャワー室で溺れさせて、鍵まで閉めたの?」

「手品だって、仕掛けが分かる前は不可能に見える」

直哉は二人の言い争いを止め、会社用の無線で運航状況を確認した。

「おかしい」

「何が?」

「進路変更の連絡が、本社に入ってない」

直哉の端末では〈しらなみ〉は予定航路を進んでいる。船内放送では最寄りの雲崎港へ向かうと言ったのに、速度も方位も変わっていない。

「船橋へ行って確認する。三人は一緒にいろ」

「私も行く」

夏帆が言ったが、直哉は首を振った。

「社員証がないと入れない区域だ。すぐ戻る」

直哉が去り、夏帆、実咲、佑斗はラウンジへ移った。

一般の乗客が大勢いる場所なら安全だと思った。

実咲は配信を再開した。

「やめた方がいい」

「止めない。圭太が死んだことも、アプリも、全部残す」

「さっきの配信にはアプリが映ってなかった」

「でも、窓の手形はみんな見てた」

配信画面には、すでに一万人近い視聴者が集まっていた。

急病人のため航路変更、という船内放送を聞いた人が情報を探し、実咲の配信へたどり着いたらしい。

実咲はカメラへ向かって話し始めた。

「同じ船に乗っている友人が亡くなりました。事故か事件か分かりません。私たちのスマホには、存在しないアプリが――」

コメント欄に、同じ文章が並んだ。

〈泡ちゃんの動画、もう一回見せて〉

〈泡ちゃんの動画、もう一回見せて〉

〈泡ちゃんの動画、もう一回見せて〉

「誰、これ」

実咲がブロックしても、新しいアカウントが同じ文を書き込む。

十年前の動画を知っている人間は、今の視聴者にはほとんどいないはずだった。問題になった直後、夏帆が削除した。転載も検索結果から消えるよう、大学を通じて申請した。

画面が切り替わった。

実咲の配信ではなく、暗い海中映像が流れている。

照明の円の中で、灯がもがいていた。

レギュレーターから吐き出される泡。足をつかむ佑斗の手。水中カメラの向こうで笑っている直哉。

音声には、灯の呼吸だけが強調されていた。

速く、浅く、苦しそうな呼吸。

『やめて』

水中では言葉にならない声が、AIによって鮮明に補完されている。

『先輩、やめて』

実咲がスマートフォンを投げた。

画面は床へ落ちても配信を続けた。

コメント欄が笑い声で埋まっていく。

〈wwwww〉

〈最高〉

〈もっと沈めて〉

十年前、実際に書き込まれたコメントだった。

ラウンジのあちこちから笑い声がした。

乗客たちは笑っていない。眠っている者も、本を読んでいる者もいる。声だけが座席の下、天井の通風口、窓の外から湧き出してくる。

実咲は両耳を押さえ、走り出した。

夏帆と佑斗が追う。

実咲は船尾の展望デッキへ出た。

強い風が髪を煽る。エンジンが押しのけた海水が、白い航跡となって闇へ延びている。

「実咲、戻ろう!」

実咲は手すりから身を乗り出した。

「灯がいる」

「見ないで!」

「泳いでる。ずっと、船についてきてた」

航跡の中央に、黒い頭が浮かんでいた。

船は時速四十キロ近くで進んでいる。それなのに灯は、手を伸ばせば届きそうな距離を保っている。

実咲がスマートフォンを海へ向けた。

配信画面には、水面ではなく海底が映っていた。

砂の上に灯が立っている。

髪も服も揺れず、顔だけを真上へ向けていた。

『実咲先輩』

実咲の端末から声がした。

『まだ撮ってるんですか』

笑い声が拍手に変わった。

何百、何千という手が、船の外で一斉に鳴っている。

実咲が手すりから離れた。

その背中を、濡れた二本の手が押した。

夏帆には、そう見えた。

実咲の身体が手すりを越えた。

佑斗が腕をつかもうとしたが、指先が届かない。

実咲は声も上げず、航跡へ落ちた。

すぐ非常通報装置を押した。船尾へ救命浮環が投げ込まれ、〈しらなみ〉は減速した。

海面は照明で照らされ、救助艇が下ろされた。

実咲は見つからなかった。

ただ、彼女の配信だけが続いていた。

海中から見上げた〈しらなみ〉の船底を映している。

その映像の中で、実咲は灯と手をつなぎ、深い場所へ沈んでいった。

〈二人目の音を回収しました〉

〈笑い声の復元率 43%〉

実咲が消えたあと、配信ページには映像だけが残った。

運営によって停止されるまでの十二分間、海底のカメラは砂地を映していた。

視聴者の多くは、事前に用意された演出だと思った。

〈すごいCG〉

〈映画の宣伝?〉

〈失踪した友達っていう設定か〉

実咲を助けるために通報した者もいた。しかし船会社が確認を始めるころには、映像から灯も実咲も消えていた。

最後の一秒、砂の上に文字が書かれていた。

〈見ているだけですか〉

夏帆は何度も一時停止した。

自分へ向けられた言葉に思えた。

あの訓練のあと、実咲は灯へ謝ろうとしたことがある。

二人で駅のホームにいたとき、夏帆へ打ち明けた。

「動画、消した方がいいよね。灯ちゃん、本当に怖がってた」

夏帆は答えた。

「いま消したら、私たちが悪いって認めることになるよ」

すでに動画は拡散され、灯の名前も知られ始めていた。

謝ったところで手遅れだ。それより大学から処分されない方法を考えよう。

実咲はうなずいた。

その夜、彼女は自分が撮影した別角度の映像を追加で投稿した。

一人で悪くなりたくなかったのだ。

夏帆も同じだった。

誰かが謝ろうとすると止めた。

一人が話せば、全員の嘘が崩れるから。

いま海に消えた四人の責任を並べながら、夏帆は初めて、自分が五人を黙らせ続けたことに気づいた。

5

救助活動が打ち切られたのは、一時間後だった。

波は一メートル未満。強い横揺れも、突風の記録もない。実咲が自分で手すりを越えたように見えたと、目撃者は証言した。

夏帆が見た濡れた手は、監視カメラには映っていなかった。

佑斗は個室へ戻ると言い張った。

「ここにいる方が危ない。人が多くても実咲は死んだ」

「一人になった圭太も死んだ」

「じゃあどうすればいいんだよ!」

佑斗は壁を殴った。

「俺たちが何をしたっていうんだ。灯はあの訓練で死んだわけじゃない。半年もあとに、自分で海へ入ったんだぞ」

「私たちが追い込んだ」

「証拠があるのか?」

十年前の調査で、何度も使われた言葉だった。

証拠があるのか。

動画は消えた。メッセージも消えた。灯の遺体は見つからない。

ないものは、なかったことにできる。

佑斗のスマートフォンから、潜水用の警告音が鳴った。

ぴっ、ぴっ、ぴっ。

急浮上を知らせる音だった。

佑斗の顔色が変わる。

「止めろ」

音は次第に速くなる。

ぴぴぴぴぴぴぴぴ。

佑斗は端末を床へ叩きつけ、階段を駆け下りた。

「どこへ行くの!」

「下だ。水面に近い方へ」

彼は何かに追われるように、下層の車両甲板まで降りていった。

夜間の車両甲板は立入禁止だ。防火扉の前で乗組員に止められ、佑斗は暴れた。

「浮上しすぎたんだ! もう一度潜らないと身体が破裂する!」

「ここは海の上です。落ち着いてください」

「俺はいま、水深四十メートルにいる!」

佑斗の画面で、深度を示す数字が変化していた。

38・7。

41・2。

45・9。

数値が増えるたび、佑斗の声が圧し潰されるように低くなっていく。

夏帆には、車両甲板が青黒い海の底へ変わって見えた。

駐車された車が珊瑚の塊になり、天井灯の周りを小魚が泳いでいる。佑斗の髪と服が、見えない水に揺れていた。

灯が彼の足元にしゃがんでいる。

十年前の夜と同じように、佑斗の足首をつかんだ。

『浮上しちゃだめなんですよね、先輩』

佑斗が床へ倒れた。

耳と鼻から血が流れ、皮膚の下で小さな泡が次々に膨らんだ。乗組員が救命処置をしようと身体へ触れると、胸郭が内側へ潰れた。

何千メートルもの水圧を受けたように。

警告音が止まった。

〈三人目の音を回収しました〉

〈警告音の復元率 64%〉

直哉が戻ってきたとき、佑斗の身体は白いシートで覆われていた。

「船橋へ入れてもらえなかった」

直哉は荒い呼吸で言った。

「社員証が反応しない。船長とも無線がつながらない。会社の端末では、ずっと正常運航の表示だ」

「進路は?」

直哉が自分のスマートフォンを見せた。

NAGIの地図に、青い航跡が描かれている。

〈しらなみ〉は栞島へ向かっていなかった。

十年前、灯のスマートフォンが見つかった防波堤から、東へ十三キロ。

海上捜索が最後に行われた地点へ向かっている。

〈到着予定 午前二時十七分〉

残りは、夏帆と直哉の二人だった。

直哉の社員証が、今度は船橋前の扉を開けた。

夏帆も一緒に入る。

船長と航海士は通常どおり計器を確認していた。彼らの画面では、〈しらなみ〉は雲崎港へ向けて進んでいる。

窓の外に見える星の位置と、船の方位磁針も一致している。

NAGIだけが、別の海を示していた。

「船底カメラか、音響測深機はありますか」

直哉が船長へ頼んだ。

不審がられながらも、検査用の簡易ソナーを起動してもらう。

水深九百八十メートル。

海底まで障害物はない。

一度目の音波が船底から放たれた。

人間には聞こえない周波数のはずなのに、夏帆には高い電子音として聞こえた。

返ってきた反響が画面へ点を描く。

船底から十メートル下に、一つ。

次の発信では八メートル。

六メートル。

何かが、音波を受けるたび船へ近づいている。

「魚群ですか」

夏帆が訊く。

航海士は首を振った。

「反射が一個だけです。大きさは、人間くらい」

船長が再起動すると、点は消えた。

代わりに、夏帆のスマートフォンへ輪郭が出た。

長い髪を上へ漂わせ、両手を広げた人の形。

〈音源との距離 〇メートル〉

船底から、爪を立てる音がした。

ぎいっ。

鋼板の上を、船尾から船首へ移動していく。

船橋の乗組員には聞こえない。

直哉と夏帆だけが、足元を通り過ぎる気配を追った。

航海士が窓を指さした。

「あれは何だ」

海面に、白い浮標のようなものが並んでいる。

圭太、実咲、佑斗のスマートフォンだった。

死んだ三人の端末が、画面を上にして海を漂っている。

船と同じ速度で。

それぞれの画面に波形の断片が光っていた。

最後の音声を積んだまま、〈しらなみ〉を目的地へ導いている。

6

「灯の最後の音声、何て言ってた?」

夏帆は直哉に訊いた。

二人は誰もいないレストランにいた。

午前二時を過ぎ、乗客の多くは客室へ戻っている。厨房の灯りは落ち、窓の外には闇しかない。

「覚えてない」

「嘘」

「十年前だぞ」

「みんな、同じ嘘をついた。雑音しか入っていなかったって。でも、私は聞いた。灯が私たちを呼ぶ声を」

「だったら、お前が話せばよかった」

直哉の声に怒りが滲んだ。

「動画を投稿したのもお前だ。いちばん簡単に止められたのに」

「分かってる」

「分かってない。お前はいつも、自分は撮っただけ、頼まれただけって顔をする」

窓に二人の姿が映っている。

その間に、濡れた灯が立っていた。

夏帆は振り返らなかった。

「直哉は、最後まで聞いたんでしょう」

長い沈黙のあと、直哉はうなずいた。

「俺のところには、灯から電話が来た」

「音声メッセージじゃなくて?」

「あいつが防波堤へ行った夜だ。俺たちは圭太の部屋で飲んでた。灯の名前が出たから、スピーカーにして、みんなで聞いた」

夏帆の記憶に、電子音が戻ってきた。

圭太の部屋。安い酒。テーブルの上で光る直哉のスマートフォン。

灯の声。

『先輩たち、私のこと、覚えてますか』

圭太が口元へ指を当て、笑いを堪えていた。

実咲は録音ボタンを押した。

佑斗が口で泡の音を真似した。

夏帆は、止めなかった。

「灯はどこにいるか言った?」

「海の前って。俺は、勝手にすればって言った」

「それで切ったの?」

「違う。灯が、最後に訊いたんだ」

直哉は両手で顔を覆った。

「海の底まで行けば、先輩たちの声は聞こえなくなりますか、って」

電話の向こうでは波が鳴っていた。

直哉は答えた。

試してみれば。

それから通話を切った。

翌朝、灯のスマートフォンが防波堤で見つかった。

「どうして話さなかったの」

「話したら、俺が死なせたことになる」

「実際、そうでしょう」

直哉がテーブルを叩いた。

「お前だってそこにいた!」

「うん」

夏帆は初めて否定しなかった。

「私も笑ってた」

NAGIが反応した。

〈佐久間夏帆さんの記憶を受領しました〉

〈最終音声の復元率 82%〉

船が減速した。

エンジン音が低くなり、やがて完全に止まった。

海面は鏡のように平らだった。

風も、波もない。

凪だった。

7

凪の海で、船底を叩く音がした。

 ――こつ、こつ。

足元から伝わる。

夏帆と直哉は窓へ近づいた。

船内の照明が海面を照らしている。黒い水には皺一つない。巨大な黒い鏡の上に、〈しらなみ〉だけが浮かんでいた。

 ――こつ、こつ。

今度は真下から。

船体の鋼板を隔てて、誰かが指の関節で叩いている。

『海の底は、静かじゃありませんでした』

灯の声が船内放送から流れた。

『船の音が、ずっと聞こえます』

廊下へ出ると、客室の扉が一斉に開いていた。

乗客たちが顔を出し、何事かと話している。だが灯の声は聞こえていないらしい。エンジンの停止にも気づいていない。

幼い男の子が窓を指さした。

「お母さん、海の下に女の人がいる」

母親は外を見て、何もいないと言った。

男の子には見えるのだ。

「髪が船に絡まってるよ」

直哉が走り出した。

「どこへ行くの」

「救命艇だ。船が動かないなら、自分で離れる」

「圭太も実咲も佑斗も、逃げようとして死んだ」

「ここにいたって殺される!」

直哉は夏帆の腕を振り払い、上層デッキへ駆け上がった。

左舷の救命艇は、普段は白い覆いをかけられ、海面より十メートル以上高い位置に吊られている。

直哉は会社の非常鍵で操作盤を開けた。

「勝手に下ろしたら、ほかの乗客まで危険になる」

「一艇くらいなくても足りる」

「そういう話じゃない!」

直哉が降下ボタンを押す。

反応しない。

代わりに、直哉のスマートフォンから通話の切断音が鳴った。

ぷつっ。

『海の底まで行けば、先輩たちの声は聞こえなくなりますか』

灯の問い。

十年前の直哉が答える。

『試してみれば』

ぷつっ。

切断音。

同じやり取りが繰り返される。

『試してみれば』

ぷつっ。

『試してみれば』

ぷつっ。

直哉が操作盤を殴った。

「違う。俺は酔ってたんだ。冗談だった!」

救命艇の固定金具が外れた。

直哉は笑い、艇へ飛び乗った。

「夏帆、来い!」

夏帆は動かなかった。

「早くしろ!」

「私は残る」

「死ぬぞ!」

「灯にも、そう言えばよかった」

直哉の顔から表情が消えた。

救命艇が降下を始める。

ワイヤーの回る音はしない。白い艇が闇の中を、ゆっくり海面へ近づいていく。

海へ着く直前、艇内に水が湧いた。

底からではない。

何もない空間から海水が落ち、直哉の足首、膝、胸まで満たしていく。

「止めろ! 上げてくれ!」

直哉が叫ぶ。

夏帆は操作盤へ駆け寄った。上昇ボタンを押すが反応しない。

救命艇は海面に触れていない。それなのに水は直哉の頭を越えた。

透明な窓の内側で、直哉が両手を打ちつける。

口が言葉を作った。

たすけて。

夏帆は何度も上昇ボタンを押した。

艇内の灯りが消えた。

直哉のスマートフォンだけが青く光り、水の中を漂う。

〈通話を終了しますか?〉

〈はい〉

NAGIが選択した。

ぷつっ。

ワイヤーが二本とも切れた。

救命艇は音もなく落下し、黒い海へ沈んだ。

浮かび上がらなかった。

〈四人目の音を回収しました〉

〈切断音の復元率 91%〉

〈最終乗客、佐久間夏帆さん〉

8

夏帆は船内へ戻った。

乗組員へ救命艇の転落を伝えたが、誰も信じなかった。

左舷の艇は定位置に吊られていた。

白い覆いも、ワイヤーも損傷していない。

直哉だけが消えていた。

NAGIの地図では、〈しらなみ〉は目的地点へ到着している。

〈最後の音声を再生するには、すべての声が必要です〉

〈佐久間夏帆さんの声を登録してください〉

マイクのボタンが表示された。

夏帆は押さなかった。

「私も殺すの?」

〈質問を認識できませんでした〉

「灯がやってるの?」

〈質問を認識できませんでした〉

「あのとき、何を言いたかったの」

〈音声が不足しています〉

アプリは同じ答えを返すだけだった。

AIの形をしていても、中に知性などないのかもしれない。

ただ失われた音を集める装置。

そこへ灯の怨念が入り込み、五人の記憶を素材に、最後の夜を何度も生成している。

夏帆は船内案内図を見た。

放送室は船橋の下にある。

非常階段を上がり、乗組員用通路へ入る。扉には電子錠があったが、夏帆のスマートフォンを近づけると開いた。

NAGIが案内するように、廊下の照明を一つずつ点灯させる。

放送室にはマイクと音源設備が並んでいた。

夏帆は全船放送のスイッチを入れた。

「こちらは乗客の佐久間夏帆です」

スピーカーから自分の声が返る。

「十年前、私たち五人は、大学の後輩だった汐見灯さんをいじめました」

客室が騒がしくなる。

乗組員が放送室へ向かってくる足音がした。

夏帆は話し続けた。

灯の呼吸を録音したこと。

水中で流し、混乱する姿を撮影したこと。

その動画を投稿したこと。

灯が苦しんでいると分かってからも、保身のため証拠を消したこと。

自殺する前の電話を、五人で聞いて笑ったこと。

「私は悪ふざけだったと言いました。でも、灯さんが苦しむ姿を面白いと思っていました。反応が多くて嬉しかった。だから動画を消さなかった」

放送室の窓に、濡れた灯が映っている。

「灯さん。私には、あなたの声が聞こえていました」

NAGIの録音ボタンを押した。

「聞こえていたのに、聞かなかったことにしました」

〈佐久間夏帆さんの声を登録しました〉

〈最終音声の復元率 100%〉

放送室の扉が開き、乗組員が入ってきた。

マイクを止めようとした手が途中で動かなくなる。

船内の全スピーカーから、灯の声が流れ始めた。

今度は夏帆だけではない。

乗組員も、乗客も、全員が聞いていた。

『先輩たち、私のこと、覚えてますか』

波の音。

『あの動画を消しても、聞いた音は消えないんです。大学へ行っても、電車に乗っても、眠ろうとしても、知らない人が私の呼吸を真似します』

声は震えていた。

けれど、最後まで言葉を選び、伝えようとしていた。

『私、いま海の前にいます。死にたいのか、自分でも分かりません。誰かに止めてほしくて電話しました』

佑斗が泡の音を真似する。

圭太の笑い声。

実咲が録音を始める電子音。

直哉の声。

『試してみれば』

通話が切れる。

だが、復元された音声はそこで終わらなかった。

灯のスマートフォンが、切断後も録音していた音を再生する。

『聞こえなくなるまで、遠くへ行きたい』

靴を脱ぐ音。

コンクリートの防波堤を歩く足音。

海へ入る水音。

灯の呼吸が速くなる。

胸まで海につかったところで、足音が止まった。

長い沈黙。

『お母さん』

灯が泣いた。

『ごめんなさい』

最後に大きく息を吸う。

水音。

呼吸は二度と戻らなかった。

放送を聞いていた乗客の中から、すすり泣きが起きた。

灯を知る者はいない。

それでも、誰かが助けを求めて電話をかけ、笑われ、海へ入っていくまでの音を全員が聞いた。

若い乗組員が、夏帆の隣で無線を握ったまま泣いていた。

「どうして、いままで残っていたんですか」

夏帆には答えられなかった。

消したはずの音がどこに残るのか。

サーバーか、端末か、海の底か。

それとも、聞いて何もしなかった人間の中か。

NAGIの画面に、百二十七本の新しい波形が現れた。

乗客と乗組員の声だった。

〈最終音声を共有しました〉

〈証人 一二七名〉

〈この音は、これ以上削除できません〉

船底を叩いていた音が止まった。

海面に、小さな泡が一つ浮かんだ。

灯が最後に息を吐いた場所を示すように。

9

音声が終わると同時に、エンジンが動き出した。

波と風が戻った。

〈しらなみ〉は、最寄りの雲崎港へ向かっていた。

圭太の遺体以外、三人は見つからなかった。

実咲が転落した記録は残っていたが、直哉の救命艇事故も、佑斗の異常な死も、船のカメラには映っていなかった。映像の中の二人は、誰もいない通路へ歩いて入り、そのまま消えていた。

全船放送の録音には、夏帆の告白だけが残っていた。

灯の声が流れたはずの九分間は、海中で録ったような低い雑音に置き換わっていた。

ただし、乗客と乗組員の百二十七人が、同じ内容を聞いたと証言した。

十年前のいじめと灯の死について、大学は再調査を始めた。

夏帆は、当時の動画データと、自分たちが交わしたメッセージを提出した。完全に削除したつもりだったが、古い保存サービスに複製が残っていた。

灯の母親へ会いに行った。

何度謝っても、灯は戻らない。

許しを求めるつもりはないと伝えた。

母親は夏帆の話を最後まで聞き、帰り際に一つだけ訊いた。

「灯の最後の声は、苦しそうでしたか」

夏帆は嘘をつかなかった。

「はい」

母親は目を閉じた。

それ以上、何も言わなかった。

半年後、〈しらなみ〉は予定どおり引退した。

最後の航海を終えた船は解体され、船底の点検中に奇妙な傷が見つかった。

鋼板の内側から外側へ向かって、指で叩いたような小さなへこみが無数についていたという。

夏帆のスマートフォンからNAGIは消えた。

船にも乗らなくなった。

それでも、午前二時十七分になると、ときどき部屋の排水口から波の音がする。

ある夏の夜、洗面台の前で、その音を録音した。

再生すると、波に混じって五人の呼吸が入っていた。

圭太、実咲、佑斗、直哉。

そして夏帆自身。

五つの呼吸は海の底で重なり、少しずつ速くなっていく。

画面に、白い貝殻が現れた。

〈次の航海まで、イヤホンを外さないでください〉

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。