ある井戸とカクレミノとわたし
真夜中に、ふと思いついて書きだしました。公式企画に滑り込みです。
大学の、掲示板の一角に、アルバイトの紹介コーナーがあることに気づいた。
今時、掲示板なんて誰も見ない。休講の連絡も、教室の変更や学生課の呼び出しも、オンラインである。風景の一部みたいなポスターが貼られていて、誰も特に目を止めることなく、端末に目を落として通り過ぎていく。
気づいたのは、ただの偶然。あるいは、結果論的には運命のめぐりあわせというものなのか。
この日は新しいスニーカーで、まだ新しいひもがうまく結ばれてなくて、解けてしまったから、屈んで結びなおして、目を上げて。
手書きの、達筆なアルバイト紹介、という題目。その下のスペースに、はがきサイズの紙が数枚、貼られていた。こちらも、やっぱり手書き。
昔のものが放置されているのかと思ったけれど、記入日も受付日も、仕事の期間も直近で、ちゃんと更新されている新しい情報だった。
内容は、一日から数日の短期のもの、かつキャンパスの周辺ばかりだ。時給は高くなく、低くなく。拘束時間も、朝から夕刻までの日中勤務。
ネットに疎い高齢者の、ご近所から直接持ち込まれたのだろうかと考えながら、一通り(といっても、片手ほど)眺めた結果、一枚を外す。それをひらひらさせながら、事務棟に向かった。
学生課、学務課、経理課、入試課、キャリア支援課、施設課、総務課、と部屋の前を通り過ぎて、来たことのない一番奥、三弾ほどの階段を下りた突き当りのドアが、指定された取り扱い先だった。他の部署と同じに、上半分がガラスになった扉には、金属のプレートが付いていて、交流課と刻まれている。
学生課や学務課のように、学生が頻繁に訪れる部署は窓口があるが、ここにはドアしかない。
ノックをすると、手前の机の職員がこちらを見て、腰を浮かせた。どうぞ、と言う声を聞いて押し開けた。
「こんにちは。これを持ってきたのですけど。」
ひら、とアルバイト募集の紙を振った。
「ああ!」
職員は、頷いて背後を振り向いた。
「室長! 」
と、担当の職員を呼んだ。
室長とは、この部署の責任者の事では、と思いながら、反射的にそちらに会釈を送って、
「このバイト、希望なんですけど?」
と申し出た。
「---手続きをしましょう。」
机の間を抜けてきた年若い職員が、微笑みながら言った。
仕事はとてもシンプルだった。
「街中の、辻に腰かけて何か数えている人を見たことは?」
「あります。」
「うん。それと似た感じかな。」
職員は、招いた机の上に書類と地図を並べて説明を始めた。
「ここに、」
×がついたところを示して、
「時間中はここに座って、」
「数を数える?」
「そうです。通った人を記録する、とても簡単なお仕事です。」
なんか、怪しい仕事を進めるようなフレーズに引っ掛かって首を傾げると、
「簡単なので、むしろ辛いかもしれません。」
と、補足してきた。
「端末の携帯は認めますが、使用はしないでください。時間を潰すために、紙の本か手芸などの持ち込みは可能です。」
「仕事なのに、時間を潰すのですか?」
「もしかすると、一日誰も来ないことも十分予想されますので。」
地図改めてに目を落とした。野原とか山の中ではない。空き地の一隅、住宅街の中だ。
「えーと・・・トイレとかは。」
「二人ペアですので、最寄りの商業施設まで行ってください。」
「一人じゃないんですね。」
同じ大学の子なら、世間話もありかと思ったところを、
「でも、仕事中のおしゃべりはご遠慮ください。」
詳細を聞くほど、よく分からないバイトである。仮にも大学が仲介しているのだから、怪しいとか危険とかはないのだろう、けれど。
「時給は相場ですが、お昼休憩と午前午後の休憩時間分も、出ます。」
「----やります。」
小さな駅を出たところの集合場所に来たのは3人だった。一人は対応した職員だ。
「募集がなくて、」
と、困ったように職員は説明した。
なら断ればいいのに、と正直思う。大学のバイト仲介に手数料を取っているはずもなく、地域貢献かPR事業だろう。
「でも、請け負った以上は無責任なことはできません。」
いや、むしろ義理人情でがんじがらめ・・?
「こちらは卒業生で、当時はうちのお得意さまでした。」
あまりご機嫌宜しくない感じの青年だ。
「ただの通りすがりのとばっちりだ。」
苦虫を潰したような顔の第一声は、職員に対するもので、こちらには、おはようございます、と丁寧にあいさつをくれた。
「なんで、せっかくの休みの日に、」
「天の配剤でしょう。」
大学職員と卒業生にしては、会話の距離が近い・・気がした。常連とは、こういうことか?
「郵送にしてもらえばよかった。」
推察するに、何かの証明書を申請受取にきたところで頼み込まれた、のかもしれない。
「それでですね、人数が揃わなかったので、独りずつでお願いすることになりました。わたしが一時間ずつ、行き来しますので、休憩はそのタイミングでお願いします。」
「・・いいですけど、」
トートバックの中の文庫本を思い浮かべて、頷いた。
「じゃあ、さっそく行きましょう。はじめ、こちらの方から行きますから、あなたは地図を見て、ひとりで向かってください。」
「分かった。」
青年は頷いて、ちら、とこちらを見下ろしたが、何も言わなかった。代わりに、じろ、と職員を一瞥して背を向けると足早に行ってしまった。
「昔は可愛らしかったんですけどねぇ、」
こちらも歩き出しながら、しみじみと語られた。
「目はきらきらで、まだほっそりしていてねぇ。タカムラさん(あ、これわたしです)、よろしくお願いします!と、にこにこで。」
青年の外形からすると、十年くらい、前の話だろうか。職員は、三十にならないくらいと見積もっていたが、その彼より年上だとすると、・・中堅、の年齢にはなる? そういえば室長、と呼ばれていたけれど。
「卒業してからも顔を出すっていうのは、仲がいい・・からですよね。」
礼儀的に相槌を打ちながら、年齢不詳の職員の後をついていく。
「仕事が続かないから、卒業証明書をよく取りにくるんです。」
「・・・、」
さらりとなかなかセンシティブなことを明かしてくれた。引いているのに気付いて、
「内緒で。」
ははは、と笑うのには、愛想笑いを返した。
そうして、狭い住宅街の道を抜けて、坂が階段になっている道に出た。別に普通に車が通れる幅なのに、階段。そうして、階段の上にも家がある。
「家の前まで車が入れなくて大変そうですね。」
「なんで階段にしたんでしょうねぇ、」
と、あまり気にならない様子で応えた職員は、木に立てかけてあったパイプ椅子を開いた。
「どうぞ。」
「・・ここ、ですか?」
「はい。」
きっぱりと頷かれたけれど、
「人を・・通行する人を記録、するんですよね?」
「はい。」
「通る人、っているんですか?」
「ご覧の様に車が入れないところなので、徒歩の人しか通行しません。」
階段は幅広だが、昔の作りらしく段差もバラバラだ。マウンテンバイクの上手な若者なら辛うじていけるかも、知れない。
調査中、と記された腕章とバインダー。挟まれた紙には、時間ごとの人数とどんな人物かを(主観で)メモする欄が印刷されていた。
「階段の上は駅に続く道になっていて、さっき我々がきた道よりは早く着くので、昼間は抜け道として通る人もいるようです。」
「・・そうなんですね、」
なら調査する意味はあるのかも知れない。
「わたしは、彼のほうを確認して、一時間後にまた戻ります。」
「はい。」
「緊急の時は、こちらを使ってください。」
端末が差し出された。祖父母が使っているらくらくホンのようだった。
「連絡先のアイコンを押してもらえればつながります。」
「はい。」
「この椅子に座っていてください。」
職員は念を押した。
「座りっぱなしで辛いときは立っても構いませんが、わたしが居ない時にはこの樹の下から出てはいけません。」
え、と首を傾げた。
「ましてや、その先の空き地に入ってはいけません。くれぐれも。」
「なぜですか?」
少し前までは駐車場だったのかも知れない。欠けた番号板が刺さったままのところや、ラインだったロープが切れて放置されているのが見て取れた。
「私有地だからです。」
明快に言ってのけて、職員は去っていった。もう一つのところが何処なのか知らないが、駅から距離がここと同じだとして、なかなか歩くのではないだろうか。一回ならともかく、一時間ごとだとすると、・・辛いかも、と内心でエールを送ってから、周囲を一度見渡して、パイプ椅子に腰を下ろした。きし、と小さな音が響く。
傘を広げたような樹形の常緑樹だ。丸みを帯びて葉先が二つか三つに分かれた葉と丸い葉が混在することに気づいて、風に揺られるさまを暫く見上げてから、文庫本を調査用のバインダーの上に重ねて置いた。すぐ書けるように、ペンを指の間にはさみながら、電車で読んだ続きのページを開いた。
二度、職員が見回りに来て、昼食時間となった。
駅方面に戻るとコンビニがありますよ、と代わりに椅子に座った職員から言われたが、パンを持参していたので、駅とは逆の方だが駅より近い小さな公園を端末地図で見つけて、そのベンチで食べた。
午前中の、3時間のうちで通った人は延べで33人。思ったよりいて、安堵した。楽をしてお金がもらえる仕事がいい、と思っていたが、初めの30分は猫が一匹通っただけで、さすがにこれで、このまま、給料をもらうのは・・と何となく身の置き所に困る感じだった。そのうち、人が通るタイミングが分かってきた。遠くでごとごとと音がする----電車が着くと、こちらの階段を抜けてくる人が何人か現れるのだ。慣れた調子で、足早に下ってくる、そうした人は、樹下のパイプ椅子に座った姿に怪訝そうに目を向け、バインダーと腕章を見取ると、興味を失って目を反らすか、儀礼的な会釈をして通り過ぎていった。
パンをかじりながら、駅を発着する電車のダイヤを検索した。日中の本数は多くなく、快速は止まらないこともある。朝夕の通勤通学時間帯こそ、二十分に一本あるが、以降の午前中は一時間弱に一本、午後になると(夕方まで)三時間で二本までになってししまう。利用人数に合わせた採算上のことなのだろうが、なんとも寂しい。
近所の人は二人、通った。
一人は高校生の女子。早退をしてきたのか、俯き加減に階段をあがっていって、階段の途中から右に折れて見えなくなった。そこの家の子なのだろう。もう一人は、おばあさん。ごみ収集車の音楽がした後に出てきて、椅子の前を通って、車通りに出て行って、ややして戻ってきた。ごみ置き場の清掃登板と推測した。自宅では、回ってきた週は、帰宅後に家族の誰かが夜に出てやるが、昼間に在宅ならこうしてすぐに赴くものなのか。
五分前に戻ると、職員はゆらゆらと揺れる木漏れ日を目で追っていた。
「戻りました。」
「うん。食べた?」
「はい。えーと、お食事は?」
「今から、彼の昼食時間だからね。あっちに戻る間に取るよ。」
と、ポケットからのぞかせたのはエネルギーゼリーである。
「足ります?」
「こっちもある。」
とは、エネルギーバーだ。いい大人なのに、高校生の片手間食事みたいだが、しょうがなく、というより、何だかうきうきしているのは、いつもと違うからなのか、それで満足しているのか、どちらだろう。
「じゃあ、また来るから。」
職員が立って、代わりに座る。木漏れ日が、てんてんと二人の顔に光の球を散らした。
「----この樹、ちょっと変わってますよね?」
ふと言葉が口をついた。
「そう?」
「葉っぱが二種類、あるじゃないですか?」
木漏れ日の下から出た職員は陽を浴びながら、樹を見上げた。樹の名を聞こうとするタイミングより、職員が歩き出す方が早かった。
別にすごく知りたいわけではなかったけれど、何となく肩透かしをされたようで、バインダーの上の木漏れ日を目で追いながら、小さな息を吐いた。
予想通り、午後の人出は減った。小学校低学年の下校時間になったようで、車が通る道路を元気に駆け上っていくのが見えたが、こちらには入ってこなかった。電車の音も聞こえたが、階段を下りてくる姿もない。
職員は一度やってきて、十五分の休憩をくれた。トイレに行きたいわけでもなかったから、体ほぐしに階段を上までのぼってみた。
結構高くて、日陰を作ってくれている樹も小さく見えた。 樹の傘の下に、すっぽり隠されて職員は見えない。
傘の木、車の通る道路、ごみ置き場、通り沿いの家の屋根・・視線を少しずつ高く上げていく。古いビル、緑の木々に覆われた斜面、----お社?・・、
屋根の一部しか見えないが、普通の住宅にはない感じの屋根に見えた。
「神社か、お寺?」
と何となく呟いて、すこし視点をずらして視線を下げていく。カーブと木の緑で一部しか見えないが、あの灰色は、・・きっと神社。ということは、道路の向かい側の小山は鎮守の森(山)なのかも知れない。
そろそろ休憩は終わりだ、と階段を降り始めた。職員が行って、次に戻ったら、今日のバイト時間はいっぱいになるだろう。
ちゃんと仕事をしているつもりだけれど、なんとも、一日が終わる。ちゃんと仕事だけれど、楽と暇の違いについてはまた悩みつつ、階段の中ほどまで降りて、ふと傘の木の左手、駐車場だった(らしい)砂利敷きの場所を見た。
左右五台ずつくらい止められそうだな、と計算し、いや一番奥が少し狭くなっているから、マイナス一。狭くなっているところの奥は、お隣との柵のようなものもあるけれど、そこは砂利ではなく、灰色のコンクリート・・、。
ふ、と風が吹き上げて、緑が匂った。風薫る、と季語が胸内で揺れ、陽光が眩しくて一瞬目が眩んだ。
「ぐ、り、こ!」
ふいに幼い声が上がった。ぱたぱたと、階段を駆け上がっていく気配。
「じゃんけんぽん!」
「ぱ、い、な、っ、ぷ、る、」
また別の声と、すり抜けていく子供の姿。
「じゃんけんぽーん、」
「あー、また、ぐーりーこー、」
声は軽やかに遠ざかっていく。懐かしい遊びをしている、と駆け上がっていった子たちを見ようとしたが、眼下に広がる緑いっぱいの敷地に目を瞠った。
古い木造の建物があって、その前には飛び石の石畳。一番奥には、立派な枝ぶりの木が何本もあり、入り口側には低木と、家庭菜園より少し規模の大きい畑。
慌てて駆け降りていた。
椅子はないが、木はある。丸い葉はなく、先が三つや五つに分かれた葉で、高さもずっと低い。
水を打つ音がして、奥を見れば、丸い井戸からバケツを引き上げる女性の姿が、あった。女性は地面に置いた小さなバケツや、如雨露に、くみ上げた水を分けていく。
「おばあちゃーん!!」
また気配が脇を駆け抜けていった。
「なか、見せて~、」
「危ないから、ここから。背伸びはだめ。」
おそるおそる、首を伸ばして井戸の中をのぞいて、子どもたちは興奮した笑いを零す。
「ずっと、水はどこからくるのかな、井戸って。」
「どこにつながっているんだろう!」
「もぐったら、どこかに出るとか?」
「何処にもでないよ。」
祖母はぴしり、と釘をさした。
「落ちたら、上がれなくて溺れて死んでしまうだけだよ。井戸はどこにもつながっていない。」
「水がくるのに?」
「井戸を通って来れるのは、井戸の神様だけ。」
子供の手には余る鉄のふたを被せながら、祖母は言う。
「例え、カラカラの天気でも枯れない井戸の水を使って生きていきなさい、と言ってくださっている。だから、大事にしなくてはいけない。今は、どの家にも水道が通っているから、井戸を使う機会はなくなって、井戸を閉じてしまう家も増えてきたけどね。」
孫たちに井戸の水を入れたバケツや如雨露をわたしながら、
「終わりにしないのならば、使って、濁らせないように、しないとダメなんだよ。水道は便利だけれど・・うちはまだこのまま使わせてもらうつもりだから、井戸まわりに責任をもたないといけない。汚いもので濁らせるのも、ましてや事故なんかはもってのほか。だから、おまえたちも軽々しく井戸のまわりで遊んではいけないよ!」
はーい、と返事をした孫たちが、水をまきに緑の中に駆けこんでいく。水滴を浴びて、緑も子供たちの頬も、きらきらと光っていく。
祖母はそれを微笑んで見送り、蓋の上に井戸用の桶を伏せた。彼女はさらさらと揺れる庭の緑を見上げて、・・その背中は少しずつ曲がって、小さくなっていった。
頭上で傘の木が、木漏れ日を地面に散らしていた。
目の前には、砂利に覆われた敷地があるだけだ。
居眠りでもして、夢を見たのだろうか、と立ち尽くす背に、
「お疲れさまでした。」
と、職員の声がかかった。
「少し時間は早いですけれど、仕事が完了です。契約の拘束時間分は時給はちゃんとでますからご心配なく。」
「終わりって・・何でですか?」
ぼんやりから立ち直って、問いただした。
「いまの、何ですか?」
「はい。いまのが確認できたので、終わりです。」
「どういう・・、」
聞いていないことだと詰め寄ろうとしたところに、別の声がかかった。
「井戸じまいはおしまいですか?」
声の主は、午前中に二度通った近所のおばあさんだ。
「はい。無事に移動していただきました。」
「この辺りでは最後の井戸だからねぇ。惜しかったけれど。」
おばあさんは、夕方の色に変わってきた光の中、懐かしそうに目を細めた。いまの砂利の土地ではなく、さっきの緑に囲まれた様子を見ているのに違いなかった。
「ここの旦那さんも奥さんも、もう随分前に亡くなって、お子さんが相続して駐車場にした時も、井桁とかは外してしまったけど、塞がず蓋だけしてそのままにされたけれど・・そのお子さんがあたしと同じくらいだからね。次の相続も考えたら、ちゃんと仕舞いにするのは、・・責任ってものさ。」
「はい。」
「----なんか、さっき、昔に戻った様な気配がしてねぇ、いい時代の記憶で送り出されたのなら・・きっと、いい思い出にしてくださるだろうね。」
おばあさんと職員は微笑み合っていたけれど。
「----どういうこと?」
朝の集合場所で、別動隊の青年と合流した。
「井戸じまい、聞いたことはありますか?」
「あるし、さっき端末で調べてみたけど、ぜんぜん違くないですか?」
端末の画面をつきつけたが、飄々と返ってきた。
「いろいろな方法があるんですよ。」
「・・で?」
そのいろいろを話してほしい。
「----その一般的な手順で井戸じまいはされている。が、近所の人、さっきの高齢女性から相談があってね。」
「お気に入りの場所だと、優しく言っても、くずくずしてしまうことがあるだろう? 」
「うん?」
「こちらにおいでなのに水脈を閉じることはできないからね。晴れの舞台を用意してから、遷っていただいた。」
「つまり?」
「そういう仕事で。あなたの素質を見込んだが、いやお見事でした!」
満面の笑みで言われて、絶句するしかない。報告書を書くので、と下りの電車に乗るため走っていった職員を茫然と見送り、すぐに来る上りの電車に乗るため、残された二人も動き出した。
改札にICカードをタッチして、後ろに続く気配がないことに気づいて振り返れば、青年は改札の外にいた。
「オレは歩き。」
「、そうですか。」
そういえば名前も聞いていないな、と思いつつ軽く一礼した。
「----掲示板の、バイト紹介は素質がないと見えない。」
青年から明かされたことに、勢いよく顔を上げた。
「もういい、と思うのなら目を向けないことをお勧めするよ。カクレミノの樹の下にいるだけでは済まないことも、多々あるから。・・ただ、あいつ、しつこいからな。」
と、しみじみ言った。電車が着いて、降車する人が改札に向かってきて、二人の間に壁ができた。出てくる人に道を譲る形で、青年はあっさりと離れていった。
甲高い音に弾かれるように身を翻して、列車に駆けこんだ。出発のアナウンスと背後で閉まるドア。もたれたドアの窓に景色が流れ出す。踏切に立って端末をいじっていた青年も、一瞬で、流れて、見えなくなった。
町並みはゴトゴトという音に押されるように、後ろに後ろに流れていく。車内には、各々から立ち上る一日を終えた気楽さや気だるさが、緩い渦のようになって充満している気がした。
窓に映る自分の顔はいつもの通り。今日、不可思議な仕事を終えたなんて、誰も気づけない。もしかしたら、自分の背後に映る誰かもそう、なのかもしれないし、これまでも、そんな人と乗り合わせていたのかもしれない。
もう、踏切が上がるのを待つ群衆のひとりでしかなかった、今日の仕事仲間を思い浮かべ、井戸の水を浴びて、きらきら光っていた緑の庭を思い返す。
----午睡の夢のような、美しいひとときを味わえた、ラッキーな仕事だった。そんな風に片付けてしまうのが、いいのかも知れない。
車内放送が、降車するべき駅の名を告げ、停止する。
ドアが開いた。
いつものように人波に乗って、いつもの改札を出て、いつもの道を帰る。
明日の日常について、脳裡に組み立てながら。
初めはもっと伝奇かつ歴史よりでしたが・・・わりと現実風味が強くなりました。
井戸は特別で「怖い」ものでした。祖母から言われたことを思い出して、一部台詞に入れてみました。
「カクレミノ」という樹は実際に在りますが、作中の樹の描写はあくまで作者のイメージです。




