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外伝短編|いい人、ではじまらない夜

作者: 安剛
掲載日:2026/05/16

 店を出ると、夜の空気が少し湿っていた。


 暖簾の内側に残っていた熱が、背中の方からまだついてくる。


 揚げ物の油の匂い。

 ビールの薄い苦み。

 焼き鳥の煙みたいなもの。


 それが服の表面にうっすら残っている気がした。


 駅前はまだ明るかった。


 改札へ向かう人。

 次の店を探しているような2人組。

 コンビニの前で立ち止まっているスーツ姿。

 笑い声だけが少し遅れて聞こえてくる。


 私は紙袋を片手に持ったまま、友人と並んで歩いていた。


 さっきまで向かいの席にいた女性2人のことを、なんとなく頭の中で思い返している。


 どちらも悪い印象ではなかった。


 むしろ、感じはよかったと思う。


 でも、その「よかった」が、そのまま次へ進む感じでもなかった。


 ポケットの中の携帯は静かなままだった。


 まだスマホなんてなくて、二つ折りの小さな携帯が、太ももの横で少しだけ重い。


 店の中では、そこまで何も考えていなかった。


 相槌を打って、笑って、料理を取り分ける手つきを見て、グラスの減り方を見て、友人がどの話題で乗るかをなんとなく見ていた。


 その場では、その場を回すので精一杯だったのかもしれない。


 今夜のことは、店を出たあとにゆっくり始まる。


 信号の前で足が止まる。


 白い横断歩道。

 赤のまま変わらない歩行者用信号。

 車のライトが、夜の中を一定の速さで流れていく。


 隣で友人が、前を見たまま軽く聞いた。


「どうだった?」


 私はすぐには答えなかった。


 夜風が、シャツの襟のあたりを少しだけ通っていく。


 店の中の様子を思い返す。


 向かいに座っていた方の、少し明るい色の服。

 笑う時に、ほんの少しだけ肩が先に動く感じ。

 注文を頼む時の、店員への言い方。

 料理が来た時に、「先どうぞ」と一度だけ譲った手つき。


 もう1人の、静かな方の女性のことも思い出す。


 話す量は多くなかった。

 でも、誰かが話している時の頷き方が妙に丁寧だった。

 グラスを持つ指が細かった。

 帰る前にバッグの中を探る動きが少しだけゆっくりだった。


 可愛いとか。

 なしだとか。

 そういう即答では片づかない。


 どこがどう、とはまだ言えない。


 私は赤信号を見たまま、少しだけ息を混ぜた。


「うーん…」


 自分の声が、思っていたより曖昧に出る。


 車のライトがもう一度流れていく。

 誰かの笑い声が、道路の向こうから少し遅れて届く。


 その中で、やっと出たのが、


「いい人、なんだけどね」


 だった。


 友人は一度だけ頷いた。


「だよね」


 小さい声だった。


 でも、その短いひと言の中に、説明しきれない感じがそのまま入っていた。


 何が違うのかは、たぶんお互い言えない。

 失礼なことをされたわけでもない。

 会話がつまらなかったわけでもない。

 むしろ、ちゃんとしていたと思う。


 ちゃんとしていた、が残る。


 青に変わって、また歩き出す。


 話はもう戻らない。


 戻らないのに、終わってもいない。


 私は歩きながら、静かな方の女性の話し方をもう一度思い出していた。


 語尾を少しだけ柔らかく置く感じ。

 聞かれたことにきちんと答えたあと、自分からはあまり広げない感じ。

 でも、感じが悪いわけでは全然ない。


 取り分けてくれた料理を、

「ありがとうございます」と受け取る声も、ちゃんと残っている。


 いい人だと思う。


 たぶん本当に、いい人なのだと思う。


 でも、その“いい人”が、胸の中でうまく熱にならない。


 駅に近づくにつれて、人の流れが少し増える。


 改札の青い表示。

 券売機の前に並ぶ背中。

 ホームへ上がる階段のところで、一瞬だけ風が抜ける。


 友人はもう別の話を始めていた。


 会社の先輩のこと。

 来週の予定のこと。

 そのどれにも私は普通に返事をする。


 でも、頭の中ではまだ今夜の席が少し残っている。


 メールアドレスは交換した。


 だから、これで終わりとも言い切れない。


 でも、始まりともまだ言えない。


 その手前にいる。


 改札で友人と別れて、1人で電車に乗る。


 窓に映る自分の顔は、少しだけ疲れて見えた。


 アルコールのせいか、店の空気のせいか、頬の奥にわずかに熱が残っている。


 ポケットの中の携帯は静かなままだった。


 家に着いて、部屋の明かりをつける。


 白い光が狭い部屋にそのまま広がる。


 上着を脱いで、ベッドの端に座る。


 それから、ポケットの中の携帯を取り出した。


 銀色の折りたたみ。

 少し擦れた角。

 小さい外側の画面。


 開くと、ぱち、と乾いた音がする。


 着信もメールも、まだ何もなかった。


 私はアドレス帳を開く。


 さっき登録したばかりの名前が、まだ少し浮いて見える。


 打とうと思えば打てる。


「今日はありがとうございました」


 でもいい。


「楽しかったです」


 でもいい。


 たぶん、それだけなら不自然じゃない。


 むしろ、打っておいた方がいいのかもしれない。


 でも、その先が見えない。


 送ったあと、何が始まるのかが分からない。


 返ってくるのか。

 返ってきたとして、どう続くのか。

 次に会う話になるのか。

 ならないまま、丁寧に終わるのか。


 そこがまだ何も決まっていない。


 私は一度、返信画面を開いた。


『今日はありがとうございました』


 まで打って、止まる。


 丁寧すぎる気がする。


 消す。


『今日は楽しかったです』


 と打つ。


 それも、少しだけ気持ちを乗せすぎているように思える。


 また消す。


 カーソルだけが、小さい画面の中で点滅している。


 文字を打つのは今よりずっと遅い。


 同じボタンを何度も押して、

 違う文字を選んで、

 変換して、

 また戻して。


 考えすぎると、文が長くなる前に手の方が止まる。


 私は携帯を閉じた。


 ぱち、と音がして、光が消える。


 それでも、その女性の気配は完全には消えなかった。


 店の中で笑っていた時の顔。

 グラスを持つ指。

 帰り際の「今日はありがとうございました」の少し控えめな声。


 どれも、はっきりとはしないまま夜の中に残っている。


 私は立ち上がって、冷蔵庫から水を出した。


 グラスに注ぐ。

 細い水音が、静かな部屋で少しだけ大きく聞こえる。


 飲みながら、もう一度だけ携帯の方を見る。


 閉じたままの本体が、机の上で部屋の明かりを鈍く返している。


 開けば、またアドレスはそこにある。


 送ろうと思えば、まだ送れる。


 でも、今夜はその手前のままでいたかった。


「なし」

とも違う。


「あり」

ともまだ言えない。


 そのあいだにあるものを、昔はうまく言えなかった。


 今も、たぶん言えない。


 私はもう一度だけ携帯を手に取り、開きもせず、そのまま置き直した。


 会話はもう終わっている。


 でも、終わったあとの方に、まだ少しだけ何かが残っている。


 それが、その人自身なのか。

 自分の迷いなのか。

 ただ、次があるかもしれないという薄い感覚なのか。


 そこまでは分からない。


 分からないまま、その夜は過ぎていく。


 最後に携帯を閉じる必要もないくらい、もう閉じたままだった。


 小さい画面の光はついていない。


 何も始まっていない。

 何も終わってもいない。


 その夜は、

“いい人なんだけどね”だけを残して終わった。



 夜、自分の部屋に戻ると、机の上のスマホに通知が出ていた。


 白い照明の下で、充電中の画面だけが少し強く光っている。


 ベッド。

 机。

 開きっぱなしの参考書。

 半分だけ飲んだペットボトル。


 その真ん中で、スマホだけが一番新しくて、静かだった。


『マッチしました』


 画面を開く。


 相手の写真が数枚並んでいる。


 1枚目は、少し斜めから撮った笑顔。

 2枚目はカフェのテーブル。

 3枚目は友達と撮ったらしい、少し色の強い写真。


 プロフィール文は短い。


 好きな音楽。

 休日の過ごし方。

 犬派。

 映画は邦画が多い。

 返信は遅めです、の一文。


 それを上から下まで読む。


 明るそうだと思う。

 話しにくくはなさそうだとも思う。

 写真の感じも悪くない。


 でも、その「悪くない」は、まだ会ってもいない段階で出てくる。


 そこに違和感はなかった。


 最初から材料が並んでいる。

 身長。

 住んでいるあたり。

 趣味。

 通っている学校の雰囲気まで、なんとなく読める。


 知らない相手なのに、知らなさすぎない。


 それが普通だった。


 私はベッドの端に腰を下ろして、親指で画面を少しだけ戻した。


 もう一度、写真を見る。


 笑っている。

 感じはいい。

 ちゃんとしていそうでもある。


 でも、その「ちゃんとしていそう」が、今はほとんど褒め言葉にならない。


 悪くない。

 たぶん普通に話せる。

 ただ、それだけで次に進むほどでもないかもしれない。


 まだ何も始まっていないのに、頭の中ではもう下書きみたいな判定が始まっている。


 私はメッセージ欄を開いた。


『こんばんは。マッチありがとうございます』


 少し硬い気がして消す。


『よろしくお願いします』


 それだけだと、誰にでも送っていそうで薄い。


 もう少し軽くした方がいいのかと思う。


 予測変換が勝手に続きを並べてくる。


 よろしく。

 お願いします。

 笑。


 その中から何を選んでも、大きくは変わらない気がする。


 結局、


『こんばんは。映画好きなんですね』


 とだけ送った。


 すぐ既読がつく。


 それも普通だった。


 返事も、思ったより早く来た。


『好きです!最近なに見ました?』


 感じは悪くない。


 むしろ、ちゃんと返してくれている。


 そこから何往復かする。


 映画の名前。

 好きな俳優。

 配信で見たやつ。

 映画館は最近あんまり行けてない、みたいな話。


 途切れてはいない。

 でも、流れているかと言われると少し違う。


 返事は来る。


 でも、返ってくるたびに少しずつ平らになる。


 こっちが2行で返すと、向こうはスタンプ1つだったりする。

 質問で返したのに、答えだけで終わったりする。

 テンポが悪いわけでも、失礼なわけでもない。


 ただ、会話の温度が育たない。


 写真は感じがいい。

 プロフィールもちゃんとしていた。

 文面だって別に悪くない。


 それでも、何往復かしただけで、もう先の形が少し見えてしまう。


 このまま続けても、たぶん会う話にはなりにくい。

 会ったとしても、特別に何かが残る感じでもないかもしれない。


 私はそこで、少しだけスマホを持ち直した。


 返信欄を開く。


 何か返そうとは思う。


『そっか』


『わかる』


『今度おすすめ教えて』


 どれでも送れる。


 でも、どれを送っても、そこから急に空気が動く感じがしない。


 予測変換がまた続きを並べてくる。


 ありがとう。

 たしかに。

 笑。


 便利だと思う。


 打つのは早い。

 送るのも早い。

 会わなくても始められる。

 相手のことも最初からある程度わかる。


 でも、わかることが多いぶん、早い段階で閉じやすい。


 昔の出会いを私は知らない。


 けれど今は、会う前に終わることへ、そこまで大きな痛みが残らない。


 上から別の通知が降りてくる。


 SNSの更新。

 動画アプリのおすすめ。

 別のマッチ通知。


 夜はすぐ埋まる。


 この会話が少し止まっても、その隙間に別のものがいくらでも入ってくる。


 私は一度トーク画面を閉じた。


 ホームに戻る。

 SNSを開く。

 短い動画を何本か流す。

 また閉じる。


 部屋は静かだった。


 エアコンの弱い風。

 廊下の方から聞こえる食器の触れる音。

 リビングのテレビの音が、ドア越しに少しだけ低く届いている。


 その静けさの中で、さっきの相手のことを考えているのか、もう別の通知のことを考えているのか、自分でも少し曖昧だった。


 悪くはない。


 でも、それで十分かと言われると違う。


 私は水を取りに部屋を出た。


 廊下の先のリビングは、暖色の灯りで少しだけやわらかく見えた。


 父はソファに座っていて、テレビはついているのに、あまり見ていない感じだった。

 母はテーブルの上を片づけている。


 私が冷蔵庫を開けると、母がこっちを見た。


「なんか悩んでる顔してる」


 軽い言い方だった。


 私は水を取りながら「別に」とだけ返す。


 母は小さく笑う。


「悩んでる時、だいたい“別に”って言うよね」


 父は何も言わないまま、グラスを口に運んでいる。


 それで終わるかと思った時、母が食器を重ねながら続けた。


「でも、分かるよ」


 私は冷蔵庫の扉を閉めて、少しだけ母の方を見た。


「昔、お父さんもそんな感じだったし」


 父がそこで初めて、少しだけ眉を動かした。


「何が」


 母はすぐに答える。


「なんか考えてるのに、何考えてるかは言わない感じ」


 その言い方が、妙に自然だった。


 昔話を始める感じではなく、

 今の食器と同じ場所に、その頃の記憶をそのまま置くみたいな声だった。


 私はグラスを持ったまま立っている。


 母はそのまま笑って言う。


「最初、私のことも“いい人なんだけどね”って言ってたんでしょ?」


 父はすぐには返さなかった。


 テレビの光が、ソファの肘に鈍く映っている。


 少しだけ間があってから、父は小さく息を混ぜる。


「最初はな」


 それだけだった。


 最初は。


 その短い言葉の中に、私の知らない時間が少しだけ見えた気がした。


 会ってから考える夜。

 帰り道に友達と、どうだったと話す夜。

 よかったとも、違ったとも言い切れないまま残る感じ。


 母は、その“いい人”だったのだと思う。


 そして父は、その先まで行ったのだ。


 私は何も言わずに水を飲んだ。


 冷たさが喉を通る。


 リビングの灯りはやわらかいのに、胸の内側だけ少しだけ白くなる感じがした。


 部屋へ戻る。


 ドアを閉める。


 白い照明の下で、机の上のスマホがまた少しだけ新しく見える。


 画面をひらく。


 トークは止まったままだった。


 最後の文は相手の短い返事。

 その下に、私がまだ何も返していない空白がある。


 悪くない相手だった。


 感じもいい。

 文も普通。

 変なところもない。


 でも、そこから何かが始まるほどでもない。


 私は返信欄を開いた。


 カーソルが点滅する。


 何か打とうとして、やめる。


 閉じる。


 ブロックもしない。

 消しもしない。

 ただ、そのまま戻る。


 父の時代なら、ここから先にまだ“いい人”が残ったのかもしれないと思う。


 会った時の声とか、歩き方とか、沈黙の置き方とか。

 そういうもので、あとから少しずつ気持ちが動いたのかもしれない。


 今は、その手前で終わる。


 悪くない。

 でも、それだけだった。


 私はトーク画面を閉じた。


 スマホの表示がホームに戻る。

 別の通知がまた上から並ぶ。

 SNS。

 ニュース。

 おすすめ動画。


 夜はそのまま薄く埋まっていく。


 画面を消す。


 黒くなったスマホの表面に、部屋の白い照明が鈍く映る。


 “いい人”という言葉に育つ前に終わる出会いが、今は前よりずっと多いのかもしれなかった。

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