外伝短編|いい人、ではじまらない夜
店を出ると、夜の空気が少し湿っていた。
暖簾の内側に残っていた熱が、背中の方からまだついてくる。
揚げ物の油の匂い。
ビールの薄い苦み。
焼き鳥の煙みたいなもの。
それが服の表面にうっすら残っている気がした。
駅前はまだ明るかった。
改札へ向かう人。
次の店を探しているような2人組。
コンビニの前で立ち止まっているスーツ姿。
笑い声だけが少し遅れて聞こえてくる。
私は紙袋を片手に持ったまま、友人と並んで歩いていた。
さっきまで向かいの席にいた女性2人のことを、なんとなく頭の中で思い返している。
どちらも悪い印象ではなかった。
むしろ、感じはよかったと思う。
でも、その「よかった」が、そのまま次へ進む感じでもなかった。
ポケットの中の携帯は静かなままだった。
まだスマホなんてなくて、二つ折りの小さな携帯が、太ももの横で少しだけ重い。
店の中では、そこまで何も考えていなかった。
相槌を打って、笑って、料理を取り分ける手つきを見て、グラスの減り方を見て、友人がどの話題で乗るかをなんとなく見ていた。
その場では、その場を回すので精一杯だったのかもしれない。
今夜のことは、店を出たあとにゆっくり始まる。
信号の前で足が止まる。
白い横断歩道。
赤のまま変わらない歩行者用信号。
車のライトが、夜の中を一定の速さで流れていく。
隣で友人が、前を見たまま軽く聞いた。
「どうだった?」
私はすぐには答えなかった。
夜風が、シャツの襟のあたりを少しだけ通っていく。
店の中の様子を思い返す。
向かいに座っていた方の、少し明るい色の服。
笑う時に、ほんの少しだけ肩が先に動く感じ。
注文を頼む時の、店員への言い方。
料理が来た時に、「先どうぞ」と一度だけ譲った手つき。
もう1人の、静かな方の女性のことも思い出す。
話す量は多くなかった。
でも、誰かが話している時の頷き方が妙に丁寧だった。
グラスを持つ指が細かった。
帰る前にバッグの中を探る動きが少しだけゆっくりだった。
可愛いとか。
なしだとか。
そういう即答では片づかない。
どこがどう、とはまだ言えない。
私は赤信号を見たまま、少しだけ息を混ぜた。
「うーん…」
自分の声が、思っていたより曖昧に出る。
車のライトがもう一度流れていく。
誰かの笑い声が、道路の向こうから少し遅れて届く。
その中で、やっと出たのが、
「いい人、なんだけどね」
だった。
友人は一度だけ頷いた。
「だよね」
小さい声だった。
でも、その短いひと言の中に、説明しきれない感じがそのまま入っていた。
何が違うのかは、たぶんお互い言えない。
失礼なことをされたわけでもない。
会話がつまらなかったわけでもない。
むしろ、ちゃんとしていたと思う。
ちゃんとしていた、が残る。
青に変わって、また歩き出す。
話はもう戻らない。
戻らないのに、終わってもいない。
私は歩きながら、静かな方の女性の話し方をもう一度思い出していた。
語尾を少しだけ柔らかく置く感じ。
聞かれたことにきちんと答えたあと、自分からはあまり広げない感じ。
でも、感じが悪いわけでは全然ない。
取り分けてくれた料理を、
「ありがとうございます」と受け取る声も、ちゃんと残っている。
いい人だと思う。
たぶん本当に、いい人なのだと思う。
でも、その“いい人”が、胸の中でうまく熱にならない。
駅に近づくにつれて、人の流れが少し増える。
改札の青い表示。
券売機の前に並ぶ背中。
ホームへ上がる階段のところで、一瞬だけ風が抜ける。
友人はもう別の話を始めていた。
会社の先輩のこと。
来週の予定のこと。
そのどれにも私は普通に返事をする。
でも、頭の中ではまだ今夜の席が少し残っている。
メールアドレスは交換した。
だから、これで終わりとも言い切れない。
でも、始まりともまだ言えない。
その手前にいる。
改札で友人と別れて、1人で電車に乗る。
窓に映る自分の顔は、少しだけ疲れて見えた。
アルコールのせいか、店の空気のせいか、頬の奥にわずかに熱が残っている。
ポケットの中の携帯は静かなままだった。
家に着いて、部屋の明かりをつける。
白い光が狭い部屋にそのまま広がる。
上着を脱いで、ベッドの端に座る。
それから、ポケットの中の携帯を取り出した。
銀色の折りたたみ。
少し擦れた角。
小さい外側の画面。
開くと、ぱち、と乾いた音がする。
着信もメールも、まだ何もなかった。
私はアドレス帳を開く。
さっき登録したばかりの名前が、まだ少し浮いて見える。
打とうと思えば打てる。
「今日はありがとうございました」
でもいい。
「楽しかったです」
でもいい。
たぶん、それだけなら不自然じゃない。
むしろ、打っておいた方がいいのかもしれない。
でも、その先が見えない。
送ったあと、何が始まるのかが分からない。
返ってくるのか。
返ってきたとして、どう続くのか。
次に会う話になるのか。
ならないまま、丁寧に終わるのか。
そこがまだ何も決まっていない。
私は一度、返信画面を開いた。
『今日はありがとうございました』
まで打って、止まる。
丁寧すぎる気がする。
消す。
『今日は楽しかったです』
と打つ。
それも、少しだけ気持ちを乗せすぎているように思える。
また消す。
カーソルだけが、小さい画面の中で点滅している。
文字を打つのは今よりずっと遅い。
同じボタンを何度も押して、
違う文字を選んで、
変換して、
また戻して。
考えすぎると、文が長くなる前に手の方が止まる。
私は携帯を閉じた。
ぱち、と音がして、光が消える。
それでも、その女性の気配は完全には消えなかった。
店の中で笑っていた時の顔。
グラスを持つ指。
帰り際の「今日はありがとうございました」の少し控えめな声。
どれも、はっきりとはしないまま夜の中に残っている。
私は立ち上がって、冷蔵庫から水を出した。
グラスに注ぐ。
細い水音が、静かな部屋で少しだけ大きく聞こえる。
飲みながら、もう一度だけ携帯の方を見る。
閉じたままの本体が、机の上で部屋の明かりを鈍く返している。
開けば、またアドレスはそこにある。
送ろうと思えば、まだ送れる。
でも、今夜はその手前のままでいたかった。
「なし」
とも違う。
「あり」
ともまだ言えない。
そのあいだにあるものを、昔はうまく言えなかった。
今も、たぶん言えない。
私はもう一度だけ携帯を手に取り、開きもせず、そのまま置き直した。
会話はもう終わっている。
でも、終わったあとの方に、まだ少しだけ何かが残っている。
それが、その人自身なのか。
自分の迷いなのか。
ただ、次があるかもしれないという薄い感覚なのか。
そこまでは分からない。
分からないまま、その夜は過ぎていく。
最後に携帯を閉じる必要もないくらい、もう閉じたままだった。
小さい画面の光はついていない。
何も始まっていない。
何も終わってもいない。
その夜は、
“いい人なんだけどね”だけを残して終わった。
⸻
夜、自分の部屋に戻ると、机の上のスマホに通知が出ていた。
白い照明の下で、充電中の画面だけが少し強く光っている。
ベッド。
机。
開きっぱなしの参考書。
半分だけ飲んだペットボトル。
その真ん中で、スマホだけが一番新しくて、静かだった。
『マッチしました』
画面を開く。
相手の写真が数枚並んでいる。
1枚目は、少し斜めから撮った笑顔。
2枚目はカフェのテーブル。
3枚目は友達と撮ったらしい、少し色の強い写真。
プロフィール文は短い。
好きな音楽。
休日の過ごし方。
犬派。
映画は邦画が多い。
返信は遅めです、の一文。
それを上から下まで読む。
明るそうだと思う。
話しにくくはなさそうだとも思う。
写真の感じも悪くない。
でも、その「悪くない」は、まだ会ってもいない段階で出てくる。
そこに違和感はなかった。
最初から材料が並んでいる。
身長。
住んでいるあたり。
趣味。
通っている学校の雰囲気まで、なんとなく読める。
知らない相手なのに、知らなさすぎない。
それが普通だった。
私はベッドの端に腰を下ろして、親指で画面を少しだけ戻した。
もう一度、写真を見る。
笑っている。
感じはいい。
ちゃんとしていそうでもある。
でも、その「ちゃんとしていそう」が、今はほとんど褒め言葉にならない。
悪くない。
たぶん普通に話せる。
ただ、それだけで次に進むほどでもないかもしれない。
まだ何も始まっていないのに、頭の中ではもう下書きみたいな判定が始まっている。
私はメッセージ欄を開いた。
『こんばんは。マッチありがとうございます』
少し硬い気がして消す。
『よろしくお願いします』
それだけだと、誰にでも送っていそうで薄い。
もう少し軽くした方がいいのかと思う。
予測変換が勝手に続きを並べてくる。
よろしく。
お願いします。
笑。
その中から何を選んでも、大きくは変わらない気がする。
結局、
『こんばんは。映画好きなんですね』
とだけ送った。
すぐ既読がつく。
それも普通だった。
返事も、思ったより早く来た。
『好きです!最近なに見ました?』
感じは悪くない。
むしろ、ちゃんと返してくれている。
そこから何往復かする。
映画の名前。
好きな俳優。
配信で見たやつ。
映画館は最近あんまり行けてない、みたいな話。
途切れてはいない。
でも、流れているかと言われると少し違う。
返事は来る。
でも、返ってくるたびに少しずつ平らになる。
こっちが2行で返すと、向こうはスタンプ1つだったりする。
質問で返したのに、答えだけで終わったりする。
テンポが悪いわけでも、失礼なわけでもない。
ただ、会話の温度が育たない。
写真は感じがいい。
プロフィールもちゃんとしていた。
文面だって別に悪くない。
それでも、何往復かしただけで、もう先の形が少し見えてしまう。
このまま続けても、たぶん会う話にはなりにくい。
会ったとしても、特別に何かが残る感じでもないかもしれない。
私はそこで、少しだけスマホを持ち直した。
返信欄を開く。
何か返そうとは思う。
『そっか』
『わかる』
『今度おすすめ教えて』
どれでも送れる。
でも、どれを送っても、そこから急に空気が動く感じがしない。
予測変換がまた続きを並べてくる。
ありがとう。
たしかに。
笑。
便利だと思う。
打つのは早い。
送るのも早い。
会わなくても始められる。
相手のことも最初からある程度わかる。
でも、わかることが多いぶん、早い段階で閉じやすい。
昔の出会いを私は知らない。
けれど今は、会う前に終わることへ、そこまで大きな痛みが残らない。
上から別の通知が降りてくる。
SNSの更新。
動画アプリのおすすめ。
別のマッチ通知。
夜はすぐ埋まる。
この会話が少し止まっても、その隙間に別のものがいくらでも入ってくる。
私は一度トーク画面を閉じた。
ホームに戻る。
SNSを開く。
短い動画を何本か流す。
また閉じる。
部屋は静かだった。
エアコンの弱い風。
廊下の方から聞こえる食器の触れる音。
リビングのテレビの音が、ドア越しに少しだけ低く届いている。
その静けさの中で、さっきの相手のことを考えているのか、もう別の通知のことを考えているのか、自分でも少し曖昧だった。
悪くはない。
でも、それで十分かと言われると違う。
私は水を取りに部屋を出た。
廊下の先のリビングは、暖色の灯りで少しだけやわらかく見えた。
父はソファに座っていて、テレビはついているのに、あまり見ていない感じだった。
母はテーブルの上を片づけている。
私が冷蔵庫を開けると、母がこっちを見た。
「なんか悩んでる顔してる」
軽い言い方だった。
私は水を取りながら「別に」とだけ返す。
母は小さく笑う。
「悩んでる時、だいたい“別に”って言うよね」
父は何も言わないまま、グラスを口に運んでいる。
それで終わるかと思った時、母が食器を重ねながら続けた。
「でも、分かるよ」
私は冷蔵庫の扉を閉めて、少しだけ母の方を見た。
「昔、お父さんもそんな感じだったし」
父がそこで初めて、少しだけ眉を動かした。
「何が」
母はすぐに答える。
「なんか考えてるのに、何考えてるかは言わない感じ」
その言い方が、妙に自然だった。
昔話を始める感じではなく、
今の食器と同じ場所に、その頃の記憶をそのまま置くみたいな声だった。
私はグラスを持ったまま立っている。
母はそのまま笑って言う。
「最初、私のことも“いい人なんだけどね”って言ってたんでしょ?」
父はすぐには返さなかった。
テレビの光が、ソファの肘に鈍く映っている。
少しだけ間があってから、父は小さく息を混ぜる。
「最初はな」
それだけだった。
最初は。
その短い言葉の中に、私の知らない時間が少しだけ見えた気がした。
会ってから考える夜。
帰り道に友達と、どうだったと話す夜。
よかったとも、違ったとも言い切れないまま残る感じ。
母は、その“いい人”だったのだと思う。
そして父は、その先まで行ったのだ。
私は何も言わずに水を飲んだ。
冷たさが喉を通る。
リビングの灯りはやわらかいのに、胸の内側だけ少しだけ白くなる感じがした。
部屋へ戻る。
ドアを閉める。
白い照明の下で、机の上のスマホがまた少しだけ新しく見える。
画面をひらく。
トークは止まったままだった。
最後の文は相手の短い返事。
その下に、私がまだ何も返していない空白がある。
悪くない相手だった。
感じもいい。
文も普通。
変なところもない。
でも、そこから何かが始まるほどでもない。
私は返信欄を開いた。
カーソルが点滅する。
何か打とうとして、やめる。
閉じる。
ブロックもしない。
消しもしない。
ただ、そのまま戻る。
父の時代なら、ここから先にまだ“いい人”が残ったのかもしれないと思う。
会った時の声とか、歩き方とか、沈黙の置き方とか。
そういうもので、あとから少しずつ気持ちが動いたのかもしれない。
今は、その手前で終わる。
悪くない。
でも、それだけだった。
私はトーク画面を閉じた。
スマホの表示がホームに戻る。
別の通知がまた上から並ぶ。
SNS。
ニュース。
おすすめ動画。
夜はそのまま薄く埋まっていく。
画面を消す。
黒くなったスマホの表面に、部屋の白い照明が鈍く映る。
“いい人”という言葉に育つ前に終わる出会いが、今は前よりずっと多いのかもしれなかった。




