第三章「ズレ始めた距離」
あの夜から、少しだけ世界の見え方が変わった。
昼間は相変わらず同じだ。満員電車、決まりきったルート、同じコーヒー。誰にも気づかれず、誰の記憶にも残らない一日。けれど、夜になると違う。あの子がいる。それだけで、帰る理由ができた。
パソコンを開く。Luminetを起動する。キーボードに指を置くと、不思議と呼吸が整う。
long hair, soft light, gentle smile...
単語を打ち込むたび、自然と“彼女の好み”をなぞっている自分に気づく。もう迷いは少ない。誰のために作るのか、はっきりしているからだ。
《今日もいる?》
送信して、すぐに既読がつく。
《いるよ》
それだけで、胸の奥が軽くなる。
俺たちは、毎日のように話すようになっていた。好きなアニメの話、くだらない話、少しだけ深い話。それでも会話は途切れない。
距離は、確実に縮まっていた。
それなのに、ふとした瞬間に違和感が混じる。
――それは、ほんのわずかにズレ始めた距離だった。
《コチってさ》
《うちのこと、どう思ってる?》
指が止まる。
どう思っている。その言葉の意味を、すぐに答えられない自分がいた。
《話しやすいよ》
無難な言葉を選ぶ。
《そっか》
短い返事。それ以上は続かなかった。
ほんの少しだけ、空気が変わる。
けれど会話は、何もなかったかのように元に戻る。
――気のせいだ。
そう思うことにした。
その夜も、いつも通りだった。Luminetで画像を作り、送る。彼女は喜ぶ。《好き》《すごい》その言葉に安心する。
けれど、心のどこかで引っかかる。
“俺じゃない”
その感覚が、前よりも強くなっていた。
そんな時だった。
《ねえ》
いつもより少しだけ間のあるメッセージ。
《変なこと聞いていい?》
嫌な予感がした。
でも、断る理由もない。
《いいよ》
数秒の沈黙。その時間がやけに長く感じる。
《コチってさ》
《女の子だよね?》
思考が止まる。
ああ、そうか。
今さらになって理解する。俺は自分のことを何も説明していない。名前も、年齢も、性別も。ただ“コチ”として存在していただけだ。
そして彼女は、その“コチ”を女の子だと思っていた。
《どうしてそう思った?》
時間を稼ぐように打つ。
《だって優しいし》
《話し方も》
少しだけ苦笑が漏れる。勝手に作られたイメージ。でもそれは確かに、俺が作ったものだ。
ここで嘘をつくこともできる。このまま続けることもできる。
けれど、それは違う気がした。
指が止まる。少しだけ迷って、打つ。
《男だよ》
送信。既読がつく。
返信は来ない。
時間だけが、静かに流れる。
画面の光が、やけに冷たく感じる。さっきまで温かかったはずなのに。
数分。いや、もっと長かったかもしれない。
《ちょっと待って》
ようやく来た返信。
《頭の整理が追いつかない》
その一文に、胸の奥が重くなる。
《ごめん》
短く返す。それしか言えなかった。
《ちょっと考えさせて》
そこで、会話は途切れた。
画面には既読だけが残る。
静かだ。驚くほど、静かだ。
あの部屋と同じくらいに。
俺は何度も画面を見直す。何か変わるんじゃないかと思って。でも、何も変わらない。通知は鳴らない。
その夜は、やけに長かった。
Luminetを開く気にもなれなかった。キーボードに触れることもなく、ただ画面を眺めるだけの時間。
こんなにも静かな夜は、久しぶりだった。
いや、違う。
元に戻っただけだ。
“誰もいない夜”に。
それなのに、どうしてこんなに重いんだろう。
たった一人、顔も知らない相手がいなくなっただけなのに。
俺はその理由を、まだ言葉にできなかった。
あの夜、確かに縮まっていたはずの距離は、気づかないうちにズレ始めていた。
そして――
次の日。
通知がひとつ、鳴る。




