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第五話 浴槽にて出会う者

 休館酪と共に館の内部を歩き回った真宵は、結局その日も「空間の歪み」を見つけられなかった。

 壁の装飾を指でなぞり、床の継ぎ目を覗き込み、廊下の隅を探ってみても――異界に繋がるような亀裂はどこにもない。


「んあぁ〜、ない!やっぱり無いよ、空間の歪み!」

「今日も見つからないでちゅねぇ」

「うん。……でもありがとう。ずっと一緒に探してくれて」

「当然でちゅ。約束したでちゅから。それに、主様の前であれだけ大見得を切ったのに“出来ませんでした”では、幻夢堂の使用人としての名折れでちゅ!」


 ふふんと小さな胸を張る休館酪。その姿に、真宵は思わず笑みをこぼす。


「ねずみちゃんは、主様が好き?」

「なっ……なんでちゅか急に!……人に言うのは少し恥ずかしいでちゅが、そりゃ勿論、大っ……大大大好きでちゅよ!」


 言い切る休館酪を、真宵は感心とも呆れともつかぬ気持ちで眺めた。


「どういうところが好きなの?」

「そりゃぁ、あたちの主様ですから」


 それだけ。

「……え?ほ、他には……?」

「? 他、でちゅか……? う〜ん」


 かなりゾッとした。だけどこれ以上踏み込むと、後に引けなそうなのでそれ以上は追求しなかった。



 二人は散策を切り上げ、真宵は自室――客間へ戻った。

 客間といっても、一軒家の倍はある広さ。畳と絨毯が交互に敷かれ、天井には金色の彫刻が絡み合う。壁際の棚には、大理石を削り出した櫛、山のように盛られた瑞々しい桃、美しい食器が装飾のごとく並んでいる。

 数日過ごした今でも、見慣れぬ小物を見つけては驚かされていた。


「……まるで博物館に泊まってるみたい。私もこの部屋の調度品のひとつだったりして……なんてね。ただの女子中学生が言ってみたり」


 一人でノリツッコミをして、自分の発言の寒さに自傷気味に笑う。誰にも聞かれていないのが救いだった。


 布団の上でゴロゴロしていた真宵は、ぱっと立ち上がり、用意された寝着を手に取った。外の露天風呂に行こうとした時、ふと足が止まる。


(そういえば……館の浴場って、美食の間の隣にあるんだっけ)


 まだ行ったことのない場所。せっかくだから――と、黒雲天から受け取った御守りを帯に挟み、浴場へと足を向けた。



 「浴の間」と呼ばれる場所は、想像を遥かに超えていた。

 湯煙が白く立ちこめ、段差ごとに区切られた円形の浴槽には、瑠璃、琥珀、薄紅、乳白――様々な色彩の湯が満ちている。そのどれもが仄かに輝きを帯び、温泉というより宝石の池のようだった。


 真宵は恐る恐る湯に浸かる。鼻をくすぐる花の香り、身体の芯まで溶かすような安堵感――まるで夢の中に沈んでいくようだ。


「……なにこれ……気持ちよすぎる……毎日通いたい……いや、通えるのかな……」


 自分でボケて自分でツッコむが、心地よさが勝り、もうどうでもよくなっていた。


 その時。真宵の頭上――一段高い湯船から、柔らかな声が降りてきた。


「此度の神隠しにあった客人とはぁ……貴方のことねぇ」


 見上げると、湯煙の向こうに白銀の髪を濡らし、艶めく身体を惜しげもなく晒す女の姿があった。肩までの髪は湯に張りつき、翡翠の瞳が挑発的に細められている。狐の耳と尾が、ゆるやかに揺れていた。


「わ、あなたは……?」

「わたしは孤白甘美。幻夢堂の使用人のひとり。この館の内装も外装も、装飾品ひとつに至るまで、大体わたしの手が加わっているのぉ。よろしくねぇ、神隠しの娘さん」


 声音は優しく甘やかだが、値踏みするような響きが混じっていた。


 甘美は湯の中で片肘をつき、妖艶に笑う。その雰囲気は美しさと危うさが同居し、近づけば呑み込まれそうなのに目を逸らせない。


「ふうん……なるほどねぇ。貧相な胸も痩せた腰も、まるで凡庸。だけど、そういうのも可愛いものねぇ」


「っ……ぼ、凡庸……」

 あまりの言葉に真宵は顔を赤らめ、思わず睨み返す。


「あらら。こわいわぁ、怒ってしまったのかしらぁ」

 甘美は怯むどころか、なおも楽しげに笑った。


「ごめんなさいねぇ。どうも人を怒らせる才能があるみたいでぇ……お詫びにひとつ、貴方を元の世界へ帰す手伝い、してあげてもいいわぁ」


「ほ、本当ですか?ありがとうござ……」

 思わず礼を言いかけた真宵を、次の言葉が遮った。


「休館酪を捨てて、私を貴方の側に置いてくれるならねぇ」


 言葉の意味は分かる。だが、その意図が分からない。

「……どうして、そんなことを?」

「ええぇ? だって面白そうじゃない? あの子、休館酪。主様の前で大見得を切ったんでしょう? でも、あっさりお役御免になったら……どんな顔をするのかしらぁ」


「なっ……」


 想像しただけで胸が苦しくなる。真宵は強く狐白甘美を睨んだ。

 すると狐白は、良い音を聞いたかのようにさらに微笑みを深める。


「貴方、知ってるかしらぁ。妖怪にはそれぞれ得意な妖術があるのよぉ。

 休館酪なら〈無貌無郭〉。範囲内の者に、好きな形で手傷を負わせる力。怖いわぁ。

 黒雲天は〈昇格転生〉。あらゆる物を選別し、高次へと生まれ変わらせる力。すごいわぁ。

 そして、わたしの妖術――〈触処金脈〉。優れたものを見抜く力。富や幸福がどこに巡り、どうすれば手に入るか……全部分かるの」


 真宵は息を呑む。

 つまりこの力は、空間の歪みの場所も、元の世界に帰る方法も――最善の一手として見抜けるということだ。まるで攻略本のような力。


「捨てるって言ったけど、要するに協力者を休館酪から私に変えるだけ。……休館酪も、それが最善だと分かれば納得するわぁ」

「何より貴方は、休館酪よりも元の家族や友人を大切にすべきじゃない? 一刻も早く帰り、心配を解いてあげることこそ最善手じゃなぁい?」


 甘美の声は花の香りのように甘く、真宵の心に巣くう焦燥を撫で回す。

 けれど真宵は、小さく首を振った。


「ごめんなさい……」

「あらぁ? なぜかしら」

「私は……例えそれが最善じゃなくても、ねずみちゃんと一緒に帰り道を探したいんです。だって……私を最初に助けてくれたのはねずみちゃんだから」


「あらぁ……そんな理由で選んでしまっていいのかしらぁ? まだ考える時間を置いてもいいのに」

「いえ、大丈夫です! ねずみちゃんと頑張ってみます!」


 きっぱり答える真宵。その姿に、甘美は一瞬目を瞬かせたのち、笑みを浮かべる。怒りの気配はまるでない。


「そう。残念だわぁ。ねずみちゃんにいっぱい食わせてやれるかと思ったけど……また負けたかしら」

「……また? 最善が分かるのに、負けることがあるんですか?」

「最善の一手、ねぇ。確かに強い力よ。でもね、勝ち続けるだけなんて退屈じゃない? 遊びは勝ったり負けたりするからこそ楽しいのよ」


 その言葉には、真宵も共感できた。

「そうですね!」

「そりゃ!」

「いだっ!」


 笑顔を返した真宵の額を、狐白の指が軽く弾いた。

 真宵が思わずよろけると、狐白はそのまま湯から立ち上がり、出口へ向かって歩き出す。


 扉に手をかけたところで、ふと振り返った。


「ねえ、ひとつ訊いてもいいかしらぁ? どうして大染様の名を出さなかったの? 主様を持ち出せば、わたしを動かす理由になるのに」


「……そんな嫌われるような頼み方をしても、狐白さんは真面目に協力してくれないと思いました」


 甘美はしばし沈黙し、やがてふっと唇を綻ばせる。


「あらぁ……嬉しいわぁ。そこまで理解してくれるなんて。最初はバカそうな子だと思ってたけど……違ったみたい」

「その褒め言葉、あんまり嬉しくないですね」


 真宵が苦笑すると、狐白は肩を揺らして笑った。


「褒めてないものぉ。私はバカな子の方が好きよ。摘みやすいから。……もし貴方もバカになりたくなったら、また私のところに来なさい。きっちり摘んであげる」


 くすりと笑い、狐白は背を翻す。濡れた銀髪が湯煙の中に揺れ消えていった。


――こうして真宵は、三人目の使用人、狐白甘美と出会った。

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