第十話 歪みの先にて
会議のあと、休館酪は「準備をしてくるでちゅ」と言い残し、真宵と一度別れた。
半刻ほど経ち、再び客間の扉が開く。
「待たせたでちゅね。準備完了でちゅよ!」
姿を見せた休館酪の腰には、小さなカバンが下がっている。
「それ、何が入ってるの?」
「携帯食料に宝石類、あとは真宵用の治療道具でちゅ。主様のご命令で、行き先が真宵の世界でなくても調査してこいとのことでちゅから」
「今までは調査を打ち切ってたんだよね。どうしてまた?」
「……分からないでちゅ。理由は教えてもらえなかったでちゅ。ただ、以前と同じで興味本位の可能性が高いでちゅね」
「興味本位かぁ……」
真宵は肩を落とす。
「危険と判断したら即退去していいとのことだったでちゅ。観光くらいに思っておけばいいでちゅよ」
「……こんな時に言うのもなんだけど、私、受験期だし出席日数も気になるんだよね……」
「受験……出席? 真宵は試験を控えていたのでちゅか?」
「うん。私の世界では、それを失敗すると人生の道がものすごく狭くなっちゃうの……」
「それは……大変でちゅね。帰る時は幻夢堂の宝石を持って帰るといいでちゅ。かなりのお金になるはずでちゅ」
「そ、それは……ありがとう」
少し気まずい空気を切るように、休館酪は手を叩いた。
「まずは今のことに集中するでちゅよ」
「……そうだね。あっ、私も何か用意した方がいいかな?」
「真宵の分も、同じ物を用意してあるでちゅ」
「ありがとう」
「それじゃ、行くでちゅ」
二人は手を繋ぎ、空間の歪みに飛び込んだ。
強く引き込まれる感覚とともに、室内から姿が消える。
⸻
次の瞬間。
そこはもう別の世界だった。
「ここは……っ、うぅっ……臭い!」
真宵は思わず鼻を押さえる。
周囲は暗い洞穴。外から漏れる陽光があるため完全な闇ではないが、岩壁に囲まれた内部は湿ってぬかるんでいる。
「な、なんでちゅかこの臭いは……」
休館酪も顔をしかめる。
そして二人が天井を見上げた瞬間。
「ひっ……!」
洞穴の上には無数の影。気配に気づいたそれらは一斉に羽ばたき、バサバサと音を立てて森の外へ飛び去っていった。
「いっいやぁあああっ!」
真宵は背を丸め、恐怖に縮こまる。
休館酪は即座に結界を張り、身を守る体勢をとった。
――ほんの一分足らずの出来事。
「……蝙蝠でちゅね。ここは洞穴、奴らの巣だったのでちょう」
「うぅ……蝙蝠……」
「早く出まちょう。住処を荒らすのも悪いでちゅし……それに、とても臭いでちゅ」
「……うん」
二人は洞穴を抜け、森へ出る。
平凡な景色だが、靴裏についたものの正体に真宵は気づいた。
「これ……蝙蝠の……糞尿……!」
慌てて靴を地面に擦り付けるが、匂いはなかなか取れない。
「これは買い替えた方がいいでちゅね。そういう店があればの話でちゅが」
「なんか……どっと疲れた」
「頑張るでちゅよ。もしかしたらここが真宵の世界かもしれないんでちゅから」
「……そうだね、頑張る」
森を進む中、障害物に阻まれれば休館酪が真宵を軽々と抱え、壁を駆け上がる。
やがて――人工物が姿を現した。
「これ……道路! 車道だよ、ねずみちゃん!」
それはアスファルトで舗装された車道だった。
周囲に人や建物はないが、真宵には見慣れた光景だ。
「凄い凄い!これって、もしかして……!」
真宵がはしゃぐ目の前を、一台の車が近づいてくる。
興奮していた真宵だが、その車が近づくにつれ顔から表情が消えていった。
それは四輪車で、舗装された道路をタイヤがスムーズに走っていて、猫耳が付いていて、モフモフの毛並みを揺らして走る姿が可愛い様ななんやら……。
「真宵……ここが真宵の世界でちゅか?」
休館酪は真剣な眼差しで問いかける。
しかし真宵の表情からは、先ほどの興奮がすっかり消えていた。
「いやぁ……あ〜んな猫バスみたいなのは、走ってなかったかなぁ……」
彼女は苦笑いを浮かべながら、走り去っていく「猫バス」を見送った。