第一話 神隠しの迷い子(挿絵あり)
キャラクターデザインが後書きにあります。
迷楼金山――幻夢堂。
現世とは隔絶された異境に存在する館。
和装をモチーフにした内装で彩られ、その広さは無限に思えるほど。館の至る所には、絢爛豪華で幻想的な装飾、美食、娯楽が揃えられていた。
人が思い描く楽土のようなその場所には、数人の住人しかいない。外界からの侵入を拒むこの館は、今日も静謐に包まれていた。
その長い廊下を、鼠の妖怪・鼠休館酪が小さな歩幅で進んでいく。
白銀の髪が背に流れ、鼠の耳と尻尾がぴくぴくと動いていた。
可愛らしい童女の姿をしていながら、その黒曜石のような瞳には澄んだ知性が宿っている。
良質な布で仕立てられた白を基調とした和服をまとい、動きやすさと美しさを兼ね備えたその衣装は、思わず目を奪われるほどだった。
「廊下、軋みなし。障子、破れなし。……ふむ、今日も異常はないでちゅうね」
小さな声で呟きながら、帳面のような紙に印をつける。
この館は塵や汚れが生じても自動的に修復されるため、常に美しい姿を保ち、大抵は問題など見つからない。
それを承知の上で、休館酪はこつこつと仕事を進めていた。
真面目さゆえであると同時に、後で館の主に褒めてもらいたい気持ちもあった。
主は特別な理由がなくとも休館酪を見つければ撫でながら褒めてくれるが、それでも成果を示せれば一層誇らしい。
だからこそ、ふりふりと揺れる尻尾を抑えつつ、形ばかりの点検を続けるのだった。
――それが、彼女の日常だった。
だが、その日。たった一つの足音をきっかけに、彼女の日常は非日常へと変わった。
廊下の先から――足音。
ピタリと立ち止まった休館酪の耳がぴんと立つ。
妙だ。
幻夢堂には彼女以外にも使用人や主が住んでおり、足音が響くこと自体は不思議ではない。だが、こんなにも警戒心を帯びた忍び足で歩く者はいなかった。
では、この足音は誰のものか。
小さな身体をすっと構え、角を曲がった瞬間――。
そこには、一人の少女が立っていた。
黒髪を肩まで伸ばし、学生服の上にカーディガンを羽織っている。
まだ幼さの残る顔立ちで、驚いたように休館酪を見返していた。
「……えっ? ち、小さい子? それに……鼠の耳?」
休館酪は目を細め、彼女をじっと観察する。
「小さい子とは失礼でちゅう。あたちは鼠休館酪。幻夢堂に仕える使用人でちゅうよ」
そう名乗りながらも、警戒を完全に解いたわけではなかった。
「あ、ごめんね!……じゃなくて、ごめんなさい! 私、夢乃真宵っていいます。気がついたら霧の中にいて……気づけば、ここに迷い込んでしまって」
「ふむ……」
休館酪は口元に指を当て、思案するように首をかしげる。
彼女の態度に敵意はなく、妖の気配もない。
ただの人間――それも年若い娘。
「なるほどでちゅう。つまり、神隠しに遭った、ということかもしれないでちゅうね」
「神隠し……?」
真宵の瞳が不安げに揺れる。
「ここは現世から切り離された館。普通なら辿り着けない場所でちゅう。……けれど、お前は来てしまった。理由は不明――そういうのを神隠しと呼ぶでちゅう」
淡々と語る休館酪。
「な、なるほど……そ、それで……私は元いた世界に帰れるんでしょうか?」
恐る恐る、自分より年下に見える童女へ問いかける。
「神隠しに遭った者がどうなるか、あたちには分からないでちゅう。……少なくとも、あたちにはお前を元の場所へ帰す術はないでちゅう」
「そんな……」
突き放すような言葉に、真宵の瞳に涙が滲み、嗚咽が漏れる。
休館酪は肩をすくめ、小さく息を吐いた。
「とりあえず、帰る道が見つかるまでの間、この館で過ごすといいでちゅう」
「え……?」
「主様にはあたちが報告しておくでちゅ。ほんとは主様の許可なしに泊めることなど決められないけど……まあ、主様なら十中八九許可してくださるでちゅう。……だから心配はいらないでちゅう。この館は広すぎて、お前一人泊めても困らないからね」
真宵の表情に安堵が浮かぶ。
「……ありがとう。ありがとう……えっと、休館酪ちゃん!」
「ふふん、“ねずみちゃん”でも構わないでちゅよ」
少し得意げに言い、真宵の手を軽く引いた。
「お前はもうこの館の客人でちゅ。だから、泊まる客間までの案内を兼ねて、この迷楼金山――幻夢堂を教えてあげるでちゅう。あらゆる不思議が形を成し、金脈のように湧き上がる幻の館を」
二人が進む先――。
襖を開けば、黄金の光があふれる広間。
無数の料理が湯気を立て、果物や菓子が絶え間なく整えられていた。
「ここは美食の間。食べても減らない料理が並ぶ部屋でちゅう。まずは食べて元気を出すでちゅよ」
真宵の目が丸くなる。
「……すごい。料理が無限に続いているみたい。これ、誰が作ってるの? ……それに、こんな豪華な料理、本当に私が食べてもいいの?」
「ええ。館が勝手に用意するものだから、好きに食べるといいでちゅう」
休館酪はそう言いながら饅頭をひとつ摘んで口に運ぶ。
「……うん」
真宵は絢爛豪華な料理に目を奪われつつも、まだどこか警戒しながら林檎を手に取り、かじった。
次の瞬間、甘美な果汁が口いっぱいに広がり、瞳が輝く。
「すごい……! こんなおいしい林檎初めて! 食感も甘さも果汁も……今まで食べてきたものとレベルが違う……!」
「ふふん、そうでしょう。ここの食材や料理は、現世では再現不可能なほど高次元なものだからね」
子供のように尻尾を揺らしながらも、その口調は妙に落ち着いていた。
――こうして、鼠の妖怪と迷い子との奇妙な縁が始まったのだった。