約束と呪文を唱えて
硬化された血が背中の衣服もろとも破壊した。鋭利な刃先に背骨が傷つけられたのだと、手足の感覚で察する。
だがこちらは魔。人の姿を真似て質量をかさ増ししているだけなの存在である。
傷口から破損した部位を自らの意思で無にすると、背中から殺意で固めた棘を排出する。柔らかく幼い肢体が串刺しにされ、ルシャは虚をつかれた──訳では無かった。
笑いをあげながら体が掻き消える。山伏式神は厄介だと、同じく体を再び闇に帰した。
相手は同じだ。何もかも同じ手を打てる。
多分ではあるが、常日頃狩りで頼りにしている触手も相殺されるだろう。
彼女曰く彼女は血でできている。こちらが闇に似たモノに満たされているように、本質は不確かでどんなに傷つけても再生する。この御堂が血に満たされている限り。
だが、本体は必ずあるはずだ。
(核、魂はどこにあるの?!)
五感を研ぎ澄まし、全てを覆う闇の中から異物を探る。魂らしき灯火はどこにもない。ただ、何か違和感がある。
(チッ!闇を構成する余力が──)
いきなり体が強制的に人型に変幻してしまい、頭を鷲掴みにされた。
「はーい。勝った。捕食者は私っ」
ルシャがニヤニヤとこちらを冷笑する。小馬鹿にして、顔を寄せてくる。
「貴方にはなくて、私にはあるものがある。もう分かったでしょ?こんな馬鹿げた小芝居しなくても」
「…貴方の魂はどこ?」
「秘密。わざわざ教える能無しがいる?」
「…そう」
こちらを見あげている日照とリスがいる。慌てもせず、ただ棒立ちして待っている。それがやけに癇に障った。
暇を持て余してあるみたいで。
(そんな目で見るな。私はそんなショボい奴じゃない。恐れ多い人食い魔よ!物見遊山されるほどの──)
(ん?あれは)
日照の首にかけられた勾玉。幻で見せられた『勾玉』に形がそっくりだった。人界では獣型勾玉と呼ばれる物だと、知識は教えてくれる。
(そうだったのね。越久夜間に御座す──)
蛇崩にさざめく風が、荒れ野を撫でていく。越久夜間山から吹きすさぶ風を山伏式神は不思議と嫌いでなかった。
「……恐れ多く…かけまくもかしこき…かしこき」
(天を統べる大神、月を統べる比女、地を守る尊よ)
「諸々の禍事・罪・穢、あらむをば…祓へ給い清め給え…」
「は?何をブツブツ言っているの?」
「──荒れ野の暴食魔神は…所詮そんじょそこらの魔と変わらなかったって。最期に母上へ別れを言わせて」
項垂れ、観念したと涙ぐむ。それを見たルシャはしばし思慮し、そうねと頷いた。自由になるや、禍々しいお堂が明るみになり、数多の生首が顕になる。
山伏式神は母と呼ばれる残骸の前に跪いた。今度は有名な祝詞を奏上する。
「掛けましくも畏き、伊邪那岐の大神。筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原に──」
日本を守護するやおろずの神に、無様な神頼みをするのだ。
「ち、ちょっとなに?」
予想外の言動をし始めたのを期にルシャは慌てた。「日照っ!」
「──越久夜間の神奈備に御座す大神、どうかこの私めにお力を」
日照が窘めようと音もなく近寄ってきた。「しめたっ!」
束縛される前に首飾りをもぎ取り、汗ばむ手の平に収め必死に祈る。
「助けて!山の女神!願いは叶えたわよ!…約束したじゃない!」
「──よくやったじゃないか。ヒツのお抱えから奪うとは…あたしもお前を見くびっていたよ」
瞼の裏にある闇に、あの童子式神の偽物がいた。その輪郭が揺らいだかと思えば妙齢の貴婦人に変化する。
あの女性を何度か荒れ野──蛇崩で目にした事がある。寂れた墳墓の前でひそやかに誰かを弔う、数少ない謎めいた来客だった。
「山の女神、初めて会った訳では無かったのね!私は認識していたわ!」
婦人の黄緑色の瞳が煌めいて夜を照らす。村の傾き沈もうとしていた太陽が逆行し、天に登り始めた。
「ああ。小さき魔物よ。山伏からお前にかけられた呪いを解いてやろう」
そういうと、ふわりと猫っ毛の頭を撫でられる。しゃがみこみ小さく囁かれた。
「アンタの供養を忘れていたね。すまなかった」
「え?」




