揺らぐ絆、裂けゆく世界
9話です!よろしくお願いします。
それは、静かな夜だった。
風もなく、焚き火の煙がまっすぐ空にのぼっていた。
エロディの呼びかけで、幹部たちが地下会議室に集められたのは、突然のことだった。
ノエミー、バスティアン、マルゴ、テオ、レア――そして、中心に立つルシアンと、少し離れてうつむくジュール。
「……なんだって?教団と繋がってた?」
バスティアンの低い声が、地鳴りのように響いた。
「待て。俺たちが“繋がっていた”というのは語弊がある。俺たちは、ある種の……交渉をしていただけだ」
ルシアンが腕を組み、沈着な声音で応じる。
「交渉?あんた、あの連中と何を交渉したっていうの……!」
ノエミーの声が震える。怒りか、驚きか、それとも――
「……情報だ」
代わりに口を開いたのはジュールだった。
「俺は、ある時点から《深淵の翼》に目をつけられてた。拷問も受けた……生かされた理由は、“選ばれた”からだ」
沈黙が落ちた。誰もすぐには言葉を出せなかった。
「俺は、それでも団のために情報を引き出そうとした。ルシアンも……分かってた。だから、情報の“交換”という形で、彼らの中枢に探りを入れようとしたんだ」
「……結果として、彼らに我々の動向を握られていたというのは事実ですか?」
マルゴが冷静に問う。
「……ああ」
ルシアンがうなずいた瞬間、テオが机を拳で叩いた。
「ふざけるな……! それが“団のため”だって? ノエミーや俺たちに何も言わず、裏であの連中と通じて……!」
「言えるわけがなかった」
ルシアンの声が低く、重く落ちた。
「お前たちの純粋さは、利用されるにはあまりに無防備だ。誰かが汚れ役を引き受けなければ、理想なんて守れない」
誰も、すぐには反論できなかった。
だが沈黙はやがて、重たい決断へと姿を変える。
「ルシアン・コルボー」
ノエミーが名を呼ぶ。
その声は震えていたが、はっきりと前を見据えていた。
「あなたを“無期限の謹慎”とします。意味はわかるわよね?」
「謹慎……ね」
ルシアンは苦笑を浮かべた。
「いいさ。これで少しは、純粋な軍団に戻れるかもしれないな」
そのまま、彼はゆっくりと部屋を出ていく。
誰もそれを引き止める者はいなかった。
「俺は……自分の意思で、ここを離れる」
ジュールもまた、視線を伏せたまま立ち上がる。
「最後にひとつだけ――俺たちがしたことは、すべて“無駄”じゃなかった。
必ず意味がある。……それだけは信じてほしい」
ノエミーは黙ってうなずいた。
彼女の胸には、怒りも悲しみも、信頼の残滓すらも渦巻いていたが――
今はそれらすべてを、前に進むための燃料に変えるしかなかった。
光の塔、石造りの回廊には、いつになく緊張した空気が漂っていた。
装飾の施された壁に掛けられた聖なる言葉の数々が、今はただ虚しく響く。
「……“金の翼”派が、また《物流枢軸》に圧力をかけたとの報告です」
忠臣のラザールが低く告げる。
「《青空の翼》が激しく反発しており、“影の翼”派との駆け引きも限界に近いかと」
アルヴィスは塔の窓辺に立ち、遠く霞む王都の街並みを見下ろしていた。
手には聖典、しかし視線はそこに留まっていない。
「……まるで、籠の中で蛇と鷲が睨み合っているようだな」
低く、独り言のようにつぶやく。
「いっそ籠が壊れればいい、とさえ思う者もいましょう」
ラザールの言葉に、アルヴィスの口元がわずかに皮肉げに歪む。
「だが、壊れれば最後、すべてが地に落ちる。…それは望むところではない」
かつて、自らの信じる“光”のために剣を振るい、命を奪い続けた日々。
だが今、足元にあるこの教団が示す“光”が、どれほど歪んでいるかを知った今――
アルヴィスの中の何かは、確実に変わっていた。
「中立を保つのが、こんなにも難しいとはな……」
嘲るように自嘲するその声に、ラザールがちらと視線をやる。
「……聖使、少し顔色が優れません。何か、思い煩うことでも?」
その問いに、アルヴィスの肩が一瞬だけ揺れる。
長い睫毛の影が頬をかすめ、彼は静かに目を閉じた。
「……いや。少し、思い出していただけだ」
あの銀の翼街の夜。
控えめな笑みと、強い瞳。
灯りの下で揺れた黒髪。
そして、手のひらに残った、確かな温もり。
“こんな時に、何を考えている……”
心の中でそう叱咤したものの、それでも記憶は甘く滲んで離れない。
不意に頬がゆるみそうになり、彼は小さく首を振ってそれをかき消した。
「……たまには、夢でも見たくなるだけさ」
その表情を見たラザールは、少しだけ目を細めた。
「もしや……どなたか、特別な方のことを?」
「違う」
即答したその声音が、どこか早口で――どこか、ぎこちなかった。
ラザールはそれ以上何も言わず、静かに頭を下げた。
騙しきれていないと分かっていても、今はそれでよかった。
アルヴィスの胸に去来する感情は、いまだ名前を持たない。
だが、その存在だけは確かに――彼の中で生きていた。
夜明け前、まだ星が名残をとどめる頃――
義賊《黒鷲の軍団》の拠点では、薄明かりの中で出立の準備が静かに進められていた。
「今回は銀の翼街の中央区まで調べる必要がある。マルゴ一人ではカバーしきれない。誰か、同行して」
作戦部隊のエロディが、地図を広げながらそう言った瞬間――
「私が行く」
と、誰よりも早く声をあげたのは、ノエミーだった。
マルゴが小さく眉を上げる。
「めずらしいわね。最近は前線より拠点指揮の方が多かったじゃない」
「たまには動きたいのよ。それに、銀の翼街の中央区なら、私の顔を覚えてる奴は少ないわ」
ノエミーは努めて軽く言い放つが、その目には一瞬、別の光が宿っていた。
すぐさま準備にとりかかったノエミーは、仮面と黒い外套を手に取りながら、思わずふと手を止めた。
指先が触れたのは、あの日に身に着けた薄布の装飾――
人混みを抜け、星明かりの下で笑い合った、あの夜の記憶がよみがえる。
(まさかまた、あの街で……)
ほんのわずかでも、心が躍る自分に気づいて、ノエミーは内心で慌ててそれを打ち消す。
「ちょっと、なにニヤついてるのよ」
部屋の入り口に立っていたのはレアだった。腕を組み、じっと見ている。
「ニヤついてない!」
「うそー。ねえ、好きな人でもできた?」
「いないってば!」
「へえー?」
レアは面白そうにニヤニヤしながら近づき、ノエミーの顔をのぞき込む。
「いやに身支度、気合い入ってるし。まさかまたあの“金ピカ坊や”に会えるかも、とか思ってたり?」
「してない!!!」
真っ赤になったノエミーが叫ぶように言うと、レアは肩をすくめて笑いながら部屋を出ていく。
「はいはい、そういうことにしとく。……でも、気をつけてね。何があっても、あなたが戻ってこなかったら、私は許さないから」
その言葉だけは真剣で、ノエミーは少し表情を和らげてうなずいた。
秋が深まり、ルナリスの空は鋼のように鈍く光っていた。
折れた翼の地では、風が冷たさを帯び、人々は無言で日々を過ごす
。
だが、その沈黙の奥に――誰にも見えない《熱》が少しずつ育ち始めていた。
義賊団の作戦室では、地図と記録が机一面に広げられ、幹部たちが何度目かの作戦会議を重ねていた。
ルシアンが抜け、ジュールも姿を消してから、誰もがその喪失を埋めるように働いていた。
「中央市場で密かに集会を開いてるって噂が出てるの、中流階層の商人たちの間で」
マルゴが地図の一角を指差しながら言った。
「確証は?」とエロディ。
「薄い。でも、ここ数週間、夜に火が灯る家が妙に多い」
バスティアンが腕を組んで唸った。
「……燻ってるな。爆ぜるのも時間の問題かもしれねぇ」
レアが心配そうにノエミーを見る。
「それでも、私たちが動くには早いよ。何か、決定打がないと……」
ノエミーは静かにうなずいた。
だがその瞳は、どこか遠くを見ていた。
“あの夜の言葉…あの眼差し……”
あの人なら、この“兆し”をどう受け止めるだろう。
そんな想いが頭をかすめるたび、胸の奥に淡い熱が灯るのを、彼女は否定できなかった。
一方、首都では――教団本部の塔の上階、元老院の私的謁見室でもまた、異なる緊張がうねっていた。
「《金の翼》派が兵力の増強を進めています」
「それに対し《影の翼》が“防衛”という名目で神殿衛兵を再編成しているとか」
「《炎の翼》も黙っていないだろう。軍備が動けば、粛清部隊にも火の粉が降るぞ」
情報と陰謀が渦巻くその場で、アルヴィスは敢えて沈黙を保っていた。
彼の目の前で繰り広げられる冷たい駆け引きは、もはや宗教ではなく、ただの権力争いだった。
「……中立は不可能かもしれません、聖使殿」
ラザールが低くささやいた。
「分かっている」
アルヴィスの声もまた、静かに冷えていた。
だがその心の奥には、燻るものがある。
この火薬のような状況で、引き金を引く者は誰か――いや、それはすでに引かれているのかもしれない。
そして、ついに――
「聖使殿、報せです」
部屋に駆け込んだ神官が、荒い息を整えながら告げた。
「《銀の翼街》周辺の商工組合にて、独立的な動きの兆候が確認されました。集会、言論活動……蜂起の可能性ありと、諜報より」
部屋の空気が一瞬止まる。
それはまるで、静かに積もった雪が、ついに音を立てて崩れ始めた瞬間。
アルヴィスは目を閉じ、ゆっくりと椅子から立ち上がる。
「……始まるか」
彼の言葉に、誰もが返す言葉を失った。
その頃、義賊団にもまた、同じ報せが届いていた。
「……蜂起の兆しが、出始めた」
ノエミーのその言葉に、作戦室の空気が一変する。
誰もが察していた。
これが、ただの“兆し”ではなく――
時代が動き始めた音であることを。
ノエミーは窓の外を見つめた。
あの夜、約束も交わさず別れたあの人が、
今この時、何を見ているのか。
何を選ぼうとしているのか。
思いは募る。けれど、道は交わらない。
それでも――
「……どうか、無事でいて」
交わることのない祈りが、同じ空に向けて、静かに放たれた。
――その頃。
光の塔の一室、重く閉ざされた窓の向こうにもまた、同じ空が広がっていた。
アルヴィスは目を伏せ、誰にも聞こえぬ声で、ぽつりと呟く。
「……どうか、君も――」
異なる地で、異なる名で、異なる立場にありながらも。
その祈りは、奇しくも一つの空へと向かって重なった。