蝶は再び出会う、銀の翼を広げて
8話です!よろしくお願いします。
冷たい石の床を踏みしめる音が、広大な謁見の間に静かに響いた。
アルヴィスの前に並び立つのは、教団元老院《Les Ailes Sacrées》の面々。光の塔の最上階、神聖なる審問の場にて、彼は深く頭を垂れていた。
「敵をかばったと聞く。しかも、逃走を許し、書類の一部を持ち出されたと?」
炎の翼《Aile de la Flamme》が低い声で問いただす。
「命令違反にして利敵行為。これは軍規にも聖律にも反する行いである」
「だが、彼は負傷していた。軽率な判断だったかもしれぬが、意図的ではなかろう」
暁の翼《Aile de l’Aube》が庇うように口を挟む。
「まして彼が持ち帰った証拠は、第六翼との不穏な動きの一端を示す貴重な手がかりだ」
一斉にざわつく元老たち。教団内部の勢力争いが、水面下で静かに火花を散らしていた。
それは明らかに、アルヴィスの処遇をめぐる駆け引きへと変貌していた。
ある者は彼を責め、ある者は擁護する。
そのどちらにも与さず、ただ沈黙していたのは《影の翼》――元老院の実質的な最高位。
その黒衣の長老は、静かにアルヴィスの目を見つめたまま、最後まで一言も発さなかった。
やがて、銀の翼《Aile de l’Argent》の長老が戒告の結論を告げようとした瞬間、アルヴィスがゆっくりと顔を上げた。
「処分は、戒告でよいとのご判断。ありがたく承ります」
「ですが私は、自らけじめをつけたい。しばしの謹慎を――願います」
元老たちは驚いたように視線を交わす。
「本気か、光の翼よ。そなたは責任を果たした。傷も癒えておらぬと聞く」
「だからこそ、今は身を引くべき時と心得ます」
アルヴィスの声は、静かで揺るぎなかった。
「己の未熟を見つめ直し、再び剣を執る覚悟ができた時――その時、また聖務に戻らせてください」
長い沈黙の後、教皇の名代である影の翼がようやく口を開く。
「…願い、認められた」
その言葉とともに、アルヴィスは深く一礼し、審問の場をあとにした。
彼の背に、教団の光ではなく、長く尾を引く深い影が差していた。
かつてない激しさで交戦した夜から三日。
森深くにひそむ義賊団《Légion de l’Aigle Noir》の隠れ家には、重苦しい沈黙が流れていた。
片腕を吊ったバスティアンが軋む椅子に身を預ける。マルゴは包帯を巻かれたわき腹を押さえながら、隅の寝台に横たわっていた。ノエミーもまた、左の二の腕を縫合したばかりで、動かすたびに鈍い痛みが走る。
「やれやれ…こっちの損害も馬鹿にならねぇな」
ジュールが苦笑混じりにため息をつく。
「下手したら、次に襲われたら持ちこたえられんぞ」
「だからこそ、今は動かない」
ルシアン――義賊団のリーダーは、断定するように言った。
「負傷者も多い。それに兵も疲弊してる。今は各々、休養と再建に務めるべき時だ」
それに異論を唱える者はいなかった。誰もが、心身ともに限界を感じていた。
だが、ノエミーの心は別の場所にあった。
あの夜、彼女が手に入れた書類――
教団と義賊団の間に交わされたとされる密約文書。それは、黒鷲の軍団と名乗る彼らが、決して公にはできぬ裏の顔を持つ証左でもあった。
だが、そこに記された名前――《Corbeau》。
それは、彼女にとって“兄”そのものであり、決して裏切りを許すはずのない人間だった。
「……兄さんが、こんなものを本当に…?」
夜更け、ノエミーは一人、隠し持った書類を蝋燭の灯で照らしていた。
筆跡を何度も見比べ、印章の細部を確かめる。それでもなお、信じたくない心が、疑念の輪郭を曖昧にする。
(兄さんを疑うなんて、最低だ。だけど…)
戦闘での出来事、敵兵の動き、予測されていたかのような教団の行動――
すべてが繋がってしまう。冷たい鎖のように、ノエミーの心を締めつけた。
「…ルシアンが敵と繋がってるなんて、あるわけない。そんなの、嘘に決まってる」
誰に向けたのでもない呟きが、夜の帳に溶けていった。
その翌日、ルシアンは皆に休養を命じ、しばしの間、目立った行動を控えると通達した。
ノエミーはその判断にうなずきながらも、彼の顔から微かな緊張の影を読み取った。
(私は、まだ知らなきゃいけないことがある)
彼女はそう決めた。
心に芽吹いた疑念はまだ小さな棘のようなものだったが、それは確かに彼女の中に刺さり、抜け落ちることはなかった。
銀の翼街――
教団の中流階級が暮らすこの街は、光の塔に隣接しつつも、庶民の活気と洗練が程よく混じり合う場所だった。石畳を馬車が行き交い、広場では楽師が音色を奏で、通りには香辛料と焼き菓子の香りが立ち込めている。
アルヴィスはフード付きの灰色の外套に身を包み、人目を避けるように歩いていた。
左腕にはまだ包帯が残るものの、傷はすでに癒えかけている。
「まるで何事もなかったかのようだな」
彼は独りごちた。
あの夜の戦闘、義賊に資料の一部を奪われた失態――
教団の元老院では激しい非難の声が上がった。特に第4翼「炎の翼」は、「敵をかばった」行為に関してアルヴィスを強く責め立てた。
だが、それに対抗するように、第3翼「輝きの翼」が庇うように動いた。
「光の聖使をここで失うのは得策ではない」と。
結局、処分は戒告にとどまり、アルヴィス自身の申し出で一定期間の謹慎となった。
――まるで、政治の道具のようだな。
彼は疲れていた。
正義の名を借りた欺瞞、勢力争いの駆け引き。
かつてはそれすらも使命として受け入れていたが、今は違った。
「少し、静かな場所が欲しい」
彼は小さな酒場兼食堂の軒先に足を止めた。柔らかな灯火が窓から洩れ、香ばしいスープの匂いが誘う。
ささやかな憩いの時間。そんな場所を求めていた。
一方、同じ街の別の路地。ノエミーもまた、似たような思いを胸に歩いていた。
今の彼女は、旅の踊り子を装った薄手のワインレッドのドレスに、髪をスカーフで包んだ姿。鋭い目つきも和らぎ、ただの旅人にしか見えない。
(兄さんを、私は…)
あの書類の内容が頭から離れない。信じたい、でも疑念が消えない。
そしてもう一つ、忘れられないあの夜の出来事。
戦いの中、自分をかばった男の姿。
刃を交えたはずなのに、心を奪われてしまった彼のことが。
「……馬鹿みたいだよ、私」
苦笑を漏らしながら歩いたその時だった。
ふと、視界の隅に見覚えのある姿が映る。
(――まさか)
戸惑いと期待が入り混じるような表情で彼女が立ち止まるのと、
酒場の扉をくぐろうとしていたアルヴィスがふと気配を感じて振り返るのは、ほぼ同時だった。
目が合った。
沈黙。鼓動。空気が止まったような一瞬。
奇跡でも、偶然でもない――ただ、再び巡り合った。
そして、
「……君だったのか」
「……どうして、あなたが」
言葉が重なる。
驚きと、どこか喜びの混じった表情を見せるふたり。
そのまま自然と、アルヴィスが扉を押し開け、ノエミーが少し遅れてその中に入っていく。
酒場の奥、人気の少ない片隅の席に並んで腰を下ろす。
温かなシチューとパンが運ばれ、二人は黙って手を伸ばす。
しばらくは、言葉ではなく視線で語る時間だった。
「この街は、騒がしくもあって…落ち着く」
「分かる。戦いのあと、こういう時間が一番、心に沁みるのよね」
意外なほど自然に、会話が始まる。
食べ物の好み、音楽の話、旅先のこと、好きな景色――
言葉を交わすほどに、不思議なくらい波長が合うのを互いに感じていた。
「君が、誰かを守ろうとする姿を…今も忘れられない」
「あなたが傷ついたとき…なぜか、胸が痛くて」
抑えようとしても、心は嘘をつけなかった。
危うく、許されぬ関係だと知りながら。
敵として出会ったはずなのに、今ではもう、相手の存在が日々を満たしている。
アルヴィスの視線がノエミーの瞳に吸い込まれる。
ノエミーもまた、その視線から目を逸らせなかった。
だが、ふと。ノエミーが震える声でつぶやいた。
「ねえ、私たち……どうすればよかったのかな」
アルヴィスは返事をしなかった。ただ静かに、苦くも優しい微笑みを浮かべて、彼女のグラスにワインを注いだ。
その夜、銀の翼街に満ちた喧騒の中――
ふたりだけが、ひっそりと運命に戸惑いながら、引き寄せられていくのだった。
夜が更け、銀の翼街は仄かな灯火と静寂に包まれていた。
酒場を出たふたりは、互いに歩調を合わせながら石畳の小径を進んでいた。
言葉は少なかったが、沈黙が気まずくなることはなかった。
むしろ、それは心の深くを語り合っているような、不思議な安らぎに満ちていた。
――だが、別れの時間は刻一刻と近づいていた。
街角の分かれ道。
この先を行けば、それぞれの世界に戻る。
ふと、ノエミーが立ち止まり、星空を見上げた。
「今日は……きっと忘れられない日になる」
アルヴィスも同じように空を見上げ、微笑を浮かべる。
「奇跡は、信じないほうだった。けど……君と会うたびに、それが少しずつ揺らぐ」
その言葉に、ノエミーは胸の奥を突かれるような気持ちになった。
敵として出会い、剣を交え、傷を負わせ、秘密を奪い合った――
それでもなお、心がこの人を求めてしまう。
(駄目だって、わかってるのに……)
言葉にはできない葛藤が、瞳に宿る。
アルヴィスもまた、その表情を見ていた。
「君が何者であっても、僕は……」
そこまで言いかけて、彼は言葉を飲み込んだ。
言ってはいけない。言えば、何かが壊れてしまう。
けれど、もう引き返せないと感じてしまうほど、心は近づいていた。
ノエミーは、そっと笑った。
どこか悲しげで、どこか優しい笑みだった。
「また……どこかで、会えたらいいね」
それが精一杯の、理性と感情の折り合いだった。
アルヴィスも静かに頷く。
「……ああ。必ず、また」
そしてふたりは、静かに背を向けた。
まるで、振り返れば感情が堰を切ってしまうと知っているかのように。
足音が遠ざかり、夜の街に再び静寂が戻る。
けれど、胸の内にはまだ、あの時間の余韻が残っていた。
この一夜が、忘れられぬものになるとわかっていた。
抑えねばならぬ思いと、それでも求めてしまう心――
それはまるで、光と影が交わる刹那のような、美しくも切ない情熱だった。
静かな夜が明け、
それぞれが帰るべき現実へと戻っていった。
アルヴィスは、光の塔の石階を黙々と上りながら、
昨夜の記憶が現実だったのか夢だったのかさえ曖昧に思えた。
だが、冷たい塔内の空気が、否応なく現実を突きつけてくる。
元老院では、彼の謹慎期間中に火種が広がっていた。
第六翼と第十翼が裏で手を結び、金の翼派の影響力を削ごうと動いているという噂。
主翼の影の翼が、その動きを見逃している節があるという密告――
アルヴィスの粛清失敗は、内部の勢力争いの駒として利用され始めていた。
「アルヴィス様。しばらく、御身の行動にはお気をつけください。
光の名の下にあっても、誰が味方か分かりませぬぞ」
忠臣のひとりが、低く囁いたその言葉に、
彼は薄く笑った。
(今さらだな。味方など、最初からいない)
同じ頃――
ノエミーもまた、義賊団の拠点に戻っていた。
休息を命じられた仲間たちの空気は、どこか重苦しい。
ルシアンとの再会の場で、彼女はついに尋ねた。
「……この書類、あなたは関係ないの?」
ルシアンは、微笑の裏に冷たい硬さを覗かせると、
「信じているなら、それ以上は聞かないでくれ」とだけ言った。
その答えは、信頼を揺るがすに十分だった。
ノエミーは部屋を出たあと、胸元のペンダントを強く握った。
(もう、何も信じられない――それでも、あの人を……)
義賊団の内部にも、不穏な動きが忍び寄っていた。
一部の若手が「もっと攻めるべきだ」と強硬な行動を求め、
中立を保ってきた医療担当のレアさえ、最近は何かに怯えている様子だった。
そう――
どちらの陣営も、静かに、しかし確実に――
“内から崩れ”はじめていた。
そして、その中枢に近い場所に、
アルヴィスとノエミーが立たされようとしていた。
正体を知らずに惹かれ合い、
正体を知りながらも抗えず、
それでもなお、交差する想いがあった。
だが運命は、
彼らに「再会の喜び」ではなく、
「敵同士の対峙」という形でその歩みを刻もうとしている。