鷹と鷲、決意の対峙
7話です!よろしくお願いします。
夜の帳が落ちた森の外れに、焚き火の小さな灯が揺れている。
黒鷲の軍団──その選抜部隊が、次なる大規模な任務に備え、慎重に計画を練っていた。
その輪の中に、ひときわ目立つ影がある。長い黒髪を後ろで束ね、やややつれた表情ながらも鋭い視線を持つ女──マルゴだ。
長い静養を経て、彼女はようやく前線に戻ってきた。
だが、その歩みはかつてのような鋭さにはやや欠けていた。服の下からは、まだ完全には癒えていないわき腹の包帯がちらりと覗いている。無理を押しての復帰であることは、誰の目にも明らかだった。
「マルゴ、大丈夫なのか? 無理して来るなって言っただろ」
低く絞った声で、バスティアンが問いかける。
「平気よ。身体はまだ万全じゃないけど……腕は、まだ腐ってないから」
彼女は笑いながらも、額に浮かぶ汗を隠すように手を振る。
「生きてなきゃ、この傷の意味も無駄になるからね」
少しだけ口角を上げたその言葉に、場が一瞬静まる。
「でも今回は私がつく。そばにいるから、無理だけはしないで」
ノエミーが短くそう告げたとき、その声音はまるで、鋼鉄の芯を持つ絹のようだった。
エロディが地図を広げる。
「標的は教団が“聖域”と呼ぶ場所のひとつ。機密文書の保管庫だと思われる。守りは堅いけど、月の位置と巡回の隙を狙えば……」
彼女の指先が、要所をなぞっていく。
空気が引き締まる。焚き火の炎が、まるで皆の胸の鼓動に合わせて揺れた。
「みんな、行けるか?」
ルシアンの問いに、全員が黙って頷いた。
この夜が、ただの一夜ではないことを、それぞれが理解していた。
何かが変わる。誰かが変わる。
その予感だけが、静かに、しかし確かに燃えていた。
月が雲に隠れ、夜の帳が深く落ちた頃──
義賊団の選抜部隊は、教団の機密文書保管施設へと足音を殺して接近していた。
先頭に立つノエミーは、身をかがめて石壁の影に身を潜める。
振り返り、指先で「三、右、進行」の合図。仲間たちは無言で頷き、霧のように動いた。
施設は古い石造りで、衛兵の数もそこまで多くはない……はずだった。
「……このままいければ、十五分で中枢へ」
エロディが低く囁くように呟いた。
しかし、その予測は甘かった。
──バウッ!
沈黙を破ったのは、犬の吠え声だった。
兵に連れられていた猟犬が、風の中の匂いに反応したのだ。
「退け!」
バスティアンの怒号と同時に、巡回兵の松明がこちらを照らす。
「そこだッ! 侵入者!」
叫び声とともに警鐘が鳴り響き、施設の内部から白装束の兵たちが現れる。
教団粛清部隊「白い影の爪」──音もなく迫るその動きは、まるで死神のようだった。
「伏せろ!」
ジュールが矢を放ちながら、仲間を庇って崩れ落ちた扉の陰へと飛び込む。
ノエミーは一瞬の隙に、周囲を見渡す。
そして、現れた。
白い仮面をつけ、戦場の中心に歩を進める男。
まるで音すら拒むような静けさで、その男──オーバンは、彼女に向けて一直線に歩いてきた。
「あの時の……雨の夜の……?」
ノエミーの中で、確信が凍るように広がる。
彼もまた、彼女を見ていた。仮面越しに。
時間が、ほんの一瞬だけ、凍りついたようだった。
「……うそ…」
その呟きが消えるよりも早く、剣が抜かれる音が重なった。
周囲では戦闘が激化していたが、ふたりだけが別の時を刻むように、剣を交わし始める。
火花が舞い、冷たい鉄がぶつかるたび、そこにあるのは怒りでも憎しみでもない。
確かめようのない記憶の続き。戸惑いと、名もなき引力の応酬。
「まさか、あなたが……」
言葉が続かないまま、ノエミーは攻撃を繰り出す。
だが、彼はそれを受け止め、返す刃もどこか鈍っていた。
――刹那。
義賊を狙って放たれた矢が、ノエミーの背後から迫る。
アルヴィス……いや、オーバンが迷いもなく飛び出し、その矢を剣で弾こうと身を捻った。
だが、間に合わなかった。
鋭い音がし、矢は彼の肩をかすめて深く突き刺さる。
「っ……!」
低く押し殺した呻き声が、夜のざわめきに紛れる。
ノエミーが驚きに目を見張った瞬間、彼は片膝をつきながらも剣を構え直した。
その動きは、負傷の痛みを無理やりねじ伏せているようだった。
それでも、彼はわずかに息を詰めたようにして笑う。
「……こんな馬鹿げた真似、わかってたらしてないさ」
それは、皮肉にも優しい言葉だった。
ノエミーの胸の奥に、じわりと温かな何かが芽生え始めていた。
彼女は知らず、指先に力を込めていた──誰かを憎む剣ではなく、何かを選ぼうとするその手に。
静寂が、ひと呼吸ぶんだけ戦場を覆った。
矢が抜かれ、血が滲むアルヴィスの肩。その手から零れ落ちそうな剣を、彼は再び握り直す。
その姿を見て、ノエミーは何か言いかけたが、口を閉じた。
逃げ場はない。
彼女も、彼も、それぞれの顔を隠す仮面を脱ぎ去った今――
言葉を交わせば、何かが壊れてしまうような気がしていた。
「オーバン……」
彼の名を呼ぶ声はかすれて、誰にも届かないような小ささだった。
アルヴィスは剣を構えながら、一瞬だけ目を伏せた。
それは、敵を見る目ではなかった。
剣を交えたのは、ほんの数合。
互いに本気で斬り結んでいるのに、どこか探るような、試すような手応え。
ノエミーの胸に、矛盾する二つの鼓動が鳴る。
剣を握る指が震えていたのは、怒りでも恐怖でもない。
知らないはずのその背中を、なぜか守られた記憶が蘇るから。
彼がまた何かを庇おうとするそぶりを見せたとき、ノエミーは初めて叫んだ。
「やめて!」
アルヴィスの動きが、ほんの一瞬止まる。
その隙に、別の義賊団員が駆け寄ってきた。
「ニュイ、そろそろ限界だ!」
作戦撤収の合図が飛ぶ。
ノエミーは、剣を下ろした。
彼女にしては珍しく、判断が遅れた瞬間だった。
アルヴィスもまた、肩を押さえながらそれ以上は追わなかった。
何かを言いかけたが、言葉は空気の中に溶けたまま、消えた。
そのとき、粛清部隊の一人が駆け寄ってきた。
「オーバン様、追撃の許可を──」
アルヴィスは視線だけを向け、短く首を振った。
「必要ない。こちらも負傷者が多い。今夜は、“慈悲”を与えよう」
言葉の意味に兵が戸惑うが、アルヴィスの目がそれ以上の説明を許さなかった。
夜の闇にまぎれ、義賊団が撤退してゆく。
ノエミーの胸には、戦いの記憶よりも、彼の血と、視線の温度が残っていた。
深い夜が、町を包み込んでいた。光の塔の遠くから響く鐘の音が、夜の静けさに不穏な音を加えた。
義賊団の撤退後、残されたのは、傷だらけの戦場と、どこか呆然とした表情の兵たち。
アルヴィスは、負傷した手で自身の肩を押さえながら、ゆっくりと指揮を取っていた。教団側の指揮不在を理由に、追撃は断念され、兵たちもそれぞれに治療を受けていた。
「オーバン様。」
副官が、慎重に歩み寄る。
「追撃の中止、正解でしたね。」
その声には、ほんの少しの安堵が含まれていたが、アルヴィスはただ頷くにとどまった。
「正解だったかどうかは、わからん。」
その言葉に、若干の苦味が滲んでいた。
義賊団の撤退が成功したことに、安堵するべきだと誰もが思っていたが、彼の胸には何か、重いものが沈んでいた。
ノエミーがあの場で立ち去ったとき、彼女の目の奥に見えた感情のすべてが、アルヴィスをますます深く迷わせる。
「彼女を見逃していいのか?」
問いかける相手もいない。
そのとき、副官が報告を持ってきた。
「遅くなりましたが、持ち帰った書類を検査した結果、一部に不可解な取引記録が見つかりました。」
アルヴィスの目が鋭く光る。
「内容は?」
「おそらく、第6翼に関する取引記録だと思われます。ただ、証拠としては不十分で、詳細な内容までは確認できていません。」
アルヴィスの顔に冷徹な表情が浮かぶ。
「第6翼か。」
彼は一瞬、何かに思いを馳せるような素振りを見せたが、すぐにその感情を抑え込んだ。
「裏取引か……。」
その言葉に、アルヴィスの内心に何か重いものが乗っかるような感覚があった。
教団の中で一番得体のしれない第6翼、そしてその動きが見え始めたということは、単なる偶然ではない。だが、今はそれを追及する時ではないと感じていた。
副官が続ける。
「記録には取引先や内容についての手がかりもありますが、詳細がわからない限りは確証は持てません。」
アルヴィスは目を細めながら、その報告をじっと聞いていた。
「わかった。引き続き解析を進めろ。しかし深追いはするな。やつは何してくるかわからん」
その命令に従い、副官はすぐに動き出した。
だが、アルヴィスはその後ろ姿を見送りながら、再び思考を巡らせる。
「第6翼……」
その名前が、彼にとって意味するものが、どんどん明確になっていくような予感がしていた。
ノエミーはその後、義賊団の拠点に戻り、負傷した仲間たちを手当てしながらも、心の中でひとつの疑問を深めていた。
『あの男……オーバン……』
なぜ、あの瞬間、彼が庇ってくれたのか。
彼の目に浮かんでいた感情を、ノエミーは完全には読み解けなかった
。
「……ふぅ。」
短く息を吐きながら、彼女は窓の外の月明かりを見上げる。
「また、面倒なことになりそうだ。」
そして、持ち帰った書類を机に広げ、内容を改めて確認する。
その中で、彼女の目が止まったのは、記された一行だった。
『取引相手:Corbeau(黒鷲の軍団)』
その文字に、彼女の心が一瞬、震える。
誰もが気づかぬまま、ノエミーの視線だけが鋭く、冷徹なものに変わった。
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