雨に濡れる心
6話です!よろしくお願いします
朝の光はまだ淡く、湿った空気が屋敷の隙間をすり抜けていた。
ノエミーは部屋の戸を静かに閉めると、踊るような手つきで黒い外套を肩にかけた。その手には、マルゴの包帯の感触が、微かに残っていた。
「無理してるって、すぐわかるのにね……」
先日の任務での深手が、マルゴの動きを今なお鈍らせている。本人は平然を装っていたが、ノエミーの目はごまかせなかった。
だからこそ、自ら代役を申し出たのだ。
銀の翼街での任務は、貴族に雇われた商人の動向を探るという軽い偵察に過ぎない。だが、変装と機転が問われる。マルゴに最も適した仕事だった。
それを任されたのは、信頼されているから──そう思いたかった。
鏡の前で髪を結い直すと、深呼吸。浅黒い上着の下に、薄く仕込まれた短剣の感触を確認する。
「さて……一仕事、代わりに果たしてこなくちゃね」
銀の翼街は、折れた翼の地とはまるで違う。整った石畳、飾り気のある街灯、陽気な香水とワインの匂い。浮かれた市民たちが通りを行き交い、楽しげに笑う音がどこからともなく響いてくる。
ノエミーは軽くフードを目深にかぶった。視線を上げると、空は曇天。遠くで雷の音が小さく響いたような気がした。
「雨……降るかな」
それはただの空模様の心配だったのか、それとも胸に忍ぶ何かの予感だったのか。
ノエミーは知らぬふりをして、街の中へと紛れていった。
重たい扉が静かに閉まる音が、空気に沈んだ。
アルヴィスは白い外套を脱ぎ、上質だが控えめな仕立ての旅装に着替えると、手にした銀の指輪をゆっくりと懐にしまい込んだ。
光の塔に身を置いている限り、己は「聖使」だ。
だが、今日くらいはその仮面を脱ぎたかった。
――すべてが、重すぎる。
教団内部で繰り広げられる権力闘争。
元老院の老獪な笑みと、その裏で交わされる密約。
そして、「白い影の爪」の名のもとに自らが下した数々の断罪。
民のためにと信じていた行為が、誰のためのものだったのか。
その答えが見えなくなってから、もうどれほどの時が経ったのか。
「……静かな場所が、欲しいだけだ」
自らに言い訳するように呟いて、アルヴィスは銀の翼街へ向かう馬車へと乗り込んだ。
その姿を、誰も「光の翼」とは気づかない。だが、それこそが彼にとっての束の間の自由だった。
銀の翼街は、今日も華やかだった。
噴水の音が遠くで鳴り、露店には香草の香りと焼きたてのパンが並んでいた。
肩に落ちた雨粒が、アルヴィスを現実に引き戻す。
いつの間にか、細かな雨が降り始めていたのだ。
傘も持たずに歩いていたのは、彼だけではない。
傘の下に寄り添う恋人たち。子どもを急かす母親。商人たちの陽気な呼び声。
それらが、かつて自分が守ろうとした「日常」だったことを思い出させる。
そして――
その視線の先に、ふと、見覚えのある横顔があった。
フードをかぶった女が、濡れた石畳を静かに歩いていた。
その姿に、胸がひとつ、強く鳴った。
「……君なのか…?」
偶然などと、信じていなかった。
だが、それでもこの出会いに何か意味があるのだと、どこかで思っていた。
銀の翼街の一角、賑わう広場から少し外れた裏通りにぽつんと佇む、小さな古書店。雨脚は徐々に強まり、店先の軒下には足早に駆け込んだ人々が肩を寄せ合っていた。
ノエミーは店先の角を曲がり、突然の雨に足を止める。
マントのフードを深くかぶりながら、店の木製の庇の下に滑り込むと、そこにはすでに一人の男が立っていた。漆黒の外套に身を包み、顔を半ば覆うようにフードを垂らしている。だがその立ち姿、背のライン、静かに濡れた石畳を見つめる視線――。
一瞬、心がざわめいた。
「……偶然だな」
男が口を開いた。柔らかく、しかしどこか張り詰めた声。
ノエミーは思わず眉をひそめ、だが次の瞬間、笑みがこぼれた。
「本当に偶然? こんな裏通りで、雨宿りなんて」
男――アルヴィスは、短く息を吐くように笑った。
「まさか。隠れ家を探していてね。ほら、こういう古びた街角の方が落ち着く。……君も?」
「わたしは……下見よ。たまたま通りかかっただけ」
ノエミーは誤魔化すように肩をすくめる。
沈黙。雨音が二人の間に降り注ぐ。
しばらくの間、言葉は交わされなかった。だがその沈黙は気まずさではなく、むしろ心地よい類のものだった。ふと、ノエミーの方が口を開いた。
「本は、読むの?」
「読むよ。詩集とか、昔の年代記とか……。忘れてしまいたいのに、忘れられない言葉があってね」
「……わかる気がする」
ノエミーの声が、いつになく静かだった。
アルヴィスが彼女の横顔をちらりと見る。濡れた睫毛に隠れたその目は、ふと揺れた光を映していた。
「……今日の君は、少しだけ、違って見える」
「雨のせいかしら」
そう言ってノエミーが笑った瞬間、アルヴィスの心の奥で、何かが小さく鳴った。
やはり――そうなのかもしれない。
この女は、あの夜の仮面の下を知っている。
だがそれを責めるわけでも、告げるわけでもなく、ただこうして並んで立っている。
ノエミーもまた、気づいていた。
この声、この仕草、そして雨を見つめる視線――
あの舞踏会の男、“光の聖史”として現れた男と、どこかで重なっていることに。
それでも、口には出さない。
この一瞬だけは、ただの旅人同士として、雨の下で寄り添っていたかった。
「雨、弱くなってきたわ」
「……そうだね」
どちらからともなく、軒下を離れる。
言葉も、約束も、名乗りも交わさないまま。
それでも心には、確かに何かが残った。
互いの存在が、もう無視できないほど、大きくなりつつあることに――
二人とも、とうに気づいていた。
光の塔、その深部。
誰もいない石造りの回廊に、一人、アルヴィスは立っていた。
濡れた外套を手に、視線を宙に彷徨わせる。
見慣れたはずの石壁が、今夜はやけに冷たく、遠く思えた。
(彼女だった──間違いない)
黒蝶、ニュイ…諜報部による義賊の情報だと確か名はノエミーだったか
…
あの舞踏会の夜、仮面の下で目を合わせたその瞳。
名を名乗らずとも、言葉を交わさずとも、わかってしまう。
それなのに、何をしている?
「……少しでも長く、あの雨の下にいたいと願ってしまった」
己に吐き捨てるような声。
本来ならば、即座にその場を離れるべきだった。
なのに、あの静けさに、あの柔らかい声に、心が囚われた。
「誰よりも遠ざけなければならないはずの存在に……」
彼女の横顔が脳裏に浮かぶ。
濡れた睫毛、ふと緩んだ笑み。
それらが、妙に胸を刺した。
「……惹かれている。愚かにも」
この塔で生きる者が抱いてはならない感情。
それを、彼女は容易く引き出してしまう。
それでも。
この想いが偽りでないと、気づいてしまったのだ。
古びた宿の屋根裏部屋。雨は上がり、瓦を打つ音が遠のいた今、静寂が部屋を包む。
ノエミーは窓辺に腰かけ、濡れた髪を指先でほぐしていた。
見つめる先に広がるのは、薄い霧のかかった銀の翼街の街灯と、まだ濡れた石畳。
──また、出会ってしまった。
偶然だった。けれど、偶然にしては、できすぎている。
なぜだろう。あの人といると、知らぬ間に口元がゆるむ。
ほんの少し、笑っていたことに気づいたとき、自分が自分じゃないような気がした。
(あの声が、雨音と重なって耳に残る……)
本当は、話してはいけない相手だ。
敵であるかもしれない。いや、きっとそうだ。
けれど。
心はもう、どこかで決壊していた。
ほんの短い会話だった。でも、それが心に残る。
「雨のせいかしら」──
自分でも驚くほど、素直な声が出ていた。
ノエミーは両手で顔を覆い、ひとつ、息を吐く。
「……ばかみたい」
けれどその呟きには、どこか甘く、苦い色が混じっていた。
雨が止み、街に再び灯りが戻っても、
心には、ふたりだけの夜がそっと残されていた。
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