5 謎かけ遊び3(母と妾の証言)
「では、残りのお2人については、どのような話だったのですか?」
土筆に尋ねられた時峰は、明衡から聞いた話を出来るだけ正確に思い出しながら語った。
彼女は、普通なら見逃してしまうような些細な事から真実を導き出す。三毛猫姫の課した難題も、きっと解けるだろう。
「3日目の晩、明衡が三毛猫姫から聞いたのは、姫の母親の話でした」
姫の母の話は、最も悲惨で、痛々しく、正直、聞くに堪えないものだったという。
◇ ◇ ◇
姫の母親が夫の暴力の犠牲となったのは、娘を産んで、すぐの頃だった。
きっかけは思い出せないが、頼りにしていた父親(姫の祖父)が亡くなったのが、転機だったのだと思う。
他に親族はいなかったから、夫が毎日のように振るう暴力から逃れる術はなかった。心は次第に麻痺していき、痛みすらも感じなくなった。
胸の中にいつも抱いていたのは、ただ一つの願いーー娘を守るということだけ。
夫はそれなりの禄を貰っていたから、幸い、衣食住だけは不自由しなかった。
夫と離縁して食べていけなくのは困る。自分が盾になることで、娘を守れるならそれで良いと思っていた。
時には守りきれずに夫の暴力が向いてしまうこともあったが、それでも幸い、娘は無事に成長した。
夫も娘を疎んじているわけではない。
宮中で教養ある女房を雇い、師事させるのが流行っていると聞くなり、娘が裳着を済ませた頃、見栄っ張りの夫は、学士の親を持つという侍女を見つけて、連れてきた。残念なら、娘はあまり勉学が好きではないようで、あまり身につかなかったけれど。
ただ、娘の器量は悪くなかった。勿論、母の贔屓目もあるが、童顔で年より幼く見える娘は、十分に可愛らしい。実際、ハッキリと問い質したわけではないが、地方にいる間には、理無い仲となった男もいたようだ。
その男とうまくいけばと願っていたが、残念ながら、夫の任期が終わり、都に戻ってきたときに関係が終わってしまったようだ。
都に戻って、起こった変化は他にもあった。
夫が突然、見知らぬ女を自宅に呼びせた。
夫の妾だ。
女は夫ともに母屋に居座った。おかげで自分と娘は、狭い対屋に移動させられたが、これで自分は解放されるに違いないと、内心喜んだ。
自分の代わりができたのだ。あとは追い出されないよう、空気みたいに気配を消して、息を殺してやり過ごせば良い。
そう期待していたのに……
新たな女を迎えて尚、夫の暴力の矛先は、自分に向けられていた。侍女の話では、妾も被害に遭っていないわけではないようだが、それでも、自分ほどではない。状況は、期待していた程には変化しなかった。
私の何が悪いのか。自問自答を繰り返しながら、ただ日々を耐え抜いていた。
そんな、ある日のことだった。
いつものように娘と並んで寝ていると、腹にかかる強い衝撃で眠りから覚めた。
目を開ければ、酒臭い夫の顔が間近ある。思わず逸らすと、目の据わった夫にパンと頬を打たれた。
たった一手で穏やかな夢から、嫌な現実へと引き込まれる。先ほどの腹への衝撃は、殴られたからなのだと理解した。
それなら、やることは決まっている。
すぐに亀のように身体を丸めて、身を守った。
横で寝ている娘を気遣い、殴られた拍子に声が出ないよう、自らの口を押さえた。
今夜は随分と酔っている。きっと外で嫌なことでもあったのだ。こういう日は、とても長い。
しばらく耐え忍んでいると、やがて自分を殴っていた手が止んだ。
気が済んだのだろう。おもむろに身体を起こした夫は、ふらふらと部屋から出ていく。
身体は左右に揺れている。足は今にも絡まりそうなほどに、ぐにゃぐにゃとしていて心許ない。
どこかで倒れでもするのではないかと、慌てて夫の後を追った。
庭に出ると、夫は池の縁に立ち止まったまま、じっとしていた。
家の大きさの割に立派な池だ。夫がこだわって作った。水面でも眺めているようだ。風流なところもあるものだ。
しかし、その千鳥足で池の側にいるのは危ないだろう。今にも倒れて池に落ちてしまう。
近づいた母は、お戻りになったほうが良いのではないですか、と声をかけようとした。
手を伸ばして、呼び止めようとーーー
その瞬間、何が起こったのか、分からなかった。
気付いたときには、暗い池の中で、娘が叫んでいた。
「母さまが殺したのでは、ありません!」
半身を池の水に浸した娘は、顔を真っ赤にして、駆けつけた侍女に訴えている。
「お母さまは殺していません。ね、お母さま?!」
ハッハッと荒い呼吸を繰り返しながら、娘が言った。池に入って夫の身体を支えていた彼女の身体は、ぐっしょりと濡れている。
目の前には、母の返事を待つ切実な愛娘。
その瞳に、我に返った。
「えぇ……! 娘の言う通りです。私は殺してなどいません」
そうだ。私は夫を手に掛けたりしていない。
はっきりと、そう主張した瞬間、背後から女の鋭い声がした。
「嘘つくのは、およしよ」
いつから、そこにいたのか。振り返ると、少し乱れた襦袢に身を包んだ女が、気だるげに佇んでいた。
* * *
下男が、小太りの身体を脇の下に抱えて池から担ぎ出した。
この家の主人だ。何度も抱かれたのだから、見間違えるはずがない。
女は自分の二の腕を擦った。そこには、男に掴まれてできた痣が消えずに残っている。
だが、少し前に自分の骨を折りそうな程に強く掴んでいた指先は、今は不気味にダラリと垂れていた。男には、すでに生気がない。
女が、この家の主人と知り合ったのは、まったくの偶然だった。
突然降り出した雨に立ち往生していた男を、雨宿りに休ませてやったのをきっかけに、男女の仲となった。どこにでも、ありそうな話だ。
男は羽振りが良く、食べ物や着物をたくさん贈ってくれたが、面倒なことに、泥酔すると殴る癖があった。
それでも、崩れかけの家で、食うに困るような生活をしていた身からしたら、衣食を賄ってくれる男は神様みたいなものだ。多少の痛みが何だというのか。
しばらくの間、男が女の家に通ってきていたが、ある時、男に誘われて彼の家に移ることになった。
男には正妻がいた。女が来たことで、その妻と娘は西の対屋に追いやられたらしい。母屋には、妾である自分と男の二人で住むことになった。
この家に来て初めて、彼の正妻は、自分がされるよりもずっと酷い暴力を受けていることを知った。
興味本位で男に聞いたことがある。何故、あそこまで執拗に妻に手を挙げるのか、と。男はさも当たり前のことのように、「あの女が殴って欲しそうな目で私を見るのだ」と答えた。
身勝手な言い分と思った。きっと彼女の何かが、とんでもなく男の嗜虐性を刺激するのだろう。許しを乞うような怯えた目の女だ。
結局は、男を唆す彼女の方も悪いのだと思い、関わるのは止めた。
その家では、母だけではなく、娘も同じように被害に遭っていた。娘のほうは母のような卑屈さはない。憎々しげに父を見ている目は、明確な憎悪が浮かんでいて、潔い。
彼女のことは心底、気の毒に思っていた。同もしていた。助けてあげることはなかったから、あちらからは、嫌われていただろうけど。
歪ではあるが、少しの我慢で維持される、この快適な生活を、女は失うつもりがなかった。
ある晩のことだ。男が酷く酔って帰宅した。
無言で床に入ってくると、情緒もなにもないままに身体を重ねる。こういう日の男は、とりわけ荒々しくて、苦痛だった。
事が済むと、男は部屋から出ていった。
まだ興奮から覚めていないみたいだから、多分、彼の妻で発散するのだろう。気の毒に。
女は侍女に頼んで、水を張った桶と手拭いを持ってこさせた。出来たばかりの生傷に充てると、冷たい水が染みた。
一通り清拭を終えたところで、ふと、去った男のことが気になった。男の妻は解放されただろうか。あの分では、酷いことになっているかもしれない。
対屋の様子を窺うつもりで、母屋を出た。
すると、庭の池のあたりに重なった人影見えた。
今宵は闇が濃い。顔は判然としない。
姿形からすると、一人はこの家の主人である男で、もう一人は彼の妻だろう。
二人で話でもしているのか。それにしても、男の身体が相当にふらついている。大丈夫だろうか。
もし水の中に落ちでもしたら……ーーー
慌てて履物を探し、庭に出た。刹那、大きな水音が庭に響く。
足を速め、男の妻のところまで駆け寄った。暗い夜に目を凝らせば、いつの間にか来たのか、池の中に娘がいた。そして、彼女の手が、一回り大きな父の身体を掴んでいる。
娘は男の身体を助け出そうとしていた。
引き摺りあげようとしながら、娘が必死の声を上げた。どうやら、駆けつけた侍女に訴えているらしい。
「お母さまは殺していません。ね、お母さま?!」
強い口調に、その光景を呆然と眺めていた母親がハッとした。
「え、えぇ……娘の言う通りです。私は殺してなどいません」
女は僅かな違和感を覚えた。
あの時、確かに男の身体は酩酊して揺れていた。しかし、水に落ちる瞬間はどうだったろう?
前に向かって頭から落ちるのではなく、僅かに身体が反るような姿勢は、やや不自然だった。加えて、このやり取り。もしかして男は、誰かに背を押されのだろうか。
だとしたら、これは事故ではない。
一番怪しいのは………
「嘘つくのは、およしよ」
女が口を挟むと、母娘が同時にこちらを向いた。
瞳が映す感情は違えど、面差しはよく似ている。
二人は、女がここに立っているのに気が付かなかったのだろう。まるで幽霊でも見たみたいに、酷く驚いていた。
草臥れた中年の女には、首筋、頬、目の下、手首……どこもかしこも目を覆いたくなる程の痣がある。さっき息絶えた男などより、こちらのほうが、余程死に近い。
この女が、男を恨まぬはずがない。
「不自然な倒れ方だった。アンタが殺したんだろう? 憎い男を水の中に突き落としたんだ」
脅すように静かに言うと、母親の身体がブルブル震えた。
娘が母を庇おうと、尚も何か言い募っている。しかし、それとは別の声が女を牽制した。
「もしかして、ご主人さまを手に掛けたのは……?」
黙って成り行きを眺めていた侍女だ。
手にした燭台の光がゆらゆらと照っている。その明かりを、わざとらしい程にゆっくりと掲げ、こちらに差し向けた。
芝居じみた動き。その目は、まるで、こちらに向かって「貴女が犯人なのか?」と語りかけているように見えた。
疑いに満ちた視線を向けられ、胸のうちに嫌悪と苛立ちが沸き起こる。そのすべてを吐き出すように、「ハッ」と一笑に付した。
この女にだけは言われたくない。
「……ずっと、見ていただけの癖に」
彼女の痛いところを、あえて抉るつもりで発した言葉に、侍女の肩がビクンと震えた。
この女が好きではなかった。
この女だけは、被害者ではない。この家に暮らす四人のうち、この女だけは違うのだ。
他の女たちが殴られているのを、ただ黙って手当てしていただけの傍観者。自分の主たる娘さえも助けることができなかった。しなかった。
身体を腫らした女たちに、水と手拭いを持ってくるだけだ。
後ろめたさがあるのか、侍女は伏し目がちに視線をそらした。その仕草がかえって癇に障る。
「それとも、何だい? もしかして、今回は……今回ばかりは、私たちを助けるつもりで、アンタがあの男を葬ってくれたとでもいうのかい?」
痛いところを突かれたような表情を浮かべた侍女に、少しだけ胸がすく。
追い打ちをかけるように突き付けた。
「そうか。じゃあ犯人はアンタでいいわよね?」
◇ ◇ ◇
「謎解き遊びの問題は、ここまでです」
時峰は、明衡に聞いた二人分の話を一気に語り終えると、ふぅと一息ついた。
やや息苦しく感じて、襟に手をかける。
気分の良い話ではない。長く話すには、疲れる話題だ。
「……いかがですか?」
御簾の向こうは、しんとしている。
実はこの謎かけ、明衡も答えを知らない。
あくまで、「当ててください」と言われただけで、三毛猫姫は答えを教えてくれなかったという。
だからこそ時峰も、土筆が解いてくれるのを密かに心待ちにしていた。果たして土筆は解にたどり着いたのだろうか。
すると、期待外れの短い呟きが、御簾の向こうから聞こえた。
「……分かりませんね」
なんと! あの土筆姫でも、お手上げとは。
「やはり姫でも、犯人は分かりませんか……」
驚きとともに問い返すと、土筆がすぐに否定した。
「あら、犯人は分かりますよ?」
「しかし、今、分からないと…」
「分からないのは、犯人ではありません。なぜ、三毛猫姫が明衡さまにこんな話をしたのか、ということです」
謎掛け遊びだと言いつつ、物騒な話題をふっかける。しかも、何日にも分けて少しずつ語る。きっと何か意図があるはずなのに、その狙いがよく分からないのだと、土筆は言った。
「犯人は誰なのですか? 誰の証言が間違っていて、どうやって男は殺されたのですか?」
「あら、どうやって殺されたのかは、問題ではありませんよ」
「……どういう、意味ですか?」
訝る時峰に、土筆が改めて謎解き遊びの問いの前提となる規則を確認する。
「問題は誰が殺したか、だったのではないですか? それを四人の証言を聞いて当てるのだけれど、そのうちの二人は間違っている。それが問ならば、手段が分からなくとも、答えは分かります」
時峰が先を促すと、土筆が「皆さんにまつわる事情とそれぞれの抱えている感情については、一旦排しましょう」と言って、今までの四人の証言を整理した。
「証言者は人物は四人。姫と母、姫の侍女、主人の妾です。そして、姫は『母親は無実』だと言い、母も『私は犯人ではない』と主張しました。一方で、侍女は『妾が犯人ではないか』と言外に告げ、妾は自身の見聞きした情景と侍女への煽りから『犯人は母親か侍女だ』と言っています」
実に簡潔に要点をまとめた土筆は、当然のように問い返した。
「それならば、犯人は一人しかいないでしょう?」
滞らせ過ぎました。。。
あと1話で7章は終わります。