3 謎かけ遊び1(姫の証言)
細い肩に襦袢を軽くかけた三毛猫の姫が、床に寝そべった明衡を相手に語り始めた。
「私の父は、とても酷い男でした」
明衡が調度品の類から推察したとおり、三毛猫姫の父は、元を辿れば藤原家に縁付く血筋らしい。分家の、そのまた分家だったから、姫の父の代ではすでに、政治の中枢からは距離を置いていた。
ただ、幸いにして、地方の国司を何度か務めており、暮らしぶりは悪くなかった。一家は食うに困ることはなく、そういう意味では恵まれていたほうだろう。
「生活は比較的安定していましたが、家にとてもは大きな問題がありました。父の……性格の問題です」
「お父上の性格? して、どのような?」
明衡が尋ねると、三毛猫姫の顔に一瞬、苦悶の表情がよぎった。
「ごめん。聞いてはいけなかっかい?」
「いえ。話さないと進まないから……」
姫は傷口をかさぶたで覆い隠すように痛々しく微笑んで、話を続けた。
* * *
姫の父はともかく粗暴な男だった。
外面は決して悪くないのだが、家に帰れば母と姫を相手に暴力を奮う。
殴られたり蹴られたりは日常茶飯事。それが、酒を飲むと特に酷くなる。
前にできた傷跡が治る前に、新たな傷ができるから、母子の身体に生傷や腫れのない日など、1日たりともなかった。
不気味な話だが、母に暴行を加える父は、姫の目に、実に楽しそうに見えた。薄っすらと笑っているかのような表情に、救いようのない小さな地獄に閉じ込められているみたいな気分になる。
家には、姫と母と侍女と下男、そして父の愛人が一緒に暮らしていた。
愛人が、どこで知り会った女なのかは分からない。
もともとは外に会いに行っていたようだが、どういう経緯があったのか、気づいたときには家に住み着いていた。
最も広い母屋で愛人と父が過ごし、姫と母は対屋に押し込められた。
父と離れることで、殴られる頻度が減ったから、姫は嫌ではなかった。
そう広くもない屋敷内に同居していたわりに、姫が愛人と顔を合わせる機会は少なかった。
たまたま父が不在の折に、用があって母屋に行ったら、愛人が物憂げに庭を眺めているのに出会したことがある。
小柄な女だ。年は自分と二つか三つしか変わらぬ。なのに、妙に退廃的な匂いを纏った美人だった。
姫は女を無視するつもりでいた。なのに、女のほうが姫に話しかけてきた。
「あんたたち母子は、揃いも揃って、あの男を殺したくって仕方ないって目をしているね」
思わず、女の方を振り返る。
多分、無意識に睨んでいたのだろう。愛人の白い指がスッと持ち上がる。指先が姫の目玉を差していた。
「ほら、その目。憎しみがべっとり貼り付いてる。全然可愛くないわねぇ」
小馬鹿にしたような言い方だった。
見下すような視線に、女への嫌悪と怒りが沸き上がる。
あんたに、何が分かるのか。
この女も時折、父に殴られているらしいという話は侍女から聞いていた。だが、見えるところに傷や腫れはない。
姫は、そっと自分の襟元に手を添えた。一昨日つけられたばかりの生々しい青痣が、着物の襟に隠しきれずに頭半分のぞいている。その痣がジクンと痛む。
母につけられた跡は、もっと酷い。体中どこもかしこも青紫の痣だらけ。顔にも傷や腫れがあるから、明るいうちは部屋の外には、ほとんど出ない。
傷一つない顔した女を見ていると、心がざわめく。綺麗な顔したアンタに、一体何が分かるのか。
しかし女は、そんな憎悪など歯牙にもかけぬ様子で、続けた。
「食わせてくれる男を殺したって、何にもならないわよー。アタシに言わせりゃ、考えることすら馬鹿げてる。ちょっと我慢して殴られているだけで生きていけいけるだもの。生ぬるい環境でしょう?」
生ぬるい環境? ちょっと我慢して?
頭に血が上る。沸騰しそうなほどに。
何を知っていて、偉そうに……ーーー思わず、女に飛びかかりそうになった。
首をしめ、綺麗な顔に傷をつけてやりたいと思った。
でも、思い留まった。
そんなことをしたら、父と同じだから。怒りに身を任せて、父と同じところに落ちたくはない。
この女は、話が通じないのだ。
これ以上、話をしても意味がない。
懸命に心を落ち着かせると、姫は女の問いかけを無視して、背を向けた。
母屋になど来るんじゃなかったという後悔が、雨嵐のように心中に激しく吹き荒れる。
母屋を出ていこうとする姫の背を、女の声が追いかけてきた。
「素敵な公達がいつか自分を救い出して、生涯大切にしてくれるとでも思っているなら、馬鹿な夢をみるのは止すのね」
思わず立ち止まる。
女の言葉が、鋭い刃みたいに姫の心を抉る。痛みを堪えるために、ぐっと下唇を噛んだ。
ホントに、何を知っていて……
この日を境に、もともと好きではなかった女のことを、ますます嫌いになった。
それから数日経った、ある晩のこと。
隣から響く、低く鈍い音と呻く人の声で目が覚めた。
いつもの音だ、とすぐ分かった。
母と自分が寝ている部屋に、父が来ている。
耳を塞ぎたくなるような、嫌な音。父が母を殴る音。
よりにもよって、父は酔っている。こういう日は、いつもりより酷い。理性がなくなり、歯止めが利かない。
父が母を殴る音と、殴られる母の短い悲鳴を聞きながら、身体を硬くして時が過ぎるのを待った。
どれくらいの時間が経ったのか分からない。
ふいに、父が出ていく音がした。
「旦那さま…」
母も動く気配。父の後について出ていこうとしている。
殴られた後遺症で、足元がふらついているのだろう。母が何度か転ぶような音がした。
心配になった姫は床から抜け出し、母を追った。
庭に出た父はまだ酩酊しているようで、身体を左右に大きく揺らしながら歩いていく。
その後を、同じように頼りない足取りの母がついていく。
父は池の近くまで行った。
決して大きな屋敷ではないが、何の見栄か、池だけは立派で、それなりの深さがあった。
池の前で、呆けたように足を止める父。
その隣に、自らの分を弁えたように半歩下がって寄り添う母。
父の背に手が伸びる。
あっ……ーーーと思った瞬間、父の身体が大きく揺れた。
前のめりに倒れ、そのまま池の中へ。
ドボン、という水音とともに飛沫が上がった。
「母さま!」
父の身体が池の中に沈む。
姫は慌てて池へと片足を踏みいれ、父の着物の裾を掴んだ。大の男の、しかも水を含んだ重い着物は重い。少女の力では、持ち上がらない。
あぁ、もう駄目だ……ーーー
母のほうを見上げた瞬間、隣にもう一人、誰かが立っていた。
「お方様! 姫さま!」
別の方角から、侍女が駆けてきた。燭台を手に携えている。
燭台の明かりで、母の隣の人の顔が浮かび上がる。
『父を殺すなんて、馬鹿げてる』ーーーそう姫に告げた女、父の愛人がそこにいた。
「姫さま、何があったのですか?」
侍女に遅れてやって来た下男が、池に入って、父の身体を引き上げた。
地面に寝かせて容態を確認した下男が、小さく首を振る。
息苦しさに歪めたまま、瞳孔が開いた父の顔に、すでに絶命しているのだと分かった。
侍女が驚愕に目を見開いた。震えながら、母のほうを振り返る。
侍女の唇が何か言いたげに戦慄いた。疑惑は口に出せば、皆の心に落ちて広がる。
咄嗟に叫んだ。
「母さまがやったのでは、ありません!」
だが、嘘ではない。
確かに、母は父の隣にいた。母の手は父の背に伸びていた。
けれど、押してはいなかった。
「母さまは殺してなどいません。無実です!」
三毛猫姫は、皆の前で、きっぱりと言い切った。
* * *
そこまで一気に話した姫は、少し疲れた様子で「いかがでしたか?」と、明衡に尋ねた。
「いかが……と言われても、それだけでは」
ここまでの話から分かることは、姫の証言によると、『姫の母は犯人ではない』ということくらいだ。
「お父上は酩酊していたのだろう? なれば、事故ではないのか? そうでないなら、隣にいた愛人が怪しい気がするが……これだけで、君の謎かけ遊びの答えを見つけろというのは無理だろう?」
明衡が素直な感想を口にすると、三毛猫姫が憂いを帯びた笑顔を見せた。
「勿論、話はこれで全てではありません。まだ、続きがあるのです」
「なるほど。して、その続きとは?」
明衡は先を促したが、姫は断るように小さく首を左右に振った。
「今日は、ここまでにいたしましょう」
「今日は? どういう意味だい?」
「続きは、また明日」
それから、いたずら好きな子猫のように微笑んだ。
「だって、一気に聞いてしまってはつまらないでしょう? だから、どうか明日もここに来てくださいな」
一瞬、呆気にとられた明衡は、三毛猫姫のいじらしい策略に気づいて破顔した。
「そうか。それでは、明日も聞きに来なくてはならないな」
「はい。そうしてくださいませ」
三毛猫姫は「約束ですよ」と甘えるように言ってから、「疲れました」と小さな欠伸を一つした。細い身体をしならせ、明衡の腕の中にするりと収まった。
やや色素の薄い、細い髪を、ゆっくりと梳く。
安心したのか、姫はスヤスヤと寝息を立てて眠り始めた。
明衡は姫を撫でながら、先ほどの話を頭の中で反芻していた。
残虐な男が池に落ちて死んでしまったことは、どうでも良い。自業自得、因果応報、すべて自らの行いの悪さ故の出来事だ。
許せないのは、その男が妻と娘に暴力を奮っていたことだ。
明衡は、か弱い女子どもに手を挙げるような輩が大嫌いだった。
話の流れを遮らぬように、表情にこそ出さなかったが、とんでもなく不快だった。
正直、仮に男の妻が突き落としていたのだとしても、明衡は妻の肩を持つだろう。
かつて明衡が知り合った女の中にも、似たような境遇の娘はいた。よくある話なのだろう。
明衡は暴力的な父親の元から助け出してやると言ったが、そこまで迷惑をかけたくないと、女に断固として拒否された。
いっそ自分が父を屠ってやろうかとも思ったが、妻子だけが残されるのも困るだろうと、思いとどまったものだ。
「まったく。酷い男はどこにでもいるものだな……」
ポツリと呟くと、身を任せて眠る姫の頭を優しく撫でた。
今回、土筆と時峰が出てこず、でした。。。(次回は出てきます)