6 真相・表
※人によっては不快感を覚える内容があります。ご注意ください※
今日、明日中に第6章 最終話『真相・裏』をアップ予定なので、纏めて読みたい方はお待ちください(ただし、どちらもやや長い……)
土筆は戸の掛け金を外したまま、じっと暗い部屋の中で待っていた。
今夜で三日目だ。そろそろ、頃合いだろうか。
昼間に寝ているから辛くはないが、いい加減に現れてくれると良いのだけれどーーそんなことを願いながら待っていると、カタンと扉の方から音がした。
「……来ましたか?」
タマが声を落として尋ねる。
「多分ね」
土筆が頷くと、「まさか、本当に……」と、信じられないような顔で呟いた。
「でも、今宵はまだ、時峰さまがみえていませんよ。間もなくかとは思いますが…」
タマの表情が不安に曇る。土筆も心細いが、今更、計画を変更することは出来ない。
「……仕方がないわ。このまま私たちだけで、耐えましょう」
土筆が言うが早いか、登華殿の戸がするりと開いた。
土筆とタマが身構える。外の月明かりが差し込むとともに、人影が現れた。
その人影が驚くほど早く、土筆たちの方へと向かってくる。
「止まりなさい!」
タマが土筆を守るように立ちはだる。だが、次の瞬間、吹っ飛ばされたタマの身体は登華殿を囲む御格子に当たった。ガシャンと大きな音が響く。
タマを案ずる暇もなく、土筆も体当たりを受けた。気づけば、その人影は土筆の上に馬乗りになっている。自身の全体重をかけ、土筆の首を両手で絞めにかかっていた。
土筆は懸命に抵抗しながら、自分を押さえつける者の姿を確認する。
粗末な着物に、腰程の長さの髪を後で一つに束ねた女。その格好は、内裏で働く下女だ。
「待っ……て、貴女……」
女に喋りかけようと息を吸った瞬間、女の指が土筆の首にめり込んだ。息が苦しい。頭がぼんやりとしてくる。
懸命に藻搔いていると、不意に呼吸が楽になった。
「お待たせして、申し訳ありません。公務で、少し到着が遅れてしまいました」
土筆の危機に、自らの遅刻を悔いるような顔をした時峰が、女の身体を背後から羽交い締めにしていた。
「時峰さま!」
時峰は、そのままズルズルと力づくで女を引き離した。土筆の身体から重みがなくなり、ホッと一息ついて、起き上がる。
女は時峰の腕の中で暴れていた。
麻で織った着物に、振り乱した髪。その格好は下女だが、よく見れば、顔つきには明らかに品がある。
「霧立の尚侍」
土筆が名を呼ぶと、女の目がクワッと見開いて、つり上がった。
「貴女は、こんなにも近くにいたのね」
「まさか、本当に尚侍が下女の格好をしていただなんて……」
時峰が呆れたように言った。
「その麻の着物には見覚えがありますね。先日の夜に、私がこの辺りの庭で見たのも貴女ですはないですか?」
土筆のところに忍んで来た時峰が、人の気配を感じて咄嗟に隠れたときのことだ。
女は時峰の声が耳に入っていないのか、土筆の目を真っ直ぐに見て叫んだ。
「御上から手を引きなさいッ!!」
何もかもかなぐり捨てるほどに必死の形相で、怒りに身を任せて繰り返す。
「御上の寵愛を、あんたが……偽の尚侍のあんたが受けるなんて許せない! 今すぐ御上から手を引きなさい!」
さっきよりも激しく暴れ出した尚侍を、時峰ががっちりと掴みなすと、土筆が答えるよりも先に口を開いた。まるで、とんでもなく不本意なことを耳にしたように、不愉快そうに。
「違う。この方は御上の寵愛を受けているのではなく……」
しかし、その瞬間、時峰が自分の左肩を押さえて、苦悶の表情を浮かべた。
尚侍を抑え込む時峰の腕が緩む。時峰の背後に男が立っていた。
「尚侍に手を出すな」
土筆とそう変わらない小柄な身体つきの割には、男の声は低い。
手には小刀が握られている。その刀で時峰の肩を刺したのだろう。
腕の拘束が外れたのを好機と見た尚侍は、助けてくれた男には目もくれず、再び土筆に飛びかかってきた。
土筆は、先ほどのように馬乗りされるのを防ごうと、身体を丸めて頭を袖で隠した。
「土筆姫!!」
時峰の叫び声。グッと身体に力を入れる。覚悟した。
しかし、土筆は無傷だった。誰かに体当たりされるような衝撃はない。
恐る恐る目を開けると、目の前に鞘に収まった太刀が見えた。尚侍と土筆の間を分断するようにスッと伸びている。
その太刀を握っている人物の姿を認め、驚きに目を瞠る。時峰よりも大きな体躯に、立派な口髭。
霧立の尚侍と土筆が同時に声を上げた。
「御上ッ!」
「御上、どうしてこちらに?」
尚侍の声は恐怖に上ずっていたが、土筆は純粋な疑問だった。
「どうしても何も……私は近頃、登華殿に通っていることになっているのだろう?」
御上が土筆の質問に悠々と答える。
「それは、そうですが……」
「姫が流した嘘が、どのような決着をみるのか興味深くて、つい来てしまったが……どうやら、良い時に顔を出したようだな」
確かに、想定外の助っ人だ。しかも、これ以上ない折に。
「……嘘?」
御上の言葉を聞いていた尚侍が、呆然と呟いた。
「左様。あれは嘘だ」
御上が尚侍に、冷たく言い放つ。
「そなたが聞いたであろう噂ーー近頃、私が尚侍に心変わりしたというのも、身重の牡丹を放置して登華殿で毎夜過ごしているというのも、すべてはそなたを誘き出すための嘘。ここにいる土筆姫が考えた計略だ」
御上の言う通りだ。
土筆は、内裏の一部の人間の耳に入るように、意図的に嘘を流した。
御上は近頃、牡丹に飽いたようだ。寵妃のことを放り出して、『尚侍』に会うために足繁く登華殿に通っているらしい、と。
「そんな……いえ、でも確かに、御上は最近、牡丹さまの元に通われていないと…」
「牡丹も協力者だ。決まっているだろう? 私は、他の者の目に触れないところに、雲隠れしていただけだ」
「牡丹さまも……協力者?」
尚侍の明らかな狼狽に、土筆は自分の仮説が正しかったのだと確信した。
「やはり貴女は、牡丹のところにいかせた侍女を通じて、牡丹や御上の動向を把握していたのね?」
牡丹が内裏に出仕したときに、霧立の尚侍が譲ってくれたという侍女は、尚侍の内通者だ。
ただ、彼女たちには悪意など全くない。尚侍の指示で、誠心誠意、牡丹に仕えていた。
そして時折、新しい女御が宮中に馴染めているだろうかと案じる心優しい元の主に、牡丹の様子を報告していたにすぎない。
害意はないのだから、時とともに牡丹が信頼するのも道理だ。
こうして、尚侍は、牡丹の女房から定期的に情報を得ていた。逆に言うと、牡丹の周囲の侍女にさえ信じさせれば、尚侍の耳には噂が届く。
そして彼女がその噂を知れば、ここに乗り込んでくるのではないか、と土筆は踏んだのだ。
霧立の尚侍は、『偽の尚侍』が御上の寵愛を受けているという状況を、許せるはずがないのだから。
「尚侍、そなたは吉野に行ったのではないのか?」
御上に問われ、尚侍が固まった。
「それに、子はどうした? なぜ、髪まで切り、こんなところにいる?」
貴族の女性にとって髪は、命ともいえるものだ。それをバッサリと切るなんて、気が触れたと思われてもおかしくない。
「子は…いません。ここにいるのは、内裏を離れたくなかったからです」
「子はいない?」
御上があからさまに怪訝な顔をした。
「どういうことだ? そなたは確かに、子ができたと…私の子だと言ったではないか?」
すると尚侍が目に涙をためた。怒りとも悲しみともつかぬ声で悲壮に叫んだ。
「いないのです! 子は、いないのですよ。初めっから、いなかったのですって」
「初めから? しかし、そなたの様子は確かに、子ができた時のようではなかったか」
尚侍がふるふると首を振った。
「全ては……全ては、私の思い込みだと言われました」
月のモノが止まった。気分が悪くなった。身に覚えがあった。そういう症状や内診を経て、医師から「子はできたのだろう」と宣告された。
だけど御上に告げたら、追求され、吉野に送り返されそうになった。尚侍は、吉野になど行きたくない。どうしようかと困り果てたところに、懐妊の兆候が次々と消えていったそうだ。
「医師に言われました。私の体調が悪かっただけだろう、と。子が欲しいと強く願う女が時々陥る病なのだ、と」
強く願うあまり、心身が乱れて子が出来たような体調不良が起こる。だが、それはあくまで気の所為なのだ。本当に子ができたわけではないらしい。
「だから御上との子など……いないのです」
声が悲痛を伴って、小さくなる。肩が震える。ポタポタと床に涙が落ちた。
「子が欲しいと強く願う?……それ程までに私との子を?」
意外そうな顔で問う男に、尚侍は泣いて訴える。
「だって子が出来れば、私も女御に少しは近づけるでしょう……? 御上も寵愛する、牡丹さまに……」
そう言ったきり、あとは黙って涙を流している。尚侍のすすり泣きが登華殿に悲しく響いていた。
「尚侍。私の名は土筆。聞いたことがありませんか? 花房家の次女、牡丹の妹の土筆です」
土筆が静かに話しかけると、尚侍の自棄な顔がこちらを振り向いた。
「女御の妹?……あの土筆姫のことですか?」
問い返す表情からすると、名くらいは知っているようだ。
「えぇ、そうです。そして私は、貴女がこのような振る舞いをし、御上を混乱させた理由に気づいていますよ」
尚侍の苦しい心のうちに。真意に。追い詰められた現実に。そして、彼女が守りたかったものに、土筆は気づいた。
太刀と小刀で、互いに牽制しあっている時峰と小柄な男を一瞥してから、諭すように告げる。
「貴女と、時峰さまを傷つけた、あの下男のしたことは、すでにかなりの大事です。仮に、これまでの貴女の尚侍としての功績を差しいたとしても」
土筆は、尚侍と御上を交互に見た。彼女に、ハッキリと土筆の意図を理解させるために。
「この場で、私の口から貴女の想いを露わにすることも可能です。ですが、もし貴女が勝手に語られたくないと思うなら、貴女自身で決着をつけてください」
その言葉に、尚侍が息を呑んだ。土筆の顔をじっと見つめる。
やがて、何かを諦めたように項垂れた。
ゆっくりと御上を振り返る。
「女御が懐妊したと聞いたとき、私は……私にも子が出来ればよい、と思いました。いえ、子が出来てほしい、と強く望みました。そして、子が出来るなら御上以外の子であってはならない、と…」
御上は不可解そうに眉を寄せた。
「しかし、私は、そなたとは…」
「えぇ、ただの一度も関係を持ってはいません。でも……それでも、私の子は、御上の子以外であってはならなかったのです。御上以外の者の子など、受け入れられない」
尚侍は、本当の相手について語らない。問われたくないのだろう。多分、問われても、答えるつもりもない。
なぜなら、尚侍の気持ちは、その男には微塵もないのだから。
「そなた……本当に、それ程までに私のことを? 私との子が欲しいから、私を想うあまり、問われた時に私の子だと語ったのか?」
御上は驚いている。だが、いじらしく俯く尚侍を、強く責める気はないようだ。
「御上。教えてください」
下唇を強く結んで俯いていた尚侍が、ゆっくりと顔を上げた。
「貴女が心を寄せているのは……誰よりも大切にしたいと願っているのは、誰ですか?」
その瞳は切実で、はっきりと真実を告げて欲しいと心の底から強く訴えかけている。
御上は、その意を受け止めたように、尚侍から顔を逸らさなかった。
「私が愛おしいと思うのは、誰よりも大切に守りたいと思っているのは、藤壺の女御、権大納言家の娘の牡丹、ただ一人である」
「本当に? 他の誰がでてきても、惑わされることはないのですか? 他の女が御上の心を捉える日は来ないのですか?」
御上は、ゆっくりと頷いた。
「此度の謀を土筆姫から聞いた時、牡丹は何といったと思う?」
あの時のことは、土筆もよく覚えている。
御上が尚侍の元に通っているという噂を流させて欲しいなど、普通は許せるものではない。たとえ、真実ではなくても、誰よりも御上から寵愛されているという彼女の、沽券に関わる。
けれど、牡丹はそんなこと、全く気にしなかった。
「彼女は『御上が必要だと思うなら、そうしてください。私は、御上と自分の妹を信じていますから』と言った。少しの動揺も見せずに、堂々と言ってのけたのだ」
流石の牡丹だった。あまりの潔さに、かえって御上と土筆が牡丹のことを案じたが、「噂は所詮、噂でしょう。真実ではないのですから」と一笑に付した。
権大納言、花房資親の娘は、そんじょそこらの女ではないのだ。
「牡丹は他の誰とも違う。それは、ただの容姿の美しさだけではない。皆はあの麗しき姿に惹きつけられるだろう。しかし、牡丹の魅力はそういうものではないのだ。彼女は、他に比する者などいない女なのだ」
「そう……ですか」
尚侍が力なく言う。落胆とも、解放からの安堵とも取れるような表情だった。
「私の前で、この先も女御一人を守ると誓えますか?」
「誓える」
上に立つ者特有の、真っ直ぐとした張りのある声が、寸部の揺らぎもなく告げる。
それを聞いた尚侍が、きっちりと座り直す。両手をついて頭を下げた。
「此度は、大変ご迷惑をおかけいたしました。御上にも、牡丹さまも、それから……土筆姫も」
そう言って上げた顔は、何か憑き物が剥がれ落ちたようだ。尚侍の中で今、何かが終わった。
尚侍は時峰の方を向き直る。時峰と対峙していた男が小刀を懐にしまった。
「すべてのことは、私の責任。父も私の下男……あの者も関係ありません。私ただ一人を処断してくださいませ」
御上か鞘におさまったままの刀を下ろした。「近衛中将」と、時峰を呼ぶ。
「そなたの肩の傷はいかほどか?」
「かすり傷程度にございます」
時峰が即答すると、御上は、「そうか、ならば良い」と頷いた。
「尚侍。そなたを処断すれば、父である霧立の宮が悲しむ。霧立の宮は、幼い頃、私に漢詩や和歌を手解きしてくれた大切な従兄弟だ」
懐かしさを滲ませた声が、優しく言った。
「霧立の宮を悲しませるのは、私にとって本意ではない。そなたの懐妊の噂も、今日のことも、幸いにして多くの者には知られてはおらぬ。今すぐに、吉野に帰れば咎めはせぬ」
それから、厳しい声に戻って断じた。
「ただし、そなたには二度と内裏の敷地は踏ませられぬ」
御上の言葉に、尚侍が床にするほどに深く、頭を下げた。
「私は吉野に戻って、出家いたします」
「それがよかろう」
実際、髪をこれだけ切ってしまったのだ。そうするしかなかろう。
「近衛中将。尚侍を吉野まで送っていけ」
時峰が恭しく頭を下げる。
尚侍は立ち上がる瞬間、土筆の方を見た。
視線が交わる。全て気づいていると告げた土筆に、何かを委ねるような余韻を残し、尚侍は登華殿を後にした。
◇ ◇ ◇
翌日の昼過ぎ、時峰から、尚侍を吉野まで無事に送り届けたという報告が届いた。
時峰の肩の傷は、本当にかすり傷程度だった。刺されそうになった瞬間、身を翻して、うまく避けたらしい。
時峰さまには、随分と助けられた。
あの夜の事件から遡ること数日前、土筆は時峰に手紙を書いていた。内裏で刺殺された侵入者に関する調べの進捗状況。そして、土筆が考えた、ある作戦について告げるために。
土筆は、時峰への手紙で、「これより、御上が熱心に登華殿に通っているという噂を流すこと」、「噂を聞いた尚侍が数日以内に現れる可能性が高いので、登華殿の夜の警固をお願いしたいこと」を伝えた。
この手紙の、特に前半部分に、時峰は相当狼狽したのだとか。御上が尚侍のところに通うとは、どういうことかと、すぐに返事が来た。
勿論、時峰に頼むと同時に、御上や牡丹にも計画を話し、許可を得た。近衛中将が内裏に潜むことについても、併せて認めてもらった。
噂があれば十分なので、御上には登華殿に実際に通う必要はないと告げた。しばらく御上には、牡丹の元に通ったり、夜に清涼殿に呼んだりしないようにだけ頼んだのだ。
そして、後から噂を否定できるように、適当に証言できる人と一緒にいてもらうはずだった。
だから、あの時、御上が登華殿に乗り込んできたのは、完全に計画外の出来事だった。
土筆たちとしては、そのおかげで助かったけれど。
「それにしても、尚侍が、あれほど御上に対して秘めた想いを抱いていたとは思いませんでした」
タマがため息交じりに呟いた。
御上が登華殿に通っているという噂を流せば、尚侍が食いつくであろうことは分かっていた。彼女は、『偽尚侍』が御上の寵愛を得ていることは我慢ならないはずだから。
「恋とは、ままならぬものですね。御上を想いながら他の男と身を結び、しかし、それでも尚、心は御上以外を受け入れられぬとは」
激しく、そして鬱屈した気持ちは、自分には理解しがたいものだと、タマが言った。
「……そうね。忍ぶ恋は、ままならぬものだったのでしょう」
土筆がタマを宥めるように答えた、ちょうどその時。牡丹が淡路を連れて、登華殿にやって来た。