4 弘徽殿のちい姫
翌日、土筆は一人で登華殿に残っていた。
タマは情報収集と称して、藤壺に出掛けている。
外から見えないように下ろした御簾の内側で、土筆は尚侍の残した唐櫃の中を開けた。心の中で、霧立の尚侍に謝ってから、中の衣裳を取り出して検める。
唐櫃の中には着物が数着、きちんと畳んで仕舞われていた。
それを上から順に取り出していく。
大きな唐櫃は、半分程のところまで着物で埋まっていた。
他に着物を仕舞うような箱は、部屋の中にはなさそうだ。いくらか里下がりの際にいくらか持っていったにしても、これだけ立派な部屋を使う者にしては、衣裳が少ないような気がする。
時峰が聞いてきた話によると、尚侍は贈り物として、全く同じ着物を二つ、左近大夫に要求したという。
だが見たところ、同じ柄で二着あるものは、なさそうだ。気に入って作らせたものなら、里下がりの時に一着だけ持っていったのかもしれない。
着物の色合いは、くすんだ黄色や臙脂色など、落ち着いた地味なものが半分ほど。
残りの半分は、若い女性らしい濃紅色や山吹色の美しい着物だった。そちらは模様も華やかだ。左近大夫に贈ってもらったのは、色や模様を細かく指定していたというから、多分こちらなのだろう。
「それにしても、なんで、こんなに両極端なのかしら……」
人にはある程度、好みというものがあるだろう。
土筆だって、然程、着飾ることにこだわりはないほうだが、それでもだいたい似通ったような着物が多い。雰囲気の違う着物は、せいぜい二、三着だろうか。
だけど、この唐櫃には、極端に系統の違う二種類の着物が明確に混在している。まるで、この部屋に二人の人間が存在していたかのように。
唐櫃の中を見れば、少しは尚侍のことが分かるかもしれないと思ったのだけれど……ーー
「かえって謎が深まったわね」
呟いて、唐櫃の蓋を閉めようとしたら、何かがコロコロと転がってきた。
蓋を閉めてから、拾ってみれば、それは白く真新しい蹴鞠だった。
換気と明り取りのために少しだけ上げていた御簾の隙間を通って、外から入ってきたらしい。
後宮の庭なんぞで蹴鞠をやっていたのは、一体、誰かしら。
蹴鞠を持って、御簾の外に出ると、そこには振り分け髪の女の子が立っていた。
昨日、弘徽殿の辺りで見た一行に混じっていた子どもだ。年の頃は、7つか8つだろうか。可愛らしい顔立ちに、くるりとした目が特徴的だ。
「貴女は、弘徽殿の女御さまの……ちい姫ね?」
女の子がコクリと頷いた。
「この蹴鞠は、貴女のものかしら?」
蹴鞠は男性のやる遊戯だ。別に女の子がやってはいけないわけではないが、もし蹴鞠を好んでいるならば、かなり活発な部類に入るだろう。
目の前の少女は、健康的ではあるが、そこまで腕白で男勝りな様子でもない。
「叔父様がくださったの。私が産まれる前に。叔父様、てっきり男の子が産まれるものだと思い込んでいたみたいで……」
叔父というと、時峰の親友の小野明衡だろうか。豪快で朗らかで、とても人誑しな方だという噂だ。
思い込んで用意した、というあたりが、話に聞く彼の姿と重なって、微笑ましく感じる。
「とても良い叔父様なのね」
土筆は、蹴鞠を返そうと差し出した。だが、女の子は手を出さない。土筆の顔をじっと見つめたまま、固まっている。
どうしたのだろうかと、改めて弘徽殿のちい姫の姿を眺めた。
顔は、改めて言う必要もなく可愛らしい。振り分け髪を左右に垂らし、赤い袿に、襟に差し色で濃い緑を入れている。足元の草履は、黒に赤い鼻緒で、一見して分かるほどに上等なものだ。
土筆は、ちい姫と自分の手の内の汚れや解れのない美しい鞠を見比べた。
あぁ、そういうことかと、合点がいく。
「私に何か用事かしら?」
女の子が肩がビクンと跳ねた。やはり当たりだ。
土筆は、もう一度、ちい姫に蹴鞠を差し出す。
「その草履で、蹴鞠はできないと思うわ」
蹴鞠をするには沓がいる。競技には鴨沓と呼ばれる専用の沓を使う。遊びなら普通の沓でもおかしくないだろうが、女の子用の高級な草履では無理だろう。
そして、この真新しい蹴鞠。蹴られた形跡も、土についた汚れもない。
遊んでいた蹴鞠が偶然飛び込んで来たわけじゃない。仕舞ってあった真新しい蹴鞠を持ってきて、わざとここに投げ込んだのだ。
おそらく、土筆と話をするために。土筆を外に呼ぶために。
ちい姫は、自分の足元を見て、ハッと目を見張った。
どうやら、当たりらしい。
ちい姫が、躊躇いがちに口を開いた。
「どうして、藤壺の女御の……牡丹さまの妹姫が、登華殿にいるのですか?」
今度は、土筆が驚かされる番だ。
ちい姫が重ねて尋ねた。
「ここは、霧立の尚侍の部屋でしょう? 尚侍は、どうされたのですか?」
「……あら、どうして、ここに牡丹さまの妹がいるだなんて思ったのかしら?」
土筆のことを、牡丹の妹だと知っていて尋ねているのか。それとも、他の何かを耳にしたのか。
ちい姫が何を見聞きして、そう判断したのかを見極めるために、土筆が回答を避けて質問を返すと、ちい姫は怪訝な表情で首を傾げた。
「え? だって、貴女は牡丹さまの妹姫、土筆様ですよね?」
思った以上に、正確に理解している。
土筆は誤魔化すのをやめて、質問を変えた。
「どうして、私が牡丹の妹だと分かったの?」
「顔が似ているもの」
あら、珍しいこと。土筆は未だかつて、牡丹と似ていると言われたことはない。
牡丹は華やかな美人だが、土筆は十人並みの地味顔だ。
「……似ているかしら?」
「えぇ、似ているわ。権大納言様に」
その一言に、土筆は思わず苦笑いした。
土筆が似ているのは、どうやら姉の牡丹でなく、父の方らしい。
「権大納言の花房資親さまは、牡丹さまのお父様でしょう? それなら、その権大納言さまに似ている貴女は、牡丹さまの妹だわ」
そうでないと辻褄が合わないと言う少女の声は、確信に満ちていた。
確かに、ちい姫の指摘どおり、牡丹の容姿は母似だ。
土筆は……母にはあまり似ていないのだから、強いていえば、父似ということになるのだろう。そこまで似ているとも、自分では思っていないが。
「なるほど。姫の言いたいことは分かりました。ちなみに、どうして私を土筆姫だと? 花房家には、妹は二人いますよ?」
「末姫の菫さまは、あまり外に出ない方だと聞いたわ。それに土筆さまは、とても優れた洞察力の持ち主だとも」
ちい姫は、土筆の手にある蹴鞠を見てから、土筆の顔へと視線を移す。
「ちょっと前から、こちらの部屋にいらっしゃいますよね? ここは霧立の尚侍のお部屋はずなのに……他の女房や母さまたちも、権大納言さまのお顔は一度ならず見たことがあるはずなのに、貴女がこの部屋にいることについて、誰も何も言わないのです」
それが心底不可解なのだというような表情を浮かべた。
観察眼が鋭いだけでなく、大人の話をよく聞いている。しかも、ちゃんと得た情報を使って現実を考察している。
「聡いのね」
土筆が素直に、そう言うと、ちい姫は戸惑うような顔をした。
「……何か変なことを言ったかしら?」
「あれこれ詮索したり、推察したりするのは品がないと、いつも母さまから叱られているのです」
ちい姫が、照れたように言った。土筆に褒められたことに驚いているらしい。
途端に、ちい姫がとても可愛く思えてきた。
「こちらにいらっしゃい。一緒にお話しましょう」
土筆が誘うと、ちい姫は簀子に上がって、ちょこんと座った。
「あの……霧立の尚侍は、どうされているの?」
ちい姫の顔には心配の色が浮かんでいた。
蹴鞠を投げ込んで土筆に接触しようとしたのは、単なる好奇心ではなく、きっと彼女なりに尚侍の身を案じていたのだろう。
「尚侍は少し体調が悪くて、伏せってみえるのよ。ご実家の侍女たちも、皆、里に残っているし、侍女が誰もいなくては不便だから、その間のお手伝いとして、私が来たの」
位を考えれば、皇家の尚侍の侍女に、権大納言家の娘ならば問題ない。
ましてや自分は、世間から変わり者だと認知されている。見目麗しい姉とは違い、嫁ぐ先がないから働き口を求めたのだと捉えてくれるだろう。
弘徽殿のちい姫も、すぐに「そうなのね」と納得した。
「牡丹さまと尚侍は、とても仲がいいものね。尚侍のお身体は心配だけど……牡丹さまが心を尽くしてくださるなら安心ね」
ちい姫の言い方が、少し引っかかった。
牡丹が出仕してすぐの頃、尚侍に親切にしてもらったとは聞いている。恩は、あるだろう。
だが、それを仲が良かったと表現するべきだろうか。
「お姉様と霧立の尚侍は、そんなにも親しかったの? その……お姉様からも、あまり詳しくは聞いていないの」
どうしてそう思ったのかと聞けば、姫は「うーん」と首を捻った。
「牡丹様が、尚侍のお部屋にいらっしゃるのを、何度か見たのです」
女御が尚侍の部屋を訪れる? 何か用事があったのかしら。しかし、『何度か』という表現は気にかかる。
「それは、いつ頃ですか?」
「さぁ、いつだったかしら? 夏頃だったと思うわ。尚侍は日中でも、あまり御格子を大きく開けるのがお好きではないようで、少しだけ開いていることがよくあるのよ。それで、その隙間から、牡丹さまが中にいらっしゃるのが見えたの」
ちい姫は、登華殿から少し離れた辺りを指差して、「ちょうど、私が、あの辺りで遊んでいたときよ」と言った。
登華殿と弘徽殿の中間くらいだ。
「お二人は、すごく仲が良さそうでしたよ。きっと女房もなく、お二人きりでお過ごしだったのではないかしら」
「えっ? お二人だけで、ですか?」
「えぇ、内緒話をしているようだったもの」
「内緒話? 姉さまと尚侍が……?」
これまでの牡丹の口ぶりでは、そのような親しい間柄だという様子はなかった。
牡丹が何か隠しているのだろうか。でも、何をだろう。そして、なぜ。それは牡丹の部屋で感じた違和感と関係があることだろうか。
思考を巡らせていると、ちい姫が、「そうだわ。これを見て」と言って、懐から小さな巾着袋を取り出した。
「何かしら?」
ちい姫が巾着の紐を緩めて口を開ける。袋を軽く振ると、小さな手のひらにコロンと黒い丸薬のようなものが転がった。
「練香?」
「多分、牡丹さまのものだと思うの」
ちい姫が、袋の匂いをクンと嗅いだ。
「袋に移った香りが、牡丹様の衣服に焚きしめた香の香りとよく似ているわ」
差し出された袋を受け取り、土筆も匂いを嗅いだ。そう言われると、薄っすらと立ち上る残り香は、牡丹の香に似ている気がする。
練香のほうも嗅いでみたが、作られてから時間が経っているのか、あまり匂いが分からない。焚いてみれば、匂うだろうか。
「弘徽殿から登華殿に行く渡殿で拾ったの」
それも、登華殿に近いあたりだという。
御上のいる清涼殿から、牡丹の部屋である藤壺へと向かう渡殿と、弘徽殿へ向かう渡殿は別の道だ。
登華殿は、弘徽殿のさらに先にあり、藤壺とは繋がっていない。
藤壺に部屋を持つ牡丹が、用もなく通るところではない。
これを登華殿の前に落としたこと自体が、牡丹が尚侍の部屋へと出入りしている証拠だと、ちい姫は言った。
「そうとも限らないわ。牡丹が調合した練香を、尚侍にお裾分けしただけかも……いえ、やっぱり違うわね」
調合した香を女房や親しい者に分けること自体はある。だが、それだと結局、牡丹と尚侍が香を分け合う程に親しいという事になる。
それなら、牡丹から練香を貰った別の誰かが落としたとか、あるいは、そもそも牡丹の練香だというのが、ちい姫の勘違いなのかも。
しかし、絶対に牡丹の物だと言い張るちい姫に押し切られて、結局、土筆が巾着を預かり、牡丹に返すこととなった。
弘徽殿のちい姫が帰ったあと、しばらく本などを読んで過ごしていると、やがて、藤壺に行っていたタマが帰ってきた。
今日は、姉の牡丹は清涼殿に行っていて不在だったようだ。
「代わりに牡丹さまの女房の淡路がいたので、いろいろと聞いてきました」
淡路は権大納言家から牡丹について来た女房で、タマより少し先輩にあたる。タマとは年が近く、気が合うようで、牡丹がまだ花房家にいる頃から仲が良かった。
「その顔は、何か新しいことでも聞いてきたのね?」
土筆が尋ねると、タマがスッと側に寄ってきた。部屋には二人の他に誰もいないけれど、周囲を憚るように声を落とした。
「霧立の尚侍ですが、どうも、進んで吉野に下がられたわけではないようです」
「……どういうこと?」
「御上から、吉野のお父上のところに行くように言われた後も、尚侍はここに残りたいと随分と抵抗されたそうですよ。結局は、荷物をまとめる猶予もなく、身一つに近いような状態で侍女と下男一人を連れて、半ば強制的に送り出されたのだとか……」
てっきり、御上から、吉野にいる父のもとに行くことを勧められ、本人もそれを了承したのだと思っていた。
多少のいざこざはあっても、そこまで揉めていたとは。
「淡路は、それをどこで聞いたの?」
「清涼殿で、御上が牡丹さまに話をしているのを聞いたようです」
この場合は、盗み聞きたというのが正しいのだろう。
牡丹は、土筆に対して、そのような説明はしなかった。尚侍の体面を慮ったのだろう。
牡丹がいない時に、仲の良いタマにだから淡路教えてくれたのだ。女房たちの情報網、侮りがたしである。
それが今回のことと何か関係があるかは分からないけれど。
それに、牡丹が黙っていたことにも、何か意味があるのかだろうか。
土筆は先程、弘徽殿のちい姫から預かった巾着袋を懐から取り出した。
牡丹の部屋で感じた違和感の正体も、まだ分からない。
手がかりの断片は少しずつ集まってきている。けれど、どれも取り留めがなく、一つの筋に繋がらない。
結局、その日は考え事をしたり、尚侍の残して行った数冊の本を読んだりしていうるうちに過ぎていった。
新たな事件が起こったのは、翌朝だった。
あと2話か3話か、区切りどころに迷っています。