2 土筆の役目
尚侍の居室に戻ろうと、藤壺の間の間を出たところで、ちょうど向かいの渡殿を渡っていく女たちの一行が、土筆の目に入った。
先頭を行くのは上等な藤色の小袿に、上品な身のこなしの中年女性。後ろを歩く女房たちに交じって、裳着前の年端のゆかぬ女の子が一人、ちょこちょことついていく。
「あの方は?」
土筆が尋ねると、見知った牡丹の女房が几帳の向こうから顔を出した。
土筆の視線の方向の集団に気づくと「あぁ、弘徽殿の女御さまですよ」と教えてくれた。
「弘徽殿の女御さま? あの方が……」
遠目に見る姿は、牡丹のような迫力のある美しさとは違う。どちらかというと落ち着いた雰囲気の優しそうな人で、どことなく母を思い出す。
確か、御上よりも8歳年上だという話だ。落ち着いた雰囲気は、そのせいだろうか。
弘徽殿の女御は、御上がまだ東宮だった時に嫁いで来て、一子を産んでいる。きっと、一人混じっている振り分け髪の女の子が、娘なのだろう。
女御は小野明衡の同母の姉だったはず。明衡は藤原時峰の親友だから、ひょっとしたら、時峰とも交流があるのかもしれない。
「弘徽殿の女御さまは、どのような方なの?」
「見た目の通りのお優しい方ですよ。後に嫁いできた牡丹様にも寛容で、特に姫さまが懐妊してからは何かと気にかけてくださいます」
今は、この二人の他に後宮に女御はいない。御上は牡丹に首ったけだし、弘徽殿の女御がそのような状態なら、ドロドロとした寵姫争いはなさそうで、妹としては安心する。
牡丹の女房に改めて礼と暇を告げて、藤壺を出た。
土筆がいま滞在しているのは、もともと件の尚侍が使っていた部屋だ。
尚侍は、帝の従兄弟である霧立の宮の一人娘だ。それ故に、彼女は「霧立の尚侍」とも呼ばれている。
霧立の尚侍は、弘徽殿の北奥にある登花殿を賜っていた。御上のいる清涼殿からは少し遠いが、皇族の血を引く彼女に相応しい、広い部屋を与えたのだろう。
長い渡殿を通って部屋に着くと、土筆は中で待っていたタマに声をかけた。
「ただいま戻ったわ。変わりはないかしら?」
「……えぇ、特に問題ありません」
タマの声が疲れている。
「あら、どこか具合でも悪いの?」
「私の体調は、すこぶる良好ですよ。お陰様で」
眉間に皺を寄せて、どことなく怨みがましい目を土筆に向けた。
「留守を頼んで悪かったわ。でも、私が自由に動くためには、どうしても貴女に残って、この部屋の中に尚侍がいるフリをしてもらわないと……」
「分かってますよ」
主人の無茶な提案には慣れている、とばかりに嘆く。
「えぇ、分かっていますとも。分かっていますが、本当に、どうしてこんな変なことを……」
「尚侍として参内せよ」という命を内々に受けた土筆が、父経由で頼まれたのは、「土筆に尚侍の身代わりをして欲しい」というものだった。
尚侍のフリをして、会いに来る男たちの中から懐妊した彼女の相手の男を割り出せということだ。
だが、いくら御簾に隠れて姿が見えないからといったって、知りもしない尚侍の声や手蹟は真似られない。会いに来た者たちに、尚侍として応対など、できるわけがない。
加えて、後宮の女房たちの多くは尚侍の姿を知っている。
御簾の中に尚侍がいるのに、一向に姿を現さなかったら、これまたおかしな話だろう。
尚侍の身代わりを、という策は、会いに来る男を割り出すという点で、一見、理にかなっているように見えるが、その実、とんでもなく杜撰な作戦だ。
気軽に言ってくれるが、一体誰がそんな実現性に乏しい作戦を考えたのやら。頭が痛くなる。
この指令の肝は、つまるところ第一に『尚侍のお腹の子の父親を探ること』、そして『尚侍が今も宮中にいるようにみせること』だろう。
尚侍がいるようにみせるのは、後々の彼女の立場を考えて、事を大きくしないようにという配慮なのかもしれない。
それならばと、土筆は『尚侍は病に伏せっている』ことにした。タマと土筆は、尚侍の看護のために新たに雇入れられた女房である。
会いに来た人間には、「尚侍は体調が思わしくないので」と、代理で応対するのだ。これなら、誰が来たのかも分かるし、何なら直接見ることもできる。
今、土筆とタマは、二人がかりで、いもしない尚侍が御簾の向こうにいるかのように演じている。
だが、せっかく二人もいるのに、揃ってここに籠もって待っていては、時間が勿体ない。
幸い、すぐ近くには姉がいる。
少しでも情報収集に励もうと、土筆はタマ一人を残して、姉の部屋に出掛けていたのだ。
「私がお姉様の部屋に行っている間、ここに動きがあったのね?」
タマの怨みがましい顔を察して、尋ねたら、案の定だ。
「尚侍宛の文をいただきました」
タマが蛇腹に折りたたまれた手紙を土筆に差し出した。
「お相手は?」
「左近大夫様、だそうです」
タマによると、手紙は従者が持ってきたという。本人は来ていない。
左近大夫の位階は五位にあたるはずだから、皇家出身の尚侍は、やや高望みだろう。もちろん高貴な女性に想いを寄せることが悪いわけではないけれど。
「体調が思わしくないとお伝えしたのに、従者からは、尚侍はどのような容態なのかと、いろいろと尋ねられて大変だったのですよ。尚侍のことなど、私は、ほとんど存じませんし……必死で取り繕ったのですから」
「きっと、主人に報告せねばならぬのでしょう。そのうち本人が見舞いにみえるかもしれないわね」
タマが「えぇ?!」と、露骨に嫌そうな顔をした。
「次もうまく誤魔化せるかは、分かりませんよ」
土筆は「そうねぇ」と適当な相槌を打って、タマから受け取った文を表裏と返して眺めた。
「中をご覧になりますか?」
興味深げに尋ねる様子からすると、タマも読んではいないのだろう。
他人に宛てた手紙を読むのは気が引ける。だが、読まないと、土筆に課せられた役目を果たせないのだから、致し方ない。
左近大夫と霧立の尚侍に心の中で謝罪してから、土筆は文を開いた。
「左近大夫様は尚侍と深い仲だったのですか?」
「……何とも判断できないわね」
思ったより大したことは書いていない。ただ体調を気遣うような言葉が並んでいるだけだ。
尚侍の懐妊を知っているとも、知らぬとも読み取れる。
従者が体調を事細かに聞いてきたというのが少し気になるが……
「さて、この文への返事はどうしようかしら?」
もし何度か文をやり取りしている仲ならば、当然、筆跡も文体の癖も知っているだろう。土筆が返事を書くわけにはいくまい。
「お加減が悪く、筆を握れないとお伝えしてあるので、急がなくても大丈夫かと思います。あるいは、土筆様が代筆されても」
「あら、機転が利いているわね」
「そりゃあ、長年土筆さまに仕えていますから、これくらいは」
タマが、やや誇らしげに胸を張った。
そう言われると、まるで土筆が頻繁に厄介ごとを起こしているみたいだ。御簾の内側に引きこもっていただけなのに。
「それと、もう一つ。左近大夫さまのことを知るなら、適任がいらっしゃいますよ。お人柄でも、何でも教えてくれる方が……」
土筆は、「あぁ」と嘆息した。
「タマ、冴えているわね」
「お褒めに預かりまして、光栄です」
土筆は文机から、紙と筆を取った。すぐに文をしたため、タマに託す。
「これを、急ぎで」
「はい。藤原時峰さまですね?」
「えぇ。お願い」
左近大夫は、近衛府において少将に次ぐ職。 つまり近衛中将たる時峰に聞くのが早いというわけだ。
「お任せください」
受け取ったタマは、そのまま文と土筆の顔を見比べる。
「どうしたの?」
「ところで姫さま、ちゃんと甘い言葉は盛り込みましたか?」
「な……何を言っているの?!」
「ダメですよ。愛しい人に送る文なのですから、睦言を添えなくては。要件だけでは、時峰さまも……」
「貴女が気にすることでは、ありません!」
土筆と時峰が、恋仲となったのを知っているのは、タマだけだ。
せっかく後宮にあがるのだから、あわよくば帝か東宮あたりの后にねじ込みたいと思っている父親の目をかいくぐり、出仕する前に、互いの気持ちを確認した。
だが、土筆はまだ、こういった時にどう反応していいのか分からない。
「周りに秘めた恋ですが、後宮ならば旦那様の目もありません。密やかな逢瀬だって可能かもしれませんよ。まさに恋物語のような展開なのですから、せめて楽しまないと……」
「余計なことはいいの! ちゃんと渡してちょうだいね」
土筆は気恥ずかしさから、ピシャリと話を打ち切った。タマは軽く肩をすくめて、「はぁい」と、手紙を懐に忍ばせた。
どう渡りをつけたのか、彼女はいつでも時峰の従者と連絡がとれるようにしてあるらしい。
それから、思い出したように、部屋をぐるりと眺め渡して尋ねた。
「ところで、土筆さま。この部屋をお使いの尚侍というのは、どのような方だったのですか? ご自身の女房や侍女は、ほとんどおかれていないと仰っていたけど、お部屋は、とても整頓されていますよね」
尚侍が使っていたという居室は、大部分の私物が置いたままになっていた。調度品はもちろん、唐櫃には着物などもいくつか残されている。
ただ、手紙や日記などの私的なものは一切なかった。
御上に子ができたことを告げてから数日後に、父である霧立宮の元に里下がりをしたと聞いたけれど、残されたものをみる限り、またここに戻ってくるつもりのようにみえる。
子が生まれるまで、あと半年はあるだろうに。産まれた赤子を抱えて戻るつもりなのだろうか。
尚侍は女御と違い、御上の政務の補佐をする女官だ。御上が我が子として遇するつもりならば、尚侍であっても、女御と同じように過ごすことは可能だろう。けれど、御上の言動からすると、そういうことを尚侍に望んでいるようには思えない。
尚侍は一体、何を考えているのか。彼女の行動は、何とも腑に落ちない。
「大半の荷物が残っていると、なんだか部屋の主が突然いなくなったみたいで……どことなく居心地が悪いですね」
タマの口から本音が小さく漏れた。
土筆は、女御である姉から聞いた話をタマに伝えた。
「お姉さまが仰るには、霧立の尚侍さまは黙々としているけれど仕事ぶりは優秀で、心配りのきいた方だそうよ。お姉さまが女御として入内したとき、勝手の分からない内裏では大変だろうからと、自分の侍女を二人、姉さまに寄越したというの」
「えっ?!でも、それって……」
親切だが、怪しくもある。
もし尚侍が帝との関係を望んでいたとしたら、自分の腹心の侍女を恋敵に送り込んだーーーつまりは、密偵としている可能性があるからだ。
「もちろん、お姉さまも、その侍女たちに簡単に心を許したわけではないわ」
初めのうちは注意深く警戒していたが、万事仕事は早く、余計なことを言ったり、やったりすることはない。牡丹のことを監視しているような素振りも、みられない。
「侍女たちは、姉さまに誠実に尽くそうとしてくれていると感じたそうよ」
姉の人を見る目は確かだ。自分の側に侍るものが、表面を繕っているのかくらいは見抜くだろう。
「牡丹さまがそうおっしゃるのなら、そうなのでしょうね」
権大納言家にいるときから牡丹をみてきたタマも、それには、すんなりと同意した。
「それなら、霧立の尚侍さまは、牡丹さまに対する敵意や嫉妬はない、ということですか? でも、霧立の尚侍さまは、お腹の子を御上の子だと言ったんですよね……?」
タマは、「混乱してきました」とこめかみに手を当て、渋い顔をする。
「そのようなことをおっしゃれば、御上も牡丹さまのことも困らせるだけですのに、霧立の尚侍さまは、なぜそのような嘘をついたのでしょう?」
「……嘘とは断定できないんじゃないかしら?」
「えっ?!」
思わず声を上げたタマが慌てて、自分の口元を手のひらで塞いだ。
ここは、いつもの奥まった権大納言邸の自室とは違う。どこで誰に聞かれているか分からない。
「あの……それって……」
誰もいない室内だが、タマが憚るように声を落とした。やや物騒な話だから。
「だって私は、御上の子ではないと、御上に言われたに過ぎないもの。尚侍の言い分は分からないわ」
土筆も負けず劣らず、声を潜めた。
「土筆さまは、御上の仰ることを疑っているのですか?」
タマの口調が「不敬だ」と咎めるように、やや鋭さを増した。土筆は、小さく首を振る。
「ありとあらゆる可能性を排除しない、ということだけよ」
疑っているわけではない。
だけど、それを絶対に間違いのない真実だ、と思い込まないようにしているだけ。すべてに対して警戒しているだけだ。
そもそも、今回の依頼は発端からして、おかしいのだから。
納得したのか、していないのか、タマは心中複雑そうな顔で、ため息をついた。
「尚侍は今頃、どんな気持ちでお過ごしなのでしょうねぇ……」
尚侍の父の霧立の宮さまは、出家して、吉野に住まいを移している。だから尚侍がいるのも吉野だ。
懐妊の報告を受けた御上の勧めで、そこに移り、今も、そのまま吉野に留まっている。だが、対外的には数日前に後宮に戻ってきたことになっていた。
戻ったはいいが、旅路の疲れがたたって倒れ込み、急遽手配されたのが、土筆とタマという設定だ。
「今もずっと、吉野にいらっしゃるのですよね?」
「姉さまが言うには、ね」
「その言い様では、まるで牡丹さまのことまで疑っているような……」
土筆と牡丹は、性格は正反対だが、仲の良い姉妹だった。だから、タマが土筆の言い振りに戸惑うような表情をするのも分かる。けれどーー
「姉さまの部屋に行った時にね、妙な違和感があったの」
「違和感、ですか? その……どのような?」
タマの質問に、土筆は首を傾げた。
頭の中で、違和感の正体を掴もうと、藤壺の景色を思い出す。
牡丹の好みは、よく知っている。
華やかな彼女を引き立てる、はっきりとした色合いや大柄な図案の意匠。着物も調度品も、古風なものより、流行りものを好む。
藤壺には、権大納言家から持ってきたもの、御上から献上されたのであろうものがあったが、どちらも牡丹の好み通りで、意外なものはなかった。
にも関わらず、何かが引っかかったのだ。
「……分からないわ。上手く説明できない」
一生懸命考えてみても、その違和感の正体が掴めない。
「仕方ありませんね」
タマの口調が、さっきまでの怪訝なものから、幾分軽くなった。
「今度は私が牡丹さまのお部屋に伺ってみます。違う目でみれば、土筆さまのおっしゃる違和感について、何か分かるかもしれませんし」
先程、残されたのが、余程嫌だったのだろう。
留守をお願いしますね、と土筆に念を押し、出かける気、満々だ。
どちらにせよ、時峰に手紙を届けに行ってもらわなければならないのだから、構わないけれど。
「貴女、外に出たいのね?」
「普段からあまり出歩かない主に仕えているせいか、私は、動いているほうが性に合っているようでございます」
タマがにこりと微笑んだ。
「藤壺にも、見知った牡丹さまの女房がおります。私にならば、ざっくばらんに話せることもあるでしょうから、しっかりと情報収集に励んでまいります」
土筆が部屋に戻ったときの沈んだ声が嘘のように、いつもの活発な女房ぶりを取り戻したタマは、張り切って土筆に請け負った。
「どうぞ、土筆さまは、いつものように御簾の内側で、ごゆるりとお待ち下さいませ」
次回、時峰です。