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御簾の向こうの事件帖  作者: 里見りんか
第6章 身代わり尚侍
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1 尚侍と春の女御

本業の忙しさと『桜子さん』の書籍化作業のため、しばらく放置されていましたが、続きを書きます。とりあえず、第6章の5〜6話ほど。


※引き続き、R15です。また本章の内容は、人によっては不愉快と感じる可能性がありますので、ご注意ください※


 (ひぐらし)鳴く、午後。

 京の内裏の奥深く。清涼殿(せいりょうでん)の昼御座に、この殿閣の主たる男の声が、低く、厳かに響きわたった。


「それは……誰の子だ?」


 男にとっては本来、身に纏った彼特有の高貴な気配だけで他者を萎縮させることなど容易い。

 だが今日は、それとはまた違った重苦しさが漂っている。


 目の前には、長い黒髪を垂らした、見慣れた女が1人。揃えた両手を前につき、頭を下げた姿勢のままで座っていた。


 人払いをしたから、部屋は二人きりだ。


 男が、喉の奥の重い塊を吐き出すように、女を呼んだ。


尚侍(ないしのかみ)


 呼ばれた女の重ねた指先が、ピクリと震えた。


(おもて)をあげよ」


 ゆっくり持ち上った顔は、ひどく青白い。カッと見開いた瞳は、追い詰められているようでもあるし、腹を括っているようにもみえる。


「お前が子を身籠っているというのは、間違いないのか?」


 尚侍が、結んだ下唇をキュッと噛んだ。

 ここ数日で窶れた顔は、先立って、別の女御が懐妊した時と、よく似ている。


「もう一度問う。それは、誰の子なのだ?」


 尚侍は一度、素早い瞬きをした。

 真っ直ぐな黒い瞳が、こちらを見つめている。決意の宿った顔が、ゆっくりと告げた。


「御上の子でございます」

「そんなわけ、なかろう!」


 つい強い否定の言葉が出た。だが、それも仕方がないこと。

 この嘘は、とんでもない。ありもしない帝の子を語るなど、重罪だ。

 政治的な諍いすら生みかねない。

 ずっと側に仕えてきた尚侍は、その程度のことが分からぬ女性ではないはずだ。

 にも関わらず、何故、斯様な嘘をついているのか。


 何か深い理由があるのかもしれないーーーそれまでの優秀な彼女の仕事ぶりを思えば、感情任せに詰問するのは憚られる。

 平静を取り戻すための深い溜息をついてから、改めて静かに語りかけた。


「お前の父上である霧立宮(きりたちのみや)から文をもらい、私は正直、腰を抜かす思いであった」


 尚侍の父である霧立宮は、帝にとっては腹違いだが従兄弟にあたる。その人から手紙が届いたのは昨夜の事だ。そこには、尚侍が子を授かったと書かれていた。それ自体にも驚きはしたが、問題はそこではない。

 霧立宮は、尚侍の腹にいるのが、私の子だと信じているのだ。

 そんなことなど、あるはずないのに。


「霧立宮は、そなたのことを大層案じている。そなたとて、父にそのような心労をかけるのは本意ではないだろう? 私は、そなたを責めるつもりはないのだ。たとえ相手が誰であったとしても」


 ここまで言わぬのだ。きっと外聞を憚る相手なのだろう。

 いつの間にそのような仲の相手ができたのか分からないが、きっと明かすことのできない相手の代わりに、自分の名を挙げたのだ。


 力になってやりたいとは思うが、相手を明かしてくれないと、それすらも出来ない。

 案ずるの気持ちが通じないのか、それとも事実に向き合う覚悟がないのか、尚侍はきつく唇を結んだまま俯いている。


「……どうしても話す気は、ないのか?」


 重苦しい沈黙が場を支配していた。

 その沈黙に小さく抗うように、尚侍が同じ言葉を繰り返した。


「御上の、子でございます」


 頑なな態度に、心の中に諦めが広がっていく。

 これ以上は、問い詰める術が浮かばない。


「……分かった。もう下がりなさい」


 溜息とともに、手を払った。

 よく分かった。これ以上追求しても無駄だということが。どうあっても真実を答えはしないだろう。


 尚侍は無言のまま深々と頭を下げると、静かに立ち上がった。


 飾り気はない。人目を惹く華やかさも。

 ただ、皇族の血筋ゆえの生まれ持った品がある。堅実な仕事ぶりにも一目置いていた。信頼していた。

 女性に対する愛情ではなくとも、仕事上の補佐役として、尚侍を好ましく評価していた。


 それなのにーーー


 大きな嘘だけを置いたまま、黙って去ろうとする尚侍に、腹が立った。

 それで、思わず呟いた。


「お前のことは、牡丹にも劣らぬ才の持ち主だと、買っていたのだがな」


 尚侍が出しかけた足をピタリと止めた。

 長い髪を重々しく揺らして、ゆっくりとこちらを振り返った。


 その顔を見た瞬間、思わず息を飲んだ。


 カッと見開いた瞳。血走った白目。黒目は真ん中に寄っている。

 唇は、今にも震えだしそうなところを無理やり抑え込んでいるかのように、ギュッと噛み締めている。


 その顔には、確かに激情が浮かんでいた。


 それは、なんの感情か。

 怒り……が、近いような気がするが、少し違う。哀しみだろうか? それとも、蔑み?


 しかし、その答えを得る間もなく、尚侍は再び、前を向いて去っていった。

 珍しく、荒々しく。衣擦れの音はやがて遠ざかり、そして聞こえなくなる。


 いつの間にか、また庭の(ひぐらし)が鳴いている。


 たった1人の清涼殿にけたたましくなる蝉の声が、どこか不気味に感じられた。



◇  ◇  ◇


 それから、およそ二月(ふたつき)後のことーーー


 清涼殿に程近い部屋、飛香舎(ひぎょうしゃ)

 その飛香舎の中庭には、藤が植わっている。この部屋の主となる女御はよく、部屋の名に因んで、「藤壺の女御」と呼ばれるのだが……


「近頃、その部屋には『藤だけでなく、見事な牡丹が咲いている』と評判だそうですね」


 土筆が言うと、この部屋の女主人は満更でもない様子で、(あで)やかに微笑んだ。


 見る者全てを魅了するかのような笑顔は、まさしく権大納言 花房資親(はなぶさ すけちか)の長女、牡丹姫のもの。

 つまり、土筆の姉である。


「まったく。お姉さまは、どこにいても変わらないわねぇ」


 皆を惹きつける華やかな容姿に、思わず見惚れるほどの優美な所作。

 誰もが憧れる完璧な貴婦人ぶりは、後宮にあっても健在だ。


 昨今、最も御上の寵愛を受けている女御だといわれている。


 御上があまりに熱心に藤壺にいらっしゃるから、日ごと涼しさを増す季節だというのに、その部屋だけは、まるで変わらぬ春ーーー常春のようだと皆が噂しているのだとか。


 土筆の言葉に、牡丹は「あら?」と、小首を傾げた。


「嫌だわ。どこにいても変わらないのは、むしろ貴女の方でしょう?」


 小さく膨らんだ腹を優しく撫でながら「ねぇ?」と、その中にいる小さな命に話しかけた。牡丹は、今、御上の子を宿している。


「まさか貴女の評判が御上にまで知れ渡っているだなんて、思ってもみなかったわ」


「お姉さま、そのことですが……」


 土筆が言い返そうとしたとき、女房が来訪者の旨を告げた。


 すぐに皆がスッと頭を下げる。


 上機嫌にやってきたのは、この後宮において、唯一、どこにでも顔を出すことを許されている男。

 その人は、政のときにみせる威厳に満ちた顔とは違う、寵姫を愛おしむ目を牡丹に向けた。


「やぁ。私の女御様のご機嫌はいかがかな?」

「御上!」


 夫の出現に、牡丹の顔が一層輝く。


「どうなさったのですか?」

「ちょうど時間が空いてね。愛しい貴女の顔を見に来たのだよ」


 牡丹が嬉しそうに、「ふふふ」と微笑んだ。

 その笑顔に、土筆は心底、安堵していた。


 姉の入内は、父の政治的に策略によるものだと心配していた。けれど、この様子を見るに、二人はとても上手くいっているようだ。


 御上は、一言二言、牡丹の体調を気遣うような言葉をかけると、隣の土筆に視線を移した。


「ところで、そこの女房よ。尚侍は息災かな?」


 土筆は、両手を揃えて軽く頭を下げ、応じる。


「はい。お陰様で、大変()()()()()()()()おります」


 その表現に、御上は一瞬、虚を突かれたような顔をしたが、すぐに「ははは」と愉快げに笑った。


「元気に伏せって、か。それはいい」


 それはいいーーーだなんて、気楽なことを言ってくださる。でも、だからと言って、こちらが不満を漏らすことができる立場ではない。


「おかしなことを頼んで、すまぬな。それで首尾はどうだ?」

「申し訳ありません。まだ何とも……」


 御上は短く「そうか」と答えた。たいして残念そうにはみえない。


「まぁ、いい。貴女は、ここに来たばかりだ。慌てることはない。引き続き、よろしく頼む」


 土筆が気負い過ぎぬようにと掛けてくれた言葉だろう。だが、さほど時間に余裕はないのだ。


 御上は牡丹と少し話してから、部屋を出ていった。


 御上の姿が見えなくなると、牡丹がしみじみ土筆に言った。


「それにしても、貴女も随分とおかしなことに巻き込まれたものねぇ」


 おかしなことに巻き込まれたーーーまさに、その通りなのだ。

 御上が現れる前、土筆は、そのことについて、牡丹と話そうとしていた。


「そもそも、お姉さまが私を巻き込んだのではないのですか?」


 土筆が後宮に上がったのは、つい2日前の事。ある役目のために、秘密裏に招かれた。


 それまで、土筆はずっと花房家の奥でひっそりと暮らしていた。世間には変わり者だと認識されていたし、姉と違って交友関係だって広くない。

 ましてや御上など、存在を認知していたのかさえも怪しいのだから、誰か口添えした者がいると考えるのは自然なことだ。


 御上と近しく、土筆に詳しい者。それが牡丹ではないかと考えたのだ。


 しかし、姉はきっぱりと首を横に振った。


「まさか! 私じゃないわ。私だって、突然、貴女が来ると聞いて驚いたもの」


 姉は必要とあらば、嘘をつくことのできる人だ。周囲の人間は、大輪の花のような笑顔にコロリとごまかされるだろう。だが、実の妹の土筆に、その嘘は通用しない。


 今の牡丹は嘘を言っていない。


「……それでは一体、誰が私をここに呼んだのでしょう? 誰が御上に私のことを告げ、そして名指しで呼ばれるに至ったのでしょう?」


 牡丹でない候補者が、思い浮かばない。

 だが、確かに、その人は土筆のことを知っているのだ。少なくとも、ここ最近、土筆が関わった事件のことを。


 そうでなければ、見ず知らずの姫に、こんなにおかしなお願いをするはずがない。


「よりにもよって、懐妊した尚侍のお腹の子の父親を見つけてほしい、それも騒ぎを大きくしないように、内々に下がらせた()()()()()()()()ーーーだなんて厄介な条件付きの依頼のために」


 そう。それこそが、()()()()()()()()()()()にも関わらず、土筆が尚侍として後宮に招聘されるに至った真相だった。



久しぶりに書くので、時系列などが辻褄合わなくなっていたらゴメンナサイ。今は初秋です。


長らく放置していたにも関わらず、ブクマをいただき、ありがとうございます。基本的に遅筆なので、申し訳ありません。


ブクマやリアクションは、執筆のモチベーションなので、とても嬉しいです。

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