007
さっきまでケージの中にうずくまっていた緑鬼の姿はそこになかった。
あったのは、一抱えほどの土塊だけだった。
残された土塊こそが迷宮から現れる怪物を擬獣と呼ぶ理由。
擬獣は見た目や質感、鼓動にいたるまでのありとあらゆる点が生物に類似しているが根本的に生物ではない。
生きている限りは生物に近いが、首をはねられたり火に焼かれたりと生物学的に死んだ状態になると、生気を失い土塊へとなり果てる。
どんなに精巧に生物を真似ていても、決して生きているわけではない。
故に彼らを、生を擬えた獣。擬獣と呼ぶ。
「これは俺が自宅に送って置くから、茶竹は車に戻って初城を追う準備をしといてくれるか」
「了解しました」
指示に従い、この場を後にする茶竹を尻目に、綴は転移の準備に取り掛かった。
土塊の入ったケージをリビングの中央に
[仮説構築:初城宅リビング中央八〇立法センチメートルの空間を座標1、綴宅リビング卓上八〇立法センチメートルの空間を座標2と定義する]
ケージがある目の前の空間と自宅の何もない空間を思い浮かべ世界に浸透させる。
今ある現実空間を定義をしているだけなので、矛盾が生じはしない。
続いて、本来の定義とは場所を入れ替えて定義を仮設し直す。
[仮説再構築:初城宅リビング中央八〇立法センチメートルの空間を座標2、綴宅リビング卓上八〇立法センチメートルの空間を座標1と定義する]
最初に仮説を構築させたときよりも多く魔力を消費して新たな定義を浸透させる。
新たな定義が世界に受け入れられたことで、理論上の矛盾が現実として現れる。
綴の前にあったケージは最初からそこに存在しなかったかのように姿を消した。
◇◆◇
社用車まで戻った茶竹は車内から組合から持ってきた装備を取り出していた。
収納スペースには|携帯口糧{レーション}や救急医療品などが入ったショルダーバックのほかにプロテクターと通信機器が二人分積み込まれていた。
茶竹はそれらを取り出して自分の分を身に着け始める。
数ある擬獣の中でも、部屋にいた緑鬼のように武術に自信のある一般人でも倒せるものは少数だった。
多くの擬獣は一般人が束になっても太刀打ち出来ないほど強大なものがほとんど。
そんな擬獣を相手取らなければならない可能性がある以上、身を守るものは身に着けるのは当然だった。
コートの内ポケットに愛用の小銃がしっかりと入ることを確認した茶竹は、自身の右耳にワイヤレスのイヤホンを装着した。
長丁場になることを見越して今のうちに食事を摂っておこうと茶竹がショルダーバックからゼリータイプのレーションを取り出したタイミングで、綴がアパートから出てくるのが見えた。
「無事に送れましたか?」
茶竹は、綴の装備を手渡しながら首尾を確かめる。
「ああ、問題ない」
渡された装備を身に着け始める綴の隣で茶竹は車のトランクが閉まったことを確認して、自身の端末を起動させた。
ホイールがアイコンのアプリケーションを起動させ、車の鍵についたボタンを身に着けている端末に向かって押すことで端末と車を連携させた。
車のドアをロックした後、端末で車に自動追跡を指示する。
茶竹は誰も乗ってない車にエンジンがかかるのを確認して、用の済んだ鍵をショルダーバックへと仕舞い込んだ。
「特等は初城と擬獣はどこに逃げたと思いますか?」
何気なく茶竹は、隣でレーションを飲んでいる綴に彼らの行方について聞いてみた。
「擬獣連れている以上、人目に付かない場所を選ぶだろうから。……下水道とかか?」
「驚きました。正解です」
驚嘆した様子で答える茶竹を綴はジトっとした目で見ていた。
「知ってて試したのか?」
茶竹は目を逸らして黙秘する。
初城の痕跡がアパート付近のマンホールへと続くのを茶竹の眼は捉えていた。
「ちょっと性格悪くないか?」
「ちょっと特等の推理力を試そうかなって、そろそろ行きましょうか」
釈然としない様子の綴を置いて、茶竹はマンホールへ歩き出した。