005
開けたドアから中に入る。
「鍵は閉めといてくれ」
あとから入って来た茶竹は綴の指示に従って鍵を閉めた。
手狭な玄関には、季節外れのサンダルがあるだけでほかの靴は置かれていなかった。
玄関を上がったところにスリッパが置かれていたが、綴達は一切気にせず土足のまま上がり込んだ。
廊下の左側には二つ、正面には一つドアがあった。
綴は構造的にリビングに通じると思われる正面のドアを開けて中に入っていった。
リビングに踏み入れていった綴の眉はすぐに顰められた。
リビングに初城の姿はなく、代わりに荒れたかのような様子だった。
綴は魔力の痕跡を感じ取ろうと第六感を研ぎ澄ました。
魔力を感知するには五感とは全く別の、第六感と呼ばれる新たな感覚が必要だった。
魔導が広く普及する前は、第六感とは霊感や直勘などの漠然とした物事を感じ取る超能力的な感覚を意味する言葉だった。
それが神代に入って魔導が普及して以降、魔力を感知することが出来る感覚のことを第六感と呼ぶようになった。
というのも、これまで霊感や直観だと思われていたものは魔力を感知することで生じていた勘違いであったことが研究によって証明されたからだ。
神代以前から魔力というものは人類の身近にあり、それを感じ取ることすら出来ていた。
だが、それを明確に体現することが出来なかったために人類だけでは、魔導を発見することは叶わなかったのだ。
人類が魔力や魔導を発見できなかったもう一つの要因として、魔力は流れがある所で生成されるにもかかわらず流れに弱く、自然界の中では仮に生成されてもすぐに霧散してしまうことも挙げられる。
逆に、部屋の中など閉鎖された空間だと魔力は残留することが出来る。
これによって神代以前は、事故物件や曰く付きの建物の中では第六感が強い者は霊感として魔力を感じ取っていたのだ。
魔導士であれば、魔導を練習していく過程で自然と第六感は磨かれる。
当然、綴の第六感も使えたのだが今回は特に魔力を感じ取れなかった。
諦めて寝室を探すもやはりそこにも初城の姿はなかった。
寝室はいたって清潔で、リビングが雑然としているのに寝室が片付けられているのはかえって異様だった。
「キィィ」
リビングからかすかに金切り声が聞こえた。
声の発生源は、リビングの隅に置かれた犬用のケージからだった。
ケージの中には、緑の肌をした人型の生物がうずくまっていた。
外にいる綴に気づいた緑鬼が緩慢な動きで顔を持ち上げた。豚のような鼻に黄ばんだ歯、額から小さく生えた一本の角、持ち上げられたその醜悪な顔は疲労の色が濃く表れていた。
「特等、これは」
いつの間にか綴のそばに来ていた茶竹が信じられないように聞いてくる。
「緑鬼だな」
ケージの中の醜悪な生物に見覚えがあった。
この生物こそ擬獣。迷宮に現れ、人類に仇なす存在。
迷宮が現れたばかりの頃は、まだ研究が進んでおらず擬獣はまとめて扱われていたが、時が経ち次第にその生態が解明されるにつれその種ごろに分類されるようになった。
緑鬼も生態が解明されている一種だ。
問題はなぜこの緑鬼がここにいるかだ、「白の国」にも当然迷宮がある。
だが、迷宮は魔導統合組合の管理下にあり人の出入りは勿論、擬獣の流出に関しても退魔部が厳しく取り締まっていた。
本来なら、緑鬼がここに居る可能性はゼロだ。
「転移させたか、迷宮から連れてきたのか、どっちかだな」
綴が「転移」と呼ぶのは、対象を物理的距離に関係なく一瞬で移動させる空間魔法の一種だ。
「どちらもありえません」
茶竹がありえないと断言するには理由があった。
まず、迷宮内に転移することは出来ないし、迷宮内のものを転移させることも無理なのだ。
何故できないのか、それはいまだに解明されておらず迷宮七不思議のひとつに数えられている。
次に、迷宮から直接連れてくることだが、これもまた不可能だった。
先に述べたように迷宮は魔導統合組合が徹底的に取り締まっていた。
確かに、神代が始まって以来、何度か迷宮外に擬獣が出たことはある。
しかし、最後に出たのは二十年も前のこと。
この二十年間ただの一度も出ていない以上、緑鬼を迷宮から連れてくることは考えづらかった。
両方の方法ともに不可能に近いが、確かに緑鬼がここにいる以上、何かしらの方法で連れてきたことには違いない。
「こいつは俺が調べておくから、お前は先に初城の痕跡を見つけてくれ」
「分かりました」
寝室へと向かった茶竹を尻目に、綴は大型犬用と思われる頑丈な造りのケージを調べる。
ケージの中は無数のひっかき傷のほかに特に何もなかった。
おそらく、食べ物も飲み物も何も与えられなかったためにここまで弱っているのだろう。
擬獣は迷宮内にいるときは食事や水を必要としないのだが、迷宮の外に出てしまえば普通の生物のようにそれらが必要になる不思議な性質を持っていた。
「見つけました、特等」
ケージに真相に繋がりそうな証拠はなく、諦めて他の箇所を調べようとしたとき、茶竹が眼鏡の下から紺色の目を輝かせながら寝室から出てきた。
その手に持っている容器には初城のものと思われる髪の毛が入れられていた。
「おっし、よくやった」
綴がガッツポーズするには理由があった。
魔法には、「空間魔法」、「精神魔法」、「情報魔法」の三種類が存在する。
魔法は、魔力使って定義した「仮説」に干渉することで成り立つ。
三種の魔法は何を「仮説」するかによってに区分することが出来る。
空間魔法は三次元的事象を、
精神魔法は観念的事象を、
情報魔法は伝達的事象を「仮説」する。
今回、関わってくるのは情報魔法だ。
情報魔法は、伝達的事象に、つまりは情報に関して干渉を行う。
つまり、情報魔法を使えれば過去に起こったことを調べたり、現在の情報を余すことなく見たりすることが可能だった。
情報魔法に関わらず全ての魔法は原則、形ないもの干渉する。
そのため、発動にかかるすべての工程を手探りで行う必要があり、形あるものに干渉する魔術よりも難易度がはるかに高かった。
本来なら、情報魔法の発動には長い時間と大量の魔力が必要なのだが、茶竹はその眼を触媒にすることで時間も魔力も少なく情報魔法を行使することが出来た。
「早速、見てくれるか」
「ええ、勿論」
茶竹の眼は紺跡の魔眼と呼ばれる少々、特殊な眼だった。
魔眼。
四神が魔導を広めたことによって、人類の魔導適応性は飛躍的に上がることとなった。
これによって、先天的に眼を触媒に魔導を行使することが出来る体質を持つものが時折生まれるようになった。
この特異な眼のことを「魔眼」と呼称した。
魔眼は種類に応じて行使できる魔導に違いがあった。
茶竹が持つ紺色の眼は情報魔法だけを行使することができる。
茶竹が紺跡の魔眼で行使しようとしている魔法は、「過去閲覧」。
「過去閲覧」は、過去に対象の物質に起きた内的、外的変化を視覚することができる魔法だった。
茶竹の眼に魔力が収束し始め、紺色に輝きだした。
[仮説構築:物質的事象に生じた内的、外的変化が伝達的事象として蓄積される]
頭に思い浮かべるのは、この魔法を行使するのに必要な仮説。要約すると、物質として存在するものには、現在と過去に生じたあらゆる変化が情報と蓄積されているということだ。
仮説は魔法によって異なってくる。
その魔法に適した仮説を正確に定義しなければそもそもその魔法が発動しないため、この行程は最も重要で繊細な行程だった。
続いて、茶竹は魔力を流して先程構築した仮説を世界に定着させる。
この作業は感覚的なもので説明しづらいが、イメージとしては頭の中の考えを魔力と共に世界に浸透させていく感じか。
魔導は第六感を使って行使するため説明をする際に、どうしても抽象的な表現になってしまうことが多い。
魔法を行使する際に一番失敗が多いのはここの行程だった。
魔法の原則として、仮説を立てた時点で物質的矛盾が生じてはならない。
物質的矛盾というのは魔法行使前と行使後で矛盾が生じることだ。
例えるなら、今回の「物質的事象に生じた内的、外的変化が伝達的事象として蓄積される」では、変化は目に見えない形で残ると仮設されている。行使前から伝達的事象なんてものは目に見えておらず、行使後も見えない為矛盾は生じない。
逆に、「物質的事象に生じた内的、外的変化が視覚情報として記される」と仮設すればどうなるか。
この仮説では、変化は目に見える形で残ると仮設されているため、行使前は見えていないのに行使後は見えてると矛盾が生じる。
こういった物質的矛盾を孕んだ仮説は世界が受け付けない。
これでは魔法では何も変えることは出来ないのではないか、そうではない。
[仮説再構築:物質的事象に生じた内的、外的変化伝達的事象として蓄積される。また、蓄積された伝達的事象は視覚情報として術者が知覚することできる]
最後の行程で一度定着させた仮定に矛盾を書き足すことで書き足すことで世界を騙す。
これによって魔法は不可能を可能に変えることが出来るのだ。
矛盾にも可能なものと不可能なものがある。
その違いは矛盾の規模だ。
今回であれば「術者が知覚する」とあり、矛盾は個人で完結する。
だが、「人類全員が知覚する」となれば話が変わってくる。規模があまりにも大きすぎて世界に浸透しないのだ。もしかしたら、膨大な魔力があれば可能なのかもしれないが人間には無理な話だった。
結論、魔法というのは小規模に世界を騙すことであった。