風塵、急を告げる頃(2)
更に数日が経ち、あらかた片付いた頃。
帝国伝書局・市場出張所の公務を、いつものように定時で終わらせ、アルジーは路地裏の小さな店舗セット住宅に帰宅した。
店カウンター脇のスタンド式ハンガーに掛けておいた朝の洗濯物を取り込むと共に、一緒に吊るしてあるドリームキャッチャーを、お手入れがてらチェックしてみる。
無害な邪霊ケサランパサランが、5つ引っ掛かっていた。毛玉の色は、白、青、青、黒、赤。
『パル、白いので遊んでいいよ。遊び終わったら、インクペン掃除用のスポンジの箱に入れといてね』
「ぴぴぃ」
アルジーのターバンの上に落ち着いていた白文鳥《精霊鳥》パルが、白い毛玉にパッと飛びつき、さらっていって、モフモフのボール遊びをし始める。
ケサランパサランは、どこにでも何となく漂っている小粒の邪霊。無害なので精霊として数えるほうが多いが、正体も生態も謎。ペットとして飼おうとする人も居るけど、10日かそこらでドリームキャッチャーなど魔除けの捕獲網に引っ掛かって動かなくなるので、期間限定のペットというところ。
動かなくなった4色の毛玉は、聖具や小道具、刀剣などを磨くための、スポンジやパフといった雑巾にされる。使い古された後、《火の精霊》の炎でお焚き上げ。一部の研究者によれば、精霊・邪霊――「ジン」――のうち、特に上位の存在から、ポロポロこぼれ落ちて混じり合った「何か」だろうという話だ。
特に青のモフモフ毛玉を、タオル籠に保管する。青い毛玉は特に石鹸の泡立ちが良いという性質があり、「ぐいーん」と引き延ばしてタオルのようにして、身体を洗うのに使う予定だ。
店部分と居住部分を仕切っている紗幕をくぐる。人質の塔にあった紗幕は絹製だったが、こちらは粗織りのリネン製だ。夜間、冷える時はウールの外套を重ねる。
紗幕をくぐると、居間キッチン寝室を兼ねる空間である。
奥の壁の窓を覆っている鎧戸を開く。格子窓枠の外に漂っている午後の後半の光で、空間がパッと明るくなる。
今は亡きオババ殿の愛用していた茶カップが、居間のテーブルの主役よろしく鎮座していた。仕事終わりのアルジーの一服と共に、オババ殿の茶カップにも日替わりのハーブティーを入れるのが日課。
朝のうちに水出しハーブティーを作り、素焼きの二重壺に入れて冷蔵しておいてあるので、それで一服する。
日没までまだ時間はあるが、夕方の副業タイムを考える程では無い。
――とはいえ、迷子を保護したり、道端の落とし物を保管したり、道が分からなくなった人に町内ガイドをしたり、というような小遣い稼ぎはできるだろう。
店舗入り口の扉に『日没まで営業中』という夜間照明ランプ式の看板を掛けて……
久々にタジン鍋で自炊をしようかと、黒い毛玉ケサランパサランで、タジン鍋を磨いていると。
2人の客が、アルジーの代筆屋に入って来た。
「あれ、いらっしゃいませ。ミリカさんと……?」
常連客の妙齢の美女、遊女ミリカは、イタズラっぽい笑みをしてパチリとウインクして来た。うすいベール布地を透かして、見事な赤銅色の髪が分かる。
ちなみに、ベールは髪の部分を適当に隠すだけで良いとされている。ターバンで髪を隠してしまえば、男装ではあるが堂々と表を歩いて良いのだ。公的に男を称したら性別詐称の罪に問われるけれど、せいぜい罰金くらい。逮捕されることは無い。男性が女装した場合も事情は同じ。世の中、装いの性別を変えないとやっていけない場面があったりするのは、お上の方でも承知している訳だ。
もう1人は誰だ、男か女か、と首を傾げていると。
ヒョイと、濃いベールが上げられた。落ち着いた色合いの紅髪の間から、鬼耳族の特有の尖った耳。中年世代なのではあろうが、年齢不詳の、かつ厚みのある豪胆さを感じさせる美女。
――女商人ロシャナク。
帝都の御用達の文房具店『アルフ・ライラ』本店から送り込まれた支配人として、東帝城砦の支店を経営している女商人だ。一方で、裏で高級娼館『ワ・ライラ』を営業している……まさに女傑。
「ハーイ」
「ロシャナクさん。そんな街着にベールだから気付きませんでしたよ。あ、お忍び?」
「例の裏営業、大騒ぎの真っ最中だからね」
女商人ロシャナクくらい稼いでいる金持ちの装いは、たいてい長衣。下に着るチュニックのほうも良い素材で、華やかな染めだったり織りだったり。
目下お忍び中のロシャナクは、アルジーや遊女ミリカと同じ、一般庶民の定番の装いだ。
男女の別の無い生成りのチュニックと広幅ズボン。市場で気に入って買ったらしい新色の、膝まである長い丈のベストを合わせ、サッシュベルトで留めている。膝丈ベストは長衣に似ながらも裾が短いため仰々しくは無く、ちょっとしたよそ行きという風で、着回しが利く範囲は非常に広い。
フトコロ具合を見るには足元を見よ、という格言どおり、ロシャナクの靴は値が張る品だった。よくあるタイプの、爪先が少し上がる平底靴だが、上質な革をキッチリ縫い上げて美しい刺繍を施した高級品。
「店をスタッフに任せて、頭の整理を兼ねて買い物と散歩してたら、そこでミリカと会って、ついでに一緒に来た訳さ。ピヨピヨ『いちご大福』ちゃん、元気だったかい?」
「ぴぴぃ」
ふわもち白文鳥の姿をした相棒パルが、いつもの位置から、さえずって返していた。魔除け用ドリームキャッチャーを吊り下げてあるスタンド式ハンガーを止まり木に見立てて、腰を下ろしているところ。換羽が始まっていて、しきりに羽根をつつき回している。
勝手知ったるという風で、女商人ロシャナクと遊女ミリカは、店カウンターの客用椅子に腰を下ろした。椅子といっても、木箱を伏せてクッションを乗せただけのもの。
アルジーは早速、店カウンターに、よく冷えているハーブティーを2つ出した。
女商人ロシャナクは目線で感謝を示し、茶を一服した。手持ちの巾着袋から高級な扇子を取り出して、パタパタやり始める。
「今日も暑いわ。ねぇアルジー、この間の灰色の御札さぁ、ホント傑作だったわよ」
「その節はどうも。あんな面倒な新顔よく見つけて来たなと」
「それだけの事はあったでしょが。ま、同じ鬼耳のよしみはあったけど、人を見る目はあるんだよ、あたしゃ。1人の女を取り合った2人の男、ハチャメチャ逃走劇の顛末くらいは耳に入ってるだろ」
遊女ミリカが、茶カップを口に付けているところで、不意に「ぶふぉ」と吹き出した。幸いに茶は口の端を垂れるだけに留まり、ミリカは袖口でサッと拭く。その途中も、その後も、くくく……と、見るからに思い出し笑い。
「例の御曹司がキツク要求したんで、まだ出回ってない内容と、後日談がある。あの御札で何が起きたのか、作成者としては知りたいんじゃないかと思って、話を持って来たんだよ。聞く?」
「…………聞く」
「製造物責任だねぇ。その責任感、律義さ、イイねぇ」
女商人ロシャナクは「ハハハ」と豪快に笑い、手に持った高級な扇子で描写を加えながら、語り出したのだった。遊女ミリカも現場に居て、あらかた見聞きしていたということで、補足情報を加えて来る。
――あの、例の夕べ。
御曹司の「大事なアレ」は、文字どおり、もげた。
その「もげた方」は、性病でメチャクチャに腐っていた。いったん発症するとアッという間に悪化し、爆発的に伝染する性病。
まさに紙一重のタイミングだった。
聖火神殿の定番のオマジナイ『家内安全』や『疫病退散』などの紅白の御札から、《火の精霊》たちが、文字どおり「火の玉」となって緊急出動して来た。
多数の「火の玉」が次々に現場に集結し、「もげた方」を激しく熱心に焼却消毒する有り様は、地獄の劫火もかくやと、語り草になる程だったという。
御曹司は、悪夢で一睡もできなかった一夜から覚めた後、スッキリ・サッパリ「もげた」その位置を眺め……失神した。
そして、もう一度目が覚めた後。
聖火神殿から、「東帝城砦どころか帝都でも一番の名医」と名高い老魔導士を呼びつけ、原状回復も含めた治療を要求した。
ちなみに、この老魔導士は帝都の有力者たちにガッツリ意見を物申し、不興を買って電撃引退した後、悠々自適の生活に入って既に長かったのだが……何故か2年ほど前に急に神殿へ現場復帰して来たという、いわくつきの人物である。復帰して来た時は、並み居る高弟の魔導士たちが、はるばる帝都から駆け付け、男も女も歓喜の涙を流したとか……
威厳タップリの白ヒゲをたくわえた老魔導士は娼館まで駆け付けて来た。誰よりも立派なお眉を吊り上げて、いわく。
「我らが聖火神殿の発行せし紅白の御札『疫病退散』が、この城砦全域で、偉大なる《火の精霊》の炎に燃えておりました。発生源の城砦のみならず近隣の城砦をも封鎖する羽目になった悪性の性病によるものですから、徹底的に治療をいたしましょう。ただし、股の間の器官については、原状回復は保証しませんぞ」
「オレは何もしてないぞ! 男色じゃ無いし、あの城砦から来た野郎と性的接触なんか……あぁ、でも、宝飾ピアスを売って来た宝石商は、最近の砂嵐か何かの影響なのか、咳とクシャミが止まってなかったような……」
「では、そこで感染したんですな。性病は、咳とクシャミでも感染するんですぞ。ピアスの穴から感染することもある。ゆえに、大規模流行を防ぐべく、白タカ《精霊鳥》をすべて使って密に連絡を取りつつ、厳重な防疫体制を敷いていたものを。偉大なる《火の精霊》が徹底的に焼却消毒していなかったら、どんな恐ろしい事態になっていたか、この特権ボケ・ウマシカ・アホが!」
「そこまで怒ることないだろ、オレは被害者で……」
「この性病は、男が発症した場合、行き着くところは『不能』ですぞ宮殿はトルーラン将軍の執務室まで報告書が上がった筈じゃコノバカモン!」
「ふ、不能……」
御曹司は、またしても失神したという。今度は絶望で。
治療のため、山ほどの黄金色の《魔導札》を全身に貼りまくられ、目が回るくらい苦い薬を大量に飲まされ……
御曹司は赤色ケサランパサランの大群に取り付かれた。
性病の原因を焼き尽くすためであろう、赤い毛玉たちが特に股の間に密集し、サボテンのように固くなってグサグサとやり始め、下半身の例の場所が炎のような熱を持ち……
股間に物理的に火をつけられたよう、全身に氷水を浴びせられたよう――というような極端な状態になり。ありとあらゆる頭痛だの腹痛だの悪寒だの、不定愁訴にまみれ。
七転八倒して、七日七晩。
ズボンもベッドシーツも、「もげた場所」からスイカ1個分ほどの大出血があったため、真っ赤に染まり……
交換しても交換しても、ズボンとベッドシーツは、そのたびに「もげた場所」からの「最も重要な部分を、ゴツゴツとした金属製やすりで、むごたらしく削られているような命懸けの痛み」を伴う連日の大出血で、しとどに染まり続けた……
……その後、御曹司の大事な「新しいアレ」が無事、健康に生えて来た、という。
「地獄だった……」
最悪の結果にならなかったことで、ズダボロ体調悪化に大量出血に満身創痍を重ねた御曹司は、ホッとしたけれど……同時に、ガックリした。
――何故なら、ひと回り小さくなっていたからだ――
女商人ロシャナクの語りは、最後は、笑い涙を流しながらヒーヒー言うものになっていたのだった……遊女ミリカのほうも、いうに及ばず。
……もしかしたら、治療を担当した老魔導士も、同じ反応をしたんじゃないだろうか……!?
アルジーが、疑惑の眼差しで見つめていると。
女商人ロシャナクはバカ笑いを収め、キリッとした、まさに女実業家というべき顔になった。
「あの偉大なる老魔導士、例の御曹司に、こう言ったんだよね。『御曹司は運が良ければ、この1回だけで終わりじゃ。じゃが、女性は出産で、あるいは月ごとの生理で、急に悪化すれば命を失うのじゃよ。少しは想像してみると、よろしいかも知れませんぞ。毎月ずっと繰り返し、体内にそれだけの大怪我をするという人生を』――とね」
アルジーは少し考えてみた。そして。
「例の御曹司に、それだけの想像力があったかなあ?」
「怪しいところだね。あの御曹司、3歳や5歳の幼女や、生理中の女と床入りして、行為の最中に暴力を振るってスッキリすれば、性病が治ると信じてたよ」
フンと鼻を鳴らす女商人ロシャナクであった。遊女ミリカも同じ内容を見聞きしたと言うことで、「うんうん」頷くのみ。
ロシャナクは、かねてからの何かを思い出したという顔になり、高級な扇子で額をペチリとやった。
「アルジーとしては、そこまでは想定外だったんだろうけど、うちの娼館はギリギリで性病の蔓延を免れて、商品の男子たちと女子たち、それに酒姫たちも命拾いしたようなものだからね。些少ながら、これは御礼だよ」
ロシャナクは、巾着袋から指の先ほどの小さなインク壺を取り出し、代筆屋の営業カウンターにポンと置いた。
ラベルを見てギョッとするアルジー。
「紅緋色のインク! これ《火の精霊》高度濃縮バージョンで、『魔法のランプ』で特別な方法で保管しておけば、《魔導陣》や《魔導札》の黄金色のインクにもなる……!?」
「危険物取締法、指定リスト第1位、《魔導》免許証を持ってる人限定の品だから、報告記録なしで提供できるのは、邪霊を呼べないくらいの少量の試供品だけどさ。あの灰色の御札の赤インクより効力あるんじゃないかな。まぁ今後とも、我らが文房具店『アルフ・ライラ』を贔屓にしておくれよね、ハハハ」
――さすが、専門の業者。ガチガチに煮詰めた赤インクに気付いていた訳だ。もしかしたら、お焚き上げ確定の羽ペンが出たことも。
アルジーはふるふる震える手で、目玉が飛び出るほど高価なインク壺を、おしいただいたのだった。