南方前線の砦の中の、面々(7)昼
……その異変は、突然やって来た。
すでに午前半ばの刻。威力を増した陽光に熱せられた、白文鳥の翼の間から、気分が悪くなるような、甘ったるい異臭が立ち上がる。
昨夜、酔っ払い赤毛男バシールから浴びせられた、禁術の大麻のもの。
精霊の目で見ると、立ち上がった異臭成分が、蜘蛛の巣さながらに浮遊していて、絡みついて来るのが分かる。
――身体が、動かない!
不意打ちの不安と、恐怖。
異形の蜘蛛の巣のごとき不気味な《魔導陣》を思わせる構造体は、絡みついたが早いか、急速に石化――結晶化しているようだ。次第に、不自然に強張ってゆく翼。
邪霊植物――化け物の大麻の――《三ツ首ハシシ》の呪縛の力に違いない。
かの《精霊クジャクサボテン》が有害な邪霊を遠ざけるように、邪霊植物として進化したという《三ツ首ハシシ》は、精霊の身体を縛りつけ、動けなくさせるのではないか?
……相棒の白文鳥パルやアリージュがやっていたように、朝の日課の水浴びをしておくべきだった。アルジーは、人体の時の意識に引きずられて、失念していた!
目が覚めた時。傍に、水がいっぱい入った大きな器が、置いてあった。あれは、鳥の朝の日課――水浴びもかねての、大きさだったのに!
さらに、不吉な記憶がよみがえる。
不気味な巨人族の黄金戦士『邪眼のザムバ』が撒き散らしていた、奇妙な空気。あの地下神殿の祭壇でも、大麻の類を焚いていた……! 同類のものかどうかは分からないが。
いわゆる、シビレル《魔導陣》――
――『出涸らしのカスとはいえ、禁術にかかわる邪霊植物の大麻。我ら精霊すべて警戒せねばならぬ』
ザムバと接近した後で、急に雪花石膏の彫刻と化していた、相棒のパルとアリージュ。
かのテラテラ黄金肌の巨人族の戦士は、額に奇妙な刺青をしていた。『邪眼』と呼ばれる意匠の、異形の刺青。
一瞬だったけど、急に襲って来た赤毛男バシールの額にも、同じような刺青があったような気がする……!
不気味な《魔導陣》を思わせる構造体が、いっそう、白文鳥《精霊鳥》の身体に絡みつく。みるみるうちに感覚が痺れて、薄れていっている。
――《精霊鳥》同士のスラング『シビレル《魔導陣》』の意味が、理解できた。こんな時になって、《精霊鳥》の身体の経験でもって、腑に落ちるとは思わなかったけど。
ここで、石像彫刻となって落ちる訳にはいかない。
――オーラン少年と老魔導士フィーヴァーのもとへ、この《精霊亀》甲羅を届けてみせる!
呪縛の力で重くなってゆく翼を必死に動かし、アルジーは、ヨロヨロと飛び続けた。
(ありとあらゆる呪縛と不健康に悩まされ続けていた人生経験を、舐めるんじゃないわよ!)
目の前に、オーラン少年と老魔導士フィーヴァーの詰めている部屋の格子窓が見えて来た。
急速に雪花石膏さながらの硬直感をまといつつある翼を、なだめつつ操る。
陽光に熱せられて上昇する空気の流れが、意外な援護となっていた。
上昇気流を捉え、いまひとたび舞い上がるや、幾何学的パターンをした格子窓の隙間へと、突っ込む。
硬直していた純白の翼が引っ掛かり、まさに雪花石膏さながらに砕けた。既に石化していて、痛みの感覚も無い。
そのまま部屋の床へと、全身が打ち付けられる。
――ああ……せっかく白文鳥《精霊鳥》の身体を貸し出してくれたのに、台無しにしてしまった……
同じ名前を持つ不思議な縁でもって身体を交換してくれていた、あの白文鳥アリージュへ向けて、精一杯の謝罪を念じる。
ガラスが砕け散る音さながらの――破砕音。
部屋の奥に垂れ下がっていた紗幕が、サッと開けられた。
隙間から見えるオーラン少年の頭部――その驚愕を浮かべた顔面は、相変わらず、じっとりと血の滲んでいる包帯巻き巻きの状態だ。
アルジーの視界いっぱいに、不思議な白金の光があふれた。見ず知らずのような――でも、何処かで遭遇したような気のする――精霊の気配。
次の瞬間、黒ダイヤモンド鍵が……召喚されて実体化したかのように、目の前に現れた。《魔法の鍵》だ。
『だれ……!?』
白金の光は、精霊の道に違いない。どこの精霊が招き入れたのかは分からないが、精霊の気配は、ひとつ……ふたつ。
――《魔法の鍵》として実体化した《地の精霊》と、もうひとつの謎の……おそらく高位の《地の精霊》。
意外に近くの、どこかで――『ガチャン』という重厚な音を立てて、黒ダイヤモンド《魔法の鍵》が回った。
次の瞬間、アルジーの視界は暗闇に包まれる。
三途の川だろうか。
思わず、あちこちへと手を突き出す。なじみ深い重力感覚がドッとやって来て、すぐにアルジーは自分の状況を直感した。仰向けに寝かされている状態なのだ。
直感のままに上へ手を伸ばすと……「ドン」という確かな手ごたえが来た。
――パカリ。
何らかの蓋が開いたと言わんばかりの物音、そして、その隙間から洩れて来る――明るい陽光と空気。
頭がクラクラする。
身体の感覚が激変し、まだボンヤリしている状態だ。
だが、この感覚は……ギクシャク感はあるが、人類の肉体そのもの。
棺桶の中に飛び込んでいたのだろうか? それどころでは無いのだが。
まさに棺桶そのものという、その黒い箱の蓋をどかして、上半身を起こす。
自分の手と思しき、目の前の両手を眺める。
そのとおりの感覚があり、意図したとおりに運動を返して来る。これが自分の手という実感。
――元の身体に戻ってきた訳じゃ無いだろうけど。
そう、本来のアルジーの、《骸骨剣士》さながらの、みじめに骨が浮いたガリガリの手では無い。幼い日に仕掛けられていた呪縛《魔導陣》の痕跡である、薄い黄土色のシミも無い。ほっそりとした繊手ではあるが、健康な程度に肉が付いている。
(それどころでは無いわよ!)
まだ呆然としている頭にカツを入れ、アルジーは勢いよく、その棺桶から立ち上がった。
――この謎の人体の背丈は、アルジー本来の身長と似ている。夫である御曹司トルジンと並ぶくらいの、男性並みの高身長だった背丈と。まだ血が巡り切っていないようなギクシャク感はあるが、扱いやすい。
見覚えのある作業机が、横にデンと鎮座していた。老魔導士フィーヴァーが扱っていた薬研だのフラスコだの、不思議な道具がズラズラと並んだままだ。老魔導士フィーヴァーの気配は無い。今は不在らしい。
いまや見慣れた間仕切りの紗幕を通り抜け、格子窓へ駆け寄る。
何とも奇妙な感覚だ。
その窓の直下、床の上には、白文鳥《精霊鳥》だった身体の名残がある。
今までアルジーが憑依させてもらっていた其れは……雪花石膏の彫刻と化したうえに、粉々に砕けていた。徐々に蒸発し、『根源の氣』と消えてゆく。
残ったのは、小鳥の足でシッカリつかんでいた《精霊亀》の甲羅……虹色の螺鈿細工のようにきらめく六角形をした薄片、2枚。
咄嗟に、その薄片を拾うべく、腰を下ろして手を伸べるアルジーであった……
「動くな」
怒気のこもっている、少年の声。
視界の端に、陽光を弾いてぎらつく護身用の短刀。
ギョッとするままに固まる、アルジー。
「この外道。セルヴィン殿下へ、生贄《魔導陣》を投げただけでは飽き足らず、白文鳥《精霊鳥》までも」
立ち上がっているだけでも苦しいのか、しきりに息切れが入る、オーラン少年の声。懐かしいとすらいえる、オローグ青年と同類の――故郷シュクラ地域の、言葉の響き。
――そうか! この状況、傍から見ると、急に出現して来た人体が何らかの《魔導》でもって、白文鳥《精霊鳥》を石化させて、害したように見えるのだ!
次の瞬間……別の人物が現れた。3人。
サッと、サボテン製の扉が開いて閉じられる。
そこに居たのは、黒い長衣をまとう老魔導士フィーヴァーだ。
「5人もの有望な若者を『魔導士クズレ』と化し、血の海に沈めての身勝手な失踪の果てに、やはり舞い戻って来おったな。大盗賊団の首魁も裸足で逃げ出すほどの、外道にして極悪の酒姫アルジュナどの。その容貌と手練手管とで見張り全員を誑し込んだのじゃろうが、これ以上『ヒョロリ殿下』を害することは、このワシが許さんぞ」
後ろに……表情を強張らせた、不健康な骸骨のような藁クズ少年セルヴィン。その護衛を務める黒髪の戦士オローグ青年。
険しい顔をしたオローグ青年が、殊更に物騒な音を立てて、三日月刀を抜く。ここで会ったが百年目、と言わんばかりだ。
何の因果か、不意に人体を得る形になったアルジーは、ギクシャクと後ずさりしつつ、手を躍らせるばかりだ。
『ご、誤解! ストップ! 私は酒姫じゃなくて、この人体に入っただけの亡霊で……!』
次の一瞬、キョトンとする老若の面々。
言葉が通じていない。
――しまった。《精霊語》だった。つい、ここ最近の習慣で。
ほぼほぼ、さびついた感のある、帝国語を繰り出す。慌てているせいで、故郷シュクラの言葉と、東帝城砦の市場言葉と、《精霊語》のチャンポンだ。
「……いまはもう死んで、三途の川の順番を待ってる亡霊だけど、その前に行かなきゃいけない所あって……白文鳥《精霊鳥》の身体をお借りして――」
この人体は、何やら違和感がある。発声器官に相当する部分が、特にギクシャクとしているのだ。《精霊語》を通すと若干、滑らかになるものの……無機質な物体を無理に動かしているようだ。
人工的な息継ぎに失敗し、ゼイゼイし始めるアルジーの前で。
最初に唖然とした様子に変わったのはオーラン少年だ。包帯巻き巻きの中の表情は知れぬものの、口がポカンとした形に開いている。
何故か、オーラン少年は食い入るように見ていた……謎の人体に憑依した形になった、アルジーの目の辺りを。
「……君は誰だ? あの外道の、アルジュナじゃ無い、と言うなら……」
「惑わされてるのか? どうしたんだ、オーラン!」
アルジーは息を整え、改めて本名『シュクラ第一王女アリージュ姫』を告げようとしたが……
何故か、音声になって出て来ない。
……喉の奥を、空気が虚しく通り過ぎるだけだ。
必要な筋肉が、ピクリとも動かない。「目下の人体に、そのような機能は付いていない」と言わんばかりに。オババ殿には、ちゃんと言えたのに――お互いに、幽霊と亡霊だったから?
次に、何かに気付いたらしいのは、老魔導士フィーヴァー。見る間に疑惑の眼差しになり、格子窓を見やる。
「奇妙じゃな……ヒョロリ殿下の契約《火の精霊》による、緊急の結界が掛かっとる。このやり取り、最初から最後まで機密扱いにされとる訳じゃ」
促されて見れば、確かに、この部屋の開口部という開口部が、真紅色の火の尾を引く細かな《火の精霊》粒子で、覆われている。
その異様な光景にギョッと目を見張りながらも、オローグ青年は戦士らしい警戒感と責任感をもって、護衛対象であるセルヴィン皇子の前に立ったまま……アルジーのほうへ向けた刃を退かない。
「機密扱い、とは?」
いまひとつピンと来ていない様子のセルヴィン少年だ。
その様子を眺めながらも、アルジーは、あの馴染み深い虚脱感を感じていた。体力切れ。疲労困憊だ。昨夜の銀月――下弦の月は、とても細かった。翌日である今日は、新月。
重力に引かれて、憑依している人体が崩れ落ちる。さながら、糸の切れたカラクリ人形のように。
――異様に硬い落下音。木製か石製の物体が当たった時のような。
馴染み深い、生身の肉体が倒れた時のものでは無い。その強烈な違和感。
部屋いっぱいに、驚愕ゆえの沈黙が広がった……




