風塵、急を告げる頃(1)
あの夜から、2年ほどの月日が過ぎ去っていた。
ロバ1頭が牽く小型の荷車ほどしか通れないような、市場の片隅の路地裏。
両側に、露天商・行商・一皿料理の類を商う小箱店舗や、ウサギ小屋のような住宅が密に連なる。
そのなかで、代筆屋の看板を出している1軒がある。
2年ほど前に開業した、アルジーの代筆屋。
軒先の彩りとして豆苗を育てていて、市場の方々をねぐらにしている白文鳥《精霊鳥》が、たびたび遊びに来るようになった新しいスポットでもある。
代筆屋本人は非常に若く……御年19歳。民間の代筆屋として、帝国伝書局・市場出張所のスタッフを務めている。
――とある日の、何でも無いような午後。
東方オアシス各所の数々の城砦を順番に襲った最近の砂嵐を何とか、やり過ごし。
帝国伝書局・市場出張所で、帝都の役所の文書形式に沿って、砂嵐の災害報告書の束をひたすら代筆する……という目の回るような繁忙期が、やっと終わった日。
市場の片隅で副業していた代筆屋は、決死の形相で訪れた「訳あり客」から無理難題を出されて、困惑しきりの状況にあった……
……うら若き代筆屋アルジーは改めて、頭部のターバンを男っぽく締め直す。
アルジーの容貌は、自他共に認める陰気さが際立っている。
目鼻立ちは悪くない。むしろ整っていると言っていい方なのだが、血相の悪さや、こけた頬のほうが目立つため、パッと見た目は、不気味な骨格標本だ。邪霊の一種《骸骨剣士》そのものなのだ。赤色ベストからの照り返しでもって、ようやく生気が追加されたように見えるほど。
くぼんだ眼窩の奥から、決死の形相で訪れた「訳あり客」を、ジロリと睨むアルジー。
だが男性客は、アルジーの骸骨顔にも、ひるまない。小さな子供は泣いて逃げ出し、男も女も関係なく、青ざめてジリジリと後退していくのに。
覚悟を決めてやって来た、まさに硬派の漢。ガッツリ骨のある面倒な客。
営業カウンターには、お金の入った革袋が置かれていた。傍目から見ても、相当にズッシリとしていることが分かる。
――この客、帝国人の80%と同じ平凡な茶髪だけど、相当の身分の人物らしい。
よく見ると耳の形が通常の2倍ほど長く、上へ延長した耳輪の先端が尖っている。鬼耳族の子孫。別称「地獄耳」。常人の数倍もの高機能な聴力を誇り……砂嵐や邪霊の接近をいち早く聞き付けるので、隊商では、普通に見かける。老人世代になるまで聴力が衰えにくいという、まことに便利な耳だ。
質素なターバンやチュニック、ベストでもって隊商の一員さながらの外見を装っているが、素晴らしく質の良いブーツが、その変装を裏切っている。広幅ズボンを固定するサッシュベルトの色が『帝都紅』だ。訓練された宮殿関係者であれば、一般庶民の使う礼装の赤色の中でも、見分けがつく。
――おそらく帝都の役所勤務、実力派の若手エリート役人。あるいは、もっと上、どこかの王侯諸侯の血縁かも。シュクラ王太子ユージドお従兄様の親戚、オリクト・カスバのローグ様のような。
アルジーは革袋を名残惜しくチラチラと見やりながらも、キッパリと告げる。
「残念だけど、《魔導》攻撃系のヤツは、できない」
若い男性客は少し目を見張った後、返答の内容を理解し、気色ばんだ。
「金は積んだんだ。要らんのか」
「そりゃ、その金は欲しいよ。でも私が訓練を受けたのは《精霊文字》のほうだから」
代筆屋アルジーの、割合にクッキリとした濃灰色の眉尻が、キュッと吊り上がる。
「帝国お抱え魔導士のような、邪霊を組み合わせた攻撃はできないんだ。それは《魔導陣》や《魔導札》を使うんだよ。《精霊文字》の御札とは別物。そもそも、大自然の理に反して、本来ありえないことを実現する、っていうものじゃない。そういう依頼は、呪殺の《魔導陣》を展開するっていう暗殺教団とか、《骸骨剣士》や《食人鬼》を差し向ける、邪霊使いに持って行くのが確実。奴らのほうが専門なんだから」
ハスキー声ではあるけれど、クセが無く中性的。男にしてはトーンが高めだが、聞いているうちに落ち着いて来るタイプの声音だ。歌うたいや詠唱士もこなせそうな伸びやかな声質が、高い透明度を感じさせる。
しばし沈黙が流れる。
やがて、若い男性客は苦悩の表情をして、頭部のターバンをガシガシやり始めた。
「オレの連れにトルジンが目を付けて、さらって行ったんだ。それも娼館へ。トルジンの手先……武装親衛隊が囲んでいて、取り返そうにも近付けない。帝都の裁判所へ突き出したり処刑したりするのは後でやれるにしても、時間が無い。あんたの《精霊文字》の腕は確かで、定番の『家内安全』『交通安全』なんかの紅白の御札はもとより――灰色の御札の効果は、聖火神殿のものよりずっと霊験あらたかで早いから、今夜までに余裕で間に合うだろうと聞いた」
かの罰当たりトルジン野郎……
アルジーの目が据わった。
――あの女商人が、この新顔を、『裏の案件』にもかかわらず速攻で紹介する筈だ。
いまの自分は、似顔絵を描いた麻袋を殴る蹴るしているだけの無力な子供じゃ無い。罰当たりな破廉恥どもに、キッパリ・スッキリ、天罰を当てる技術を習得した、一人前の大人だ。
とりわけ親しくさせてもらっている――市場で出逢う様々なリスクを切り抜けるコツを色々と教えてくれた、姉御肌な女商人ロシャナクの、得意げな顔が、思い浮かぶ。
女商人ロシャナクの顔が利く、あるいはロシャナク自身が裏営業している高級娼館で進行している出来事に違いない。
希望を持てる時間を、ギリギリ今夜まで、どうにかして引き延ばしたのだ。あの「何をしても許される」腐れ外道な御曹司トルジン相手に。
アルジーは営業カウンターの下から秘密の箱を取り出し、灰色の御札3枚を引き抜いた。手慣れた所作で、順番に、営業カウンターの上に並べる。
「一応、『恋敵を蹴落とすオマジナイ』『恋敵を転ばせるオマジナイ』『恋敵に悪夢を見せて眠れなくするオマジナイ』は在庫があるから、出すよ。御札の使い方は分かるよね? だけど、あとは、お客さんが頑張らないとダメだよ。相手が相手だし、結果を決めるのは、実際の行動だから」
「助かる! なんだか不安が無いでもないが」
先ほどから、なんとなく代筆屋の店の周りを飛び交っていた数羽の白い小鳥たちが、店舗の入り口にパラパラと止まり始めた。開かれたままの入り口の戸板には格子窓があり、小鳥たちは窓枠をスイスイ通り抜けつつ、飛び跳ねている。
すぐに、そのうち1羽が、リズミカルにさえずり始めた。少し長いさえずり。注意深く耳を傾けると、人の言葉のようにも聞こえる。
アルジーは不安げに眉根を寄せ、『いちご大福』そっくりのフワフワ・モチモチな白文鳥を見やり……別の秘密の箱から、ブランクの灰色の御札を、手品のように取り出した。
「……それに、もう一種、御札つけてみる。特殊な紙とインクを使うから、高い割増料金いただくよ」
「金に糸目は付けない。だが、なんで不安そうなんだ、代筆屋?」
「どんな現象が出るのか良く分かってなくて。理屈は分かるし、『すさまじく効果テキメンだった』って、娼館の関係者からの評価と評判は頂いているけれど。通称『男の下半身のアレを究極に萎えさせ、七日七晩、不能にするオマジナイ』。もげたように無くなってたと言うのもあります。殿方の下半身のアレって、実際ドウナッテマスノ?」
集中すると、知らず知らずのうちに、幼いころから訓練して来た「言葉遣い」が出てしまう。
アルジーは生真面目に眉根を寄せつつ、使い慣れた羽ペンを手に取り……個人的な怨念も込めて、灰色の御札へと向かった。
特別な赤インク壺に、羽ペンの先を浸けては書き……
通常の紅白の御札の赤文字よりも、濃く鮮やかな赤文字が並んでゆく。
民間の代筆屋の共通の裏ワザ、赤インクを煮詰めて《火の精霊》成分濃度を増しておいたものだ。
元々は、赤インクの有効期限が切れて色も効力も弱くなってしまった時の、みみっちく最後の1滴まで使い切るための緊急手段。
ただ、難点はインクが流れにくいことだ。羽ペンが詰まりやすい。
煮詰めた赤インクで羽ペンが詰まってしまった場合、その羽ペンは廃棄するしか無い。《火の精霊》の炎でお焚き上げ、という形。《精霊文字》のほうも、ブツ切れの線になって失敗しやすいので、冷や冷やしつつ……
「会心の出来」
男性客は、目をパチクリさせていた。その顔は青ざめ、口元は引きつっている。
――その気になって、男性客は、店舗を注意深く見回し始めた。
開業した時に、相当に掃除したり手を入れたりしたのだろう、という痕跡は窺えるが、妙に繊細な調度や色彩の取り合わせ。「男の領域」という感じが無い。
身の安全に神経質な若い女性ならではの、定番の改装が施されてある。
店舗の入り口の物を除いて、幾何学的格子の窓枠は外からの覗き見を断念させるような細かい型に新しく取り換えられているし、戸締りも、ガチガチの錠前に付け直されている。この改装で、この小箱店舗セット住宅の資産価値は、どう見積もっても三割くらいは上昇している。
男性客は改めて、恐ろしく血色の悪い代筆屋を、注意深く観察する……
……《骸骨剣士》ソックリの代筆屋だが。
よく見ると、まつ毛は長い。くぼんだ眼窩の陰や不健康な濃いクマにまぎれて、目立たなかっただけで。訳アリ品なドリームキャッチャー細工の白い耳飾り。首筋のラインには――喉ぼとけが、無い。目鼻立ちは……
――いや、それより何より、この代筆屋の目の色は……
突如、気付く所のあった男性客は、口元に手を当てて慌て出した。
「あ……男装の、いや、この場では説明しにくい……かな」
「ヤリ手の商人なみに目が鋭いね、お客さん。さて、この御札、局部の調整や性病の治療に関する内容の応用だから、普通に酒や食事に溶かして、混ぜて食わせれば、もっと完璧に『もげる』……そんなに恐怖?」
男性客は恐怖と……それ以上の驚愕の面持ちをして、御札を受け取った。
「とにかく、ありがとう」
……と、革袋を丸ごと置いたまま、恐怖で遁走するかのごとく退店して行った。
代筆屋の店舗の入り口に「もちーん」と腰を据えて見物していた白文鳥《精霊鳥》数羽が、意味深に「ピピピッ」と、さえずりを交わし始めた……
アルジーは、羽ペンの状態をチェックし始める。
羽ペンを手入れするための毛玉パフを取って来て、掃除してみたが……思ったとおり、羽ペンの残りのインクが固まって、詰まってしまっている。
――そのうち文房具店で、新しいのを買わなければ。お得な中古品のほうで、掘り出し物が出ていることを期待したい。
再び、男性客が走り去って行った方向を眺めつつ……やがて、首を傾げるアルジーであった。
「あの人、あれだけ青ざめてたし、ロシャナクさんに『もげる御札』お任せして、慎重に使ってくれそうだから良いのかしら……」
『標的トルジン、性病蔓延した城砦から来てた咳クシャミ止まらない宝石商と会ってて、性病に感染したよ。不特定多数の性行為してて性病の感染源になりかけてる。精霊みんな、トコトンやる気に燃えてるよ、ピッ』
白文鳥の姿の相棒《精霊鳥》パルは、生真面目にさえずった後、翼や尾羽をパパパッと高速で震わせていた。
――残像も合わせて、そう見えているだけ、なんだけど……孔雀のポーズっぽいなぁ。白いから、白孔雀の仲間、いや、ちっちゃくて丸っこい眷属ってところかな。
チラリと浮かび、パッと消えていった直感だった。
*****
翌日の夜明けから、真偽不明の噂が、市場を流れた。
市場の、とある高級娼館を舞台とする怪談。それは、一部の男たちの心胆を寒からしめることとなった。
例の夕べ、酒池肉林の末に、いよいよ「今夜の美女との情事」に及ぼうとしていた高貴な御曹司。
その御曹司の「大事なアレ」が、豪華な寝台の端で転んだ拍子に、もげた、と言う。しかも、急に悪夢らしき幻覚症状が出て、一睡もできず、悲鳴を上げながらグルグル走り回っていた、と言う。
トドメは、その「今夜の美女」が、その隙に、この辺りでは見かけない風体の商人風の男と、手に手を取って逃げ出した、という噂だ……
…………
……
続く一両日の間に、もうひとつの、意味深な出来事があった。
――帝国の重鎮のひとり、国土建設大臣フォルードの意を受けて帝都から来ていたという若手エリート事務官が、妻・従者ともども急に予定を繰り上げ、東帝城砦を出立して行ったのだ。
国土建設大臣フォルードが中心になって進めている国家プロジェクト――帝都を流れるふたつの大河の上流における砂防ダム造成は、莫大な金が動いている大工事だ。
東帝城砦のトルーラン将軍も、必死になって利権にあずかろうとしている案件である。
――交渉の窓口を務める担当の役人が、東帝城砦を訪れながらもトルーラン将軍を表敬訪問すらせず、急に予定を繰り上げて帝都へ引き上げたのは何故なのか。
トルーラン将軍には、いくら考えても分からなかった……