かくして、逢魔が時は始まれり(5)
ガクガク震える手で、アルジーは梯子をつかんだ。
忌々しい生贄《魔導陣》のせいとは言え、体力の無さが恨めしい。せめて、満月の時と同じくらい、今日の月の出の時間が早ければ……体重を支えるという簡単な作業すら、骨身にひびく状態だ。
虚弱な身体に無理が掛かり、一気に発熱してゆくのが分かる。ヒイヒイ言いながら、ひとつずつ段を上がる。
――やがて。
「おぉ、そこに居るのは誰です? 戒厳令下ですよ!」
聞き覚えのある声が、下から発せられて来た。少し神経質そうな……
思わず、そちらを見やる。
真紅色の長衣。
その人影が手に持つ明るいランタンが動き、その光が、人相を照らし出す。
経理担当の神殿役人ゾルハンだ。神経質そうな細い面差しをした中年の神官。実直そうな中堅役人といった風の……
アルジーのターバンに挟まっていた白文鳥《精霊鳥》アリージュが「ぴぴぃ」と、さえずる。
「済みません、ゾルハンさん。あの、吊りランプを戻して《精霊石》を詰めないと」
「吊りランプ?」
てっぺんの空間まで、あと一息だ。アルジーは再び、梯子を登り始めた。
不意に……ポンと思い出した名前が、もうひとつ。
その人なら、きっと三つ首の巨大化《人食鬼》も倒せるだろう。
「ゾルハンさん、フィーボルさんって人、知ってますか? ええと、前・魔導大臣のフィーボル猊下とか……」
返答は無い――奇妙な静寂。
アルジーの脳内で、不穏な直感が渦を巻き始める。
わきの下に、嫌な汗がジワリとにじんだ。
再び、そっと、下を窺う……
急速に暗さを増す夕闇の中。
神殿役人ゾルハンは、アルジーに、ひたと、不気味な視線を据えていた。
逢魔が時の……昼の光明と夜の闇黒が交錯する境界のさなか。
いっそう妖しく燃える、美しい薔薇輝石の眼差し。
その薔薇輝石の色は、いずこの精霊と波長が合う彩りなのか。あるいは、いずこの邪霊と……
その手は、せわしなく……真紅の長衣の合わせを探っている……
焦っているのか、ランタンを持ったまま長衣の合わせを開こうとして、危なっかしく手つきが跳ねている。
何かがきらりと光りながら、地面へと落ちた。
明るいランタンが照らしたのは……コインに似ていたけれど、その鋭い反射光は、金属製の通常の帝国通貨じゃ無い。
琥珀ガラス製の……コイン。
アルジーの息が止まった。
白文鳥《精霊鳥》たちも異様な気配を感じたのか、ピタッと動きを止めている……警戒モードの冠羽を立てたまま。
慌てたように、神殿役人ゾルハンは琥珀ガラス製のコインを拾い上げる。
文官らしく華奢に骨ばっている手の甲に、ギョッとするような大きな裂傷。
普通の裂傷じゃ無い。白タカ……白ワシ《精霊鳥》の爪痕。
白金色の火の粉が、パチパチと散っている。静電気のように。
禁術に手を染めた「邪霊使い」が、強い退魔能力を持つ精霊……特に雷のジン=ラエドを伴って反撃された場合にのみ生じる、特有の傷。
白ワシ《精霊鳥》の痕跡と、雷のジン=ラエドの痕跡が重なるのは、普通の状況では起こり得ない。
アルジーの肩先で、警戒の声を上げる相棒パル。
『昨夜、襲って来た仮面の邪霊使い!』
……神殿役人ゾルハンは、耳まで裂けるような……異様に歪んだ笑みを浮かべた。
神経質そうな細い顎が、異形さながらに歪み、尖りながら動く。
「見たんだね、代筆屋くん」
アルジーの脳内で、パズルのピースが全てハマった。
この人が、風紀役人ハシャヤル氏を爆殺した犯人!
ハシャヤル氏に、呪殺《魔導札》を前もって食わせる機会があった人だ。『瞑想の塔』でも、ハシャヤル氏と会見したに違いない。
そして、通報の意思を固めたハシャヤル氏から、先輩だのフィーボル猊下だのに話が洩れるのを恐れて、ジン=イフリート《魔導札》を仕掛けたのだ。
アリバイをごまかすために、時間差で発火する導火線も使って。
あの日、タヴィスさんが、オババ殿の墓に線香をあげに来る予定だったと言う事も、知っていた筈だ。線香をあげるのに、着火作業はどうしても付き物。
自然な風を装って、タヴィスさんが怪しいと最初から言っていた。タヴィスさんに、ハシャヤル殺害の罪をなすりつけておいて、逃げようとしていた!
「ハシャヤルさん殺して……私たちを《骸骨剣士》で襲ったの、どうして!?」
神殿役人ゾルハンは悪鬼のような顔をして、梯子を揺さぶり始めた。
「落ちろ、首の骨を折って死ね、この……チョロチョロして、現場の導火線を見つけ出しやがって! 弩も弾きやがって、この野郎!」
「わわ、やめ、やめて……!」
アルジーは必死で梯子にしがみついた。手を離したら、生贄《魔導陣》が一気に燃えて、命の終わり!
――もうひとつの事実。
ギュネシア奥さんの振りをして弩を撃って来た不審者の正体も……この神殿役人ゾルハンだったのだ! この細い体格であれば、ベールをかぶってしまえば、女だと性別詐称できる!
「あの愚かなハシャヤルは、怪奇趣味の賭博の真相に気付いていたんだ、2年前に。気付いておいて黙っていた、この私にも! あの朝、いきなり数字『990』の賭けチップ見せられて、どれだけ心臓が止まる思いをしたか」
ゾルハンは、梯子を揺さぶるのを止めない。
「あれは私が『990人目のジャバ生贄が、あの前夜に死ぬ』と見込んで賭けていたチップだった、残念ながら賭けには負けてしまったが。そのうえ、ヤツは、フィーボル猊下に、この件を報告すると言う。だから殺さなきゃならなかったんだ! 前回の賭けに負けて経理に穴を開けて、だから新しく賭けて、カネを取り戻さなければならなかった。チクショウ!」
昔の格言のとおりだ。
悪いカネは、もっと悪いカネを呼ぶ。
そして、そして……
――そして、ゾルハンは不意に梯子から離れ……黄金の《魔導札》を掲げた。
細く尖った顎が、いっそう延長して尖る。普通の人間は、骨格を変形させようとしても、できない筈だ。化け物さながらの自由自在な変形。
禁断の術に手を出した邪霊使いが……仮面で、人相を隠す訳だ。
均衡の崩れた口元から。
その異形で無ければ発声しえない、不気味な抑揚の《精霊語》詠唱が流れる。
――《骸骨剣士》を召喚するための、「邪霊使い」特有の禁断の呪文。
「いまはダメ……!」
アルジーは絶望的な思いになりながらも、叫んだ。
20数羽の白文鳥《精霊鳥》が、ひっきりになしに飛び交った。その飛行痕が、白い流星のように白熱し、キラキラと光り出す。
城壁の上で燃えていたジン=イフリート《魔導陣》が、ゾルハンからの流れ弾のような《精霊語》に応じて爆発的に燃え、黄金の炎を噴き出した。
一瞬の異変……
黄金の炎の中から、真紅の炎の巨人の形をしたジン=イフリートや、10体ほどの《骸骨剣士》たちが出現する代わりに。
三つ首の巨大な異形が1体、城壁の上に、ゴウッと立ち上がった!
城壁の外側――おそらく包囲している帝国軍――から、驚愕の叫び声が湧き上がる。つづいて恐怖の叫び声が。
「なに!?」
ゾルハンが城壁を振り仰ぐ。
――があああぁぁぁああ!
辺り一帯が、ビリビリと振動した。城壁に、ひび割れが走る。
音源は……異形と言えるまでに筋骨の盛り上がった、不気味に人体に似た何か。
魔性ならではの、ぎらつく黄金色の怪異な肌。巨人族の末裔の、テラテラ黄金肌どころでは無い。
おぞましく奇怪な……人類の頭部ほども大きさのある赤々と燃える邪眼を……ひとつずつ貼り付けた、筋肉の化け物のような三つ首。
三つ首を支えるための異様に太い首の下、バックリと、洞穴のような異様な口が開いていた。ぬらぬらと蠕動しつづけている。
これほど距離があるのに、黄金色に光るゾッとするような歯が、グルリと生えているのが分かる……残忍なまでに尖った歯牙。
――三つ首・三つ目の巨大化《人食鬼》。




