砂漠の夜をさまよえば
宮殿の外に摘まみ出されたアリージュ姫と世話役オババは、呆然と、石畳の広がる路上に座り込んでいた。
月光の届かない場所であるうえに、夜間照明ランプはほとんど無く、暗い。
目が闇に慣れて来た頃合いで、ぐるりと見回してみる。辺りに雑然と置かれているのは、明らかにゴミ箱やゴミの山。宮殿の裏のゴミ捨て場を兼ねる街路。回収処理の人たちが出勤して来るのは、翌朝になってからだ。
名残の熱気が抜けると、砂漠の夜は急速に冷えてゆく。
祖国シュクラのある方向に、山脈が横たわっているのが見えた。
銀月の光に照らされて、たたなわる連嶺の彼方の万年雪が、いっそう白い。奥深い地形をいだく山脈は、絶妙な位置と高度のお蔭で、大量の雨雲を季節にかかわらず捉えるため、ほぼ無限の水源となっている。
豊かな水が山を下り、地下水脈となって、東方諸国の方々の城砦が抱えるオアシスをうるおす。伏流水は、広大な砂漠の地下を延々と流れてゆく。帝都を要害の地とするように並ぶ堅牢な山脈の各所で、地下から絞り出されるようにして地上に出て来る。それらが合流したものが、帝都を並行して流れる二大河川のひとつ、『ユーラ河』だ。
微かに聞こえて来るのは、ナツメヤシの木々のザワザワという葉音。
冷涼な夜の風が吹き、ブルリと身体を震わす。
「どうしましょうかね……お金も持ち出せなかったし」
突然の変化に、オババは呆然として呟くのみだ。
立ち上がろうとして、老女は足をふらつかせた。アリージュ姫がサッと支える。
――さいわい、市場からは、あまり遠くない。
「とにかく市場へ……オババ殿、この衣装を売れば、当分の生活費くらいにはなるから」
「おお、売るなんて……確か昔の知り合いが住んでいた筈……城壁の町のほうに」
「パルを送ってくれた人? 遠いから、途中でオババ殿が風邪ひいちゃうよ。急ごう。ゴロツキ邪霊の、本物の《骸骨剣士》と鉢合わせする前に」
アリージュ姫は一歩を踏み出し、ふと気づくところがあって空を仰いだ。
……そういえば、パルは何処へ行ったんだろう? いつも後を付いて来るのに。
ふわもち『いちご大福』な、ちっちゃな白文鳥の姿をした《精霊鳥》。暗闇の中でも飛べる。時には何故か、どうやるのか分からないけど、壁さえ突き抜けて飛ぶ。古代の失われた技術――超転移を知っているかのように。
一瞬の違和感。不安と疑問……そして。
2人は、夜のとばりが降りた街路を、慎重に歩き始めたのだった。
*****
――カネ。とにかくカネだ。
カネが無いから、何もできない。
最後には、息をすることだって、できなくなるのだ。
こんな不運に見舞われる羽目になっても、トルジンにやり返すことすらできない。
そんなことよりも、どうやって明日を迎えれば良いのか分からない……そっちのほうが、よほど恐怖だ。
どこから連れ込んで来たのか分からないが、『本物のアリージュ姫』を名乗った見知らぬ銀髪の姫は、うなる程の大金を持っていた。
御曹司トルジンにとっては、あの大金が、不意に現れた正体不明の女の身分立場を証明し、保証しているものになったのだ。
――あれ程の大金が、私にもあれば。
そう、何とかして、あれくらいの大金を一気に稼げれば。
真実という色を付けて、正当性を、正義をも証明するのは――カネが生み出す、『信用』という名の、権力にして魔力。
男の愛情だって、カネで買える……いえ、愛情は所詮、気まぐれなものだから不要。カネで買える、忠実な戦闘力だけで結構。
――あの盲目的なまでにトルジンに忠実な、黒い刺青をした巨体の戦士のような。
東方総督トルーラン将軍の汚職や賄賂の噂は、市場を巡っていると、どんどん耳に入って来る。それも、非常に確かな筋から。
そもそも、その辺のどこにでも居るような平凡な将軍のひとりだったトルーランが、いきなり東方総督の地位を得たのも、賄賂の力だという情報がある。これは、かつての東方総督だったという人物が、賄賂の競争で力及ばず失脚した後で、うらぶれた酒場へ入り浸って大声でわめいていた内容だから、確実だ。
そして、シュクラ山岳王国を制圧した後、トルーラン将軍の私有財産が急に増加し、帝都への賄賂の額も増えたという話……
――ゲスのトルーラン将軍、シュクラ王国の特産物や王国所有の財産を、不正かつ強欲にかすめ取って、私腹を肥やしたということだ。今だって、シュクラ・カスバを経済封鎖して困窮させておいて、なおも民に重税を課して搾取しているのだ。
帝国において違法性を問われるほどの専横だ。現在進行形で、この目の前で起きている。それなのに帝都の、その筋の役所で取り沙汰されることが無い。『賄賂』や『袖の下』で、見て見ぬふりをしてもらっているに違いない。
カネは道理をねじ曲げることができるのだ。カネというものの威力は、つくづく、すさまじい……
……犯罪をしてでも、大金持ちになってやる。
そうしたら、生死不明かつ行方不明の従兄、シュクラ王太子ユージドを探しに行ける。死んだなんて信じない。
探して、見つけて……それから、それから……
……
…………
いつしか。
ボンヤリと、東帝城砦に到着した第1日目が思い出されて来た。
喪に服していた期間だったため、当時7歳のアリージュ姫は、暗色の長いベールで上半身をスッカリ覆っている格好だった。
シュクラ山岳から降りて来て、砂漠を渡る隊商スタイルの人質の使節を仕立てて、4つほどのオアシス集落を通過し、東帝城砦へと赴いて……
東帝城砦から派遣された衛兵団と、亡きシュクラ王妃の血縁と言うことで加わっていたオリクト・カスバの衛兵団が、ずっと警備していた。それを除けば、故郷から付き添って来ていた随行は、世話役を務めるオババ殿と、送迎を務める元・シュクラ王室の侍従長。それに、小間使いを務めるシュクラ貴族の少年。
母の急死でショックを受けていたこともあって、元・シュクラ王室の侍従長と、シュクラ貴族の少年のことは、あまり覚えていない。
――キチンとしたオジサンと、割と顔の整っている年上の男の子――という印象だけだ。あの男の子は、従兄ユージドと同じくらいの年頃……もう少し上の年齢だったかも。そんな感じ。
東帝城砦の宮殿の、贅沢な謁見室で。
――「喪中だろうと構わん、その陰気なベールを外せ」
勝者ならではの立場でもって、トルーラン将軍は、王族に対してぞんざいに命令して来た。暇つぶしの酒杯をいい加減に持ったまま、傲然と。いわゆる『勝てば官軍、負ければ賊軍』だ。
おそらく『シュクラの銀月』とも言われた亡き母の面影が、たった7歳の娘にあるのかどうか、見るだけはしてみようと思っていたのだろう。
トルーラン将軍は、息子トルジンと同じように見事な赤毛の持ち主だった。
パッと見た目はビックリするくらいの、水もしたたる美形で、ヒゲも美しく整えられている。中年男にも関わらず、将軍として、身体もそれなりに鍛えていて、壮年の若々しさを維持している容姿。20人以上のハーレム妻を夢中にさせている、というのも頷ける――と思えるくらいには。
……トルーラン将軍に対する、アリージュ姫の第一印象は。
奇怪で、醜悪な――『人間の皮を美しくかぶっただけの、何か』。
締まりの無い、ブヨブヨとした雰囲気を感じたのだ。ぞんざいな言動のせいか。傲慢な態度のせいか。それとも、そういう表情をしているせいか……
7歳のアリージュ姫には、それ以上の、大人の後ろ暗い意図など理解できる筈も無く。素直にベールを外した。
――オババ殿と、オジサンは、苦い顔をしていて。付き添って来ていた年上のシュクラ少年は、ビックリしたという顔をしていて。
トルーラン将軍は、それなりに満足していたのだと思う。
戦乱の真っ最中に目撃した、三つ首の巨大化《人食鬼》のようなギラギラした目になって……にじり寄って来て、身体のラインをベタベタ触って来ていた。
刀剣を握る者にしては綺麗な手肌と爪をしていたが、嫌な感じでいっぱいだった。討伐した《人食鬼》の血にまみれた前線の兵たちの、荒れた手のほうが、よほど安心できるような気がするくらいだ。
形だけは美々しく整えられていたヒゲの下、浮かんでいたのは、ねばついた雰囲気の、ゾッとするような不気味な笑みだった。おぞましいばかりの、あれを、『満足した顔』と言うのかどうかは、今でも謎。
その日の夕食は、「最後の晩餐」とでも言うような暗い雰囲気だった。
アリージュ姫の記憶は、そこで、いったん途切れている。
夕食を済ませて、奇妙にペラペラでフリフリな寝間着を着て、ベッドへ入る準備をしている最中に……とんでもない高熱を出して倒れ、死にかけていたのだ。
――あとで鏡を見て、「この骸骨の子、死んでるの?」とオババ殿に聞いたような気がする。化け物のような骸骨顔で、全身も骨と皮だけのようになっていて、暗い色のシミが全身に刻んだ刺青紋様さながらに浮いていた。髪の毛もゴッソリ抜けていた。
暗い黄土色のシミは成長と共に薄れていって、10年後の現在は、ほとんど目立たない。いったん禿げてしまった頭も、新しい髪の毛が再び生えて来た……この骸骨顔にピッタリの、不健康にパサついた灰髪ではあるけれど、今となっては笑い話にできる。
トルーラン将軍は、1回、お見舞いなのかどうか分からないが、顔を見に来て……その美形中年な顔に恐怖と嫌悪を浮かべて後ずさった後、いかにも失望した、興味が無くなった、というような態度になった。
翌日から、何かの訂正といった内容の書簡が、往復していたらしい。
『アリージュ姫は、御曹司トルジンのハーレムに輿入れした(正式な輿入れおよび夜伽などは成人になってから)』
人質の塔に、オババと共に軟禁された後は。
元・シュクラ王室の侍従長やシュクラ貴族の少年とは、それきり、再会はかなわなかった……
…………
……
夜が更け、空気は冷え切っている。
石畳の無機質な冷たさがジワジワとしみて来て、体力を奪っていく。
目の端に、あふれるものがある。
アリージュ姫は歯を食いしばって……しばし、夜空を仰いだ。
いつしか、十六夜の銀月が高く高く上昇していた。晴れわたった夜空いっぱいに銀月の光が満ちている。
銀月の光は力を与えてくれる。何故なのか、月光浴の後は体調が良い。元々、床入りの夜がこの日に――満月の夜の後に――決められていたのも、それがあってのことだ。
足元のおぼつかない老女の身体を支えなおす。なけなしの体力を、いま一度ふりしぼり……アリージュ姫は、また一歩、踏みしめた。