月食の夜の幕間劇:闇と銀月の夢がたり(後)
泡がゆっくりと水面に浮上するように、アルジーの意識は浮上し……ポンと開けた。
多種多様な化粧品の匂い。
ぼんやりと目を開けてみると、いかにも「その手のもの」なレースの付いたペラペラの高級な紗幕。ザクロの実をモチーフにした色っぽい置きランプ。娼館の中。
幾何学的格子の窓枠……その外は、夜だった。
満月だが、それにしては月光が弱い。改めて見ると、月の色は暗い赤みを帯びている。その形も欠けているところだ。
枕で「ぴぴぃ」という白文鳥《精霊鳥》、相棒パルの声が上がった。
『皆既月食の後半だよ、アリージュ』
次に、ちっちゃな白文鳥の身体が頬に触れて来た。換羽は後半に来たところか。新しく生えて来ている羽毛が、チクチクする。
相棒パルの全身は、古い羽毛がゴッソリ抜けてスゴイことになっていた。地肌が見える箇所もあり、これで、よく飛べるな……と思うくらいだ。
脇で人の気配が動く。
ホッとしたような顔をした女商人ロシャナクが、のぞきこんで来た。鬼耳族の出身の、年齢不詳の美人だ。ベールを上げていて、髪の間から、スッと先端の伸びた鬼耳が見えている。
「……ロシャナクさん」
「目が覚めたかい、アルジー。うちのミリカたちが、ビックリして運び込んで来たんだよ。あんた高熱を出して、ぶっ倒れたって言ってさ。野菜売り場の真ん前で」
「あ、ありがとう……ございます」
「お礼は、あんたが石畳に頭を打ち付けるのを止めてくれた男子通行人に言うんだね。まぁ、こっちのほうで、お礼済みだけど」
「男子通行人?」
「覆面ターバンで顔ほとんど隠れてたけど、金色の目をしてたよ。武者修行中の訳ありの御曹司っぽい感じだね。一時的に傭兵とか、隊商の雑務をやってるらしい。目鼻立ちは綺麗な感じだったし、酒姫もイケる体格でさ、勧誘したんだけどね。忙しいとかで、すぐ行っちゃったよ」
「そうですか。えーと……まだ今夜ですよね」
「真夜中を過ぎたばかりだよ」
女商人ロシャナクは、窓の上のほうをヒョイと見やった。先程よりも少し形の戻った月が浮かんでいる。
「皆既月食の予想は神殿の天文台から出てたけど、ウッカリしてたんだろう。月食の始まりと同時に倒れて、皆既の後半に意識が戻るなんて、変に精密な体質だね。《炎冠星》の軌道と交差してないとかで、炎冠の無いほうの普通の赤い皆既月食だけどさ、どっちのほうが響くのかは、あたしは知らんから」
女商人ロシャナクはアルジーの額に触れ、「熱は下がってるね」と頷き、部屋の中を見回した。
「ここ、例の御曹司が『もげた』部屋なんだ。消毒済みだよ。あんな出来事があった部屋だから、縁起でもないって言って、お客さんが寄り付かなかったんだけど、もっけの幸いかね」
ボーッと聞いているうちに、いつもの思考が戻って来る。ふと手をうごめかせて、アルジーはハッと息を呑んだ。シッカリ持っていたアレが、無い。
「カ……カネ! あの帳簿……為替は、カネは!」
「三言目にはカネかい。気絶中も、あの包みを恋人みたいにギッチリ抱き締めて離さなかったし、トコトン、プッツンしてるね」
アワアワしながら身を起こし――再び貧血を起こしてベッドに沈んだアルジーを眺め、ロシャナクは呆れ顔だ。
「心配しなくても、そこのランプ台のとこに置いてあるよ」
ザクロの意匠をした色っぽいランプを見直してみると、確かに、そこに帳簿やら、いつも持ち歩いている筆記用具やらがある。
女商人ロシャナクは手慣れた風で、タジン鍋の野菜煮とナツメヤシの乾燥果実を出して来た。家庭料理の定番。
「明日は繁忙期なんだろ、シッカリ食べて、ゆっくり寝てな。アンアン言ってる声とか騒音とか気になるようだったら、うちら鬼耳が愛用してる強力な耳栓あるよ。それで――純粋に興味から聞くんだけど、夢を見てただろ。何の夢を見てたんだい、アルジー?」
「夢って?」
「妙にハッキリしたうわごと。桑の木とか、銀月とか」
「……だいたい母の夢かも。いつもは、あまり……」
「そうかい」
女商人ロシャナクは納得したように頷き、思案顔をして、静かに珈琲を飲んでいたのだった。
格子窓を通して、歓楽街のざわめきが聞こえて来る。
路上には、夜を徹して営業する屋台店が並んでいるのだ。
酒・タバコや珈琲類の提供、および、クジ引きで『レアな紅白の御札』を当てる賭博の楽しみを提供している。『レア御札』は、歓楽街ならではの「酒の素晴らしい味と酔いが来るオマジナイ」「情事がもっとスゴクなるオマジナイ」という商品だ。
通りから聞こえて来る賑やかなざわめきに耳を傾けていると、やがて、酔っ払い同士の大声の自慢話が聞こえて来た。たいていは、「砂漠の真ん中で、こんな巨大な怪物を倒したんだぞ、すごいだろう」という類のもの。
女商人ロシャナクは持ち前の地獄耳でもって、不意に気になる話題を捉えた様子。格子窓に顔を寄せ、先祖から遺伝した鬼耳をピクピクと動かし、内容を拾い始めた。
「ありゃ御曹司トルジンの武装親衛隊の面々だね。路上で、三つ首の怪物まとめて一刀両断したって噂の、無敵の黄金巨人『邪眼のザムバ』、謹慎が解けたってんで祝賀会らしいね」
クジ引きで『レア御札・素晴らしい酒』が当たったという騒ぎが響いて来た。ザムバは早速それを使ったらしく、ヤンヤの喝采が聞こえて来る……
……
「おぅ、まるで八叉巨蛇だな、おい。しかもパンツはシマシマかよ」
「あの神殿のアホ調査官め、アサッテの疑い振りかけて来やがって、一刀両断にしてやったわ、グァハハハ!」
聞き手のビックリしたような騒ぎが続く。
「調査官を殺したんかい」
「いや、疑惑を斬ったって意味さ。あのハシャヤル殺害の時、ザムバは野次馬と来るまでは火事現場に居なかったって証明されたんだよ。」
「ホレ、あの黄金の《魔導陣》や《魔導札》って、攻撃力が大きい分、標的に接触しなきゃいかんだろ。あそこまでジン=イフリートを執着させるには、呪殺の《魔導札》を、事前にハシャヤルに食わせる必要もあったしな」
「いったい誰が、ジン=イフリート《魔導札》と、呪殺の《魔導札》を仕掛けたんだか」
「グァハハハ」
ビリビリと響く轟音のような声質。ザムバの哄笑と知れる。さすが巨人族の末裔というだけのものはある。
「新しく逮捕されて来たヤツが居たぞ、シュクラ・カスバのタヴィスって老いぼれ野郎が。ああいう貧相なヤツがやったに決まっている。俺みたいに、大物の《三つ首コウモリ》や《食人鬼》すら斬れないヤツがな、グァハハハ」
「あんたは特殊なヤツなんだよ、ザムバ」
娼館の一室まで響いて来る、酔っ払いの騒音。
……アルジーはベッドの中で固まっていた。
最近、かの『邪眼のザムバ』が《三つ首ネズミ》《三つ首コウモリ》をギタギタに殺戮しまくった日。ザムバとの、異様な遭遇があった日。相棒の白文鳥《精霊鳥》パルが、物言わぬ石のようにされて、固められてしまった――あの謎の怪奇現象に対する恐怖トラウマは、大きい物がある。
でも。それにしても。
「……『邪眼のザムバ』って、あんなに喋る性格だったっけ……?」
女商人ロシャナクが、不思議そうな顔をして振り返って来た。
「巨人族って酒好きだよ。古代の巨人は象より大きかったという伝説もあって、その頃は八叉巨蛇みたいに、1人で大樽いっぱいの酒を8樽も飲み干したらしいし。酔っぱらうと過剰に陽気になる。あいつらも、それが分かってて飲ませてる」
――神殿の調査官が確認したくらいだから、ザムバは、ハシャヤル殺害に関する限り、無実なのだろう。
怪しさ一番だと思っていた『邪眼のザムバ』は、犯人じゃ無かったのだ。調査次第ではひっくり返る可能性もあるけど、多分、それは無い。
じゃ、風紀役人ハシャヤルを殺害した犯人は、誰……?
……その後も、ザムバの一団の騒ぎは、深夜まで続いたのだった……
……
…………
疲れ果てていたアルジーは、銀月の光が差す高級娼館『ワ・ライラ』二階の一室で、寝入っていた。
歓楽街の路上、夜を徹して営業する屋台店でつづく酔っ払いの騒ぎ。『邪眼のザムバ』の轟くような高笑い。
その目立たない片隅に、あの金色の目をした男子通行人――濃紺ターバン青年がひっそりと佇んでいた。覆面ターバンの隙間から見える目元は、きつく眉根が寄せられていて、厳しく近寄りがたい雰囲気。
その足元で、子猫の火吹きネコマタが、2本の尻尾の先に火を灯してお座りしていた。不思議な毛並みの良さ。いつだったか、早朝の市場の隅の路地裏に出現して、アルジーと一緒に居た行商人の夫婦に白身魚の切れ端をねだっていた個体である。
やがて……ふらりと、もうひとつの人影が現れた。隙の無い身のこなしは、明らかに熟練の戦士のものだ。
濃紺の覆面ターバン青年が、その人物を振り返って、一言二言、苛立たし気に何かを言い放つ。
その人物は、おもむろに腕を組んで何かを説明……いや、弁解し始めた。
やりとりが一段落した後。
相当に長い間、濃紺の覆面ターバン青年は、通りの反対側に建つ高級娼館『ワ・ライラ』二階の、アルジーが居る一室のあたりに視線を走らせていた……
見えないところでピリピリしている、そんな時間が過ぎてゆく。
そして……黄金色のテラテラ肌をした巨人戦士『邪眼のザムバ』と、その巨体を取り巻く一群が、動き出した。「我が世の春」とばかりに肩で風を切りながら、西の商館の方へ移動し始める。
濃紺の覆面ターバン青年と、もうひとつの人影は、隠密そのものの技術でもって『邪眼のザムバ』とその取り巻きを尾行し始めた……
*****
アルジーのあずかり知らぬところでの、出来事。
月食が終わり、煌々と輝く十五夜の満月が西に傾いたころ――酒宴もたけなわとなる深夜の時間帯。
西の商館の地下では、話題の石膏人形バージョン《骸骨剣士》が舞い踊る、怪奇趣味の賭博の宴会が開かれていた。
暗い金色に着色された夜間照明用のランプが意味深に置かれ、水タバコの煙がモウモウと立ち込める。あちこちで、水タバコの達人によるスモークリングが吐き出されていた。
賭場でやり取りされる、コイン型のガラス製チップが、際限のないジャラジャラ音を立てる。
造り物の《骸骨剣士》ダンスに合わせて詠唱される邪霊崇拝の祭祀呪文は不正確なものだったが……ガラス製チップのジャラジャラ音と共に、おどろおどろしく響いていた。
度を越した深酒でへべれけになった、若干よろしくない連中の間で……「誤魔化したな!」という類の、殴る蹴るの乱闘が始まった。
黄金色のテラテラ肌をした巨体戦士『邪眼のザムバ』も、その取り巻きも、その血の気の多さでもって乱闘に参加した。
よくある場外乱闘ではあったが、酒宴で提供されていたアルコール度数の高い酒は、いったん火が入ると、良く燃えた。高々と燃え上がって……それは立派なボヤ騒ぎになったのだった。
「おい、放火犯は誰だ!」
「あの黒衣のイカレポンチ魔導士だ、やっちまえ!」
「この放火魔、バラしたるわ」
イカレポンチ魔導士と名指された、その謎の黒衣姿が、サッと腕を振ると。
真紅の炎で出来た冠のような《魔導陣》が閃いた。それは爆発しなかったものの、瞬時に空気を熱し、爆風の壁となってゴロツキ共を弾き飛ばしたのだった。
目撃者の一部がざわつき出す。
「あいつ、火のジンを思うままに操れるってのかよ」
「アレくらい自在に誘導できるのって、偉大なる魔導士ザドフィクくらいじゃねえか?」
「帝国宮廷の魔導大臣の?」
同時並行で、秘密裏に潜入していた謎の傭兵姿の一団が、賭場の主催者の面々を次々に拘束、連行していった。謎の傭兵団が装備していた防具――手甲には、帝国の紋章が刻まれていた。それは、連行されて姿を消す羽目になった、賭場の主催者たちしか知らぬ事実である。
一方で、ボヤ騒ぎと主催者不在をチャンスとして、賭場の金庫から、現金がゴッソリ持ち出されていった……
不埒にも現金やチップを盗み出した参加者たちの中に、釈放されたばかりの、アルコール中毒の中年男ワリド氏が含まれていたことは特記に値する。
そして、一般世間の中では口にのぼることの無い、だが、極めて重要な出来事が進行していた。
古代めいた《精霊語》が、呪文のように流れていたのだ……
――『千の夜と昼』。
*****
暗い金色をした《炎冠星》が絡まない、通常の月食は、持続時間が長い。
その長い持続時間が終わり、更に、満月が完全な姿かたちを回復しようとする刻。
人類の目に見えぬ、精霊の次元が大きく揺動した……
……『千の夜と昼』……
高級娼館『ワ・ライラ』の一室で熟睡していたアルジーは、不意に……不自然に目を覚ました。
グラリと世界が傾いで、時が止まったかのような――不吉な気配。
卓上ランプの灯は、芯を燃やし尽くして、消えていた。
いまや形を回復した銀月の光が、幾何学的格子の窓枠を透かして差し込んで来る。
いつの間に移動していたのか……白文鳥《精霊鳥》パルが、アルジーの枕元に居て、不安そうに羽を震わせていた。
アルジーは、ボンヤリと首を傾げ。
「明日は忙しいから……」
フウッと息をついた後、再び眠りに落ちていったのだった。




