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月食の夜の幕間劇:闇と銀月の夢がたり(前)

西の地平線の彼方で、灼熱の太陽が少しずつ、その身を沈めていった。


高層建築は夕陽の赤さに輝いていた。その狭間で陰になっている下町の数々は、すでに夕宵の暗さだ。あちこちの路地裏で、夜間照明のランプが灯ってゆく。


アルジーと、『ワ・ライラ』の遊女たちの一団は、市場バザールの一角へと帰還していた。


広場には、出来合いの夕食を提供する屋台店が、ずらりと並んでいる。仕事帰りのターバン姿の男たちが串焼きの肉などを買い、慎ましいベール姿の主婦たちは野菜売り場のほうで品定めをしていた。


野菜売り場は多彩な品揃えだ。ナツメヤシの実は定番の果物。新しく入って来たらしいキュウリ、ナス、ウリ。


多数の人波をよけて、市場バザールをぐるりと回っているうちに、日没の刻を過ぎてゆく。


遊女たちの本拠地、高級娼館『ワ・ライラ』のある街角までは、まだ幾つかの広場と十字路を渡る必要があった。アルジーの代筆屋のある路地裏は、さらに奥まった位置にある。


「あー、それにしても記録に残らない、残せない金額せしめるって考えたもんだね、アルジー」


遊女ミリカが野菜を選びつつ、感心した様子でアルジーに声を掛ける。


そのアルジーは、『不正な経理記録と、使途不明金の金額分の為替書類』の入った包みを、ヒシッと抱き締めているところだ。何があっても絶対に離さない、という気迫でもって。


「がめついねぇ」


再び遊女ミリカが声を掛け、ほかの遊女仲間たちが思い思いに別の市場バザール商品をチェックし始め……


日没後の空気は、見る見るうちにヒンヤリとしていった。


東の空では満月が姿を現し、次第に高度を上げ始めている。


夜のとばりが降りる空の下……街路を行き交う人々も、思い思いにマントやストールを巻き付けて、夜間の出で立ちである。


アルジーは、不意に立ちくらみを覚えた。


相棒の白文鳥《精霊鳥》パルが、けたたましく鳴きながらターバンの隙間から飛び出した。


『月食! 今夜は皆既月食だった!』


ビックリするような数の、小鳥の白羽が舞い散る。


アルジーの目の前で、市場バザールの吊りランプが傾き、グルグル回り始めた。


――身体が傾いたようだけど、ハッキリしない……何だか熱くて、自分の身体じゃ無いような……あ、発熱? 体力の余裕が無かったのをスッカリ忘れていて、無理したから?


先ほどから、こちらを眺めていたらしい通行人の青年が、「アッ」と目を見開いていた。最近、何処かで見たような、濃紺の覆面ターバン姿だ……


「……おい!」


濃紺の覆面ターバン青年の慌てた声……タタッと駆け寄る足音。


――いまは、此処で倒れる訳にはいかない。


シュクラ王太子のみが持つ腕輪アームレットの気配。あのシュクラ青年に早く会って、もう一度、確かめなきゃいけない。金融商オッサンの店で待ってれば、会える筈。


それから、タヴィスさんへの疑惑を晴らして、それから……


一瞬よぎった天空の景色の中。


端の欠け始めた銀月が、輝いている。


アルジーは夕食を買い食いする人々が行き交う市場バザールの真ん中で、意識を失ったのだった……


*****


いつしか、アルジーは夢を見ていた。


――どうやら、6歳か7歳の頃に戻って来ているようだ。


故郷、シュクラ王国のアリージュ姫だった時の出来事を、夢に見ているのだ。


アルジーがそう思ったのは、何となく覚えのある子供用ベッドの中で、不意にパチリと目を開いたからだ。


シュクラ様式仕立ての格子窓の外、天頂に近い位置に満月が掛かっている。


月食の夜。


半分以上も欠けた銀月が、赤みを帯びた光を地上に投げていた。


純白の雪をいただく連嶺が、息を呑むほどに近い。月光が暗赤色に近づくにつれて、現れて来るのは満天の星空だ。


山岳の中腹あたり、断崖絶壁の地形に沿うように造成されたシュクラ王宮。


上古の《風の精霊》に属する一柱《白孔雀》を崇拝する――というお国柄を反映して、礼拝堂のドーム屋根は、空の色を表す青と翼の色を表す白のタイルで、装飾されていた。


その一角に、シュクラ王室ご用達の庭園がある。地形に沿って、こじんまりとした区画に分かれているため、山間の菜園や薬草園といった雰囲気である。


格子窓の並ぶアーチ回廊沿いの、こんもりとした桑林の間を、ユラユラと銀色にほのめく人影が横切る。


――お母さまだ。


長い銀髪の女性が、ベールを外したまま、小さなランプを持って夜歩きをしていた。《シュクラの銀月》の、星明かりにさえ輝く銀髪が、幼い子供にも分かる目印になっている。


幼いアリージュ姫は、その時は何故か、ピンと直感が働いた。寝かされていた子供用ベッドからコソコソと抜け出し、物陰に隠れながら、母親――シェイエラ姫の後を付いて行く。


夜の庭園に佇む母親の後ろ姿。豊かに流れる銀髪。星空を眺めている。


ランプを持つその腕に、ふわもち白文鳥の姿をした《精霊鳥》が止まっている。冠羽をピッと立てて「クルクル」さえずっているところ。


星空を眺めていると。


ボンヤリとした流れ星が現れ、スーッと落ちて来た。それはフワフワ・モチモチの度を増しながら、ドンドン大きくなった。毛玉みたいな流れ星だ。


白いケシ粒だったのがマメ粒になり、手乗り大福になったかと思うや、庭園の桑の木の中に飛び込み、ポポンと弾みながら着地する。


シェイエラ姫が、その部分に手を入れ……そして取り出す。手の上には、白い小鳥が乗っていた。


白文鳥の姿をした《精霊鳥》。


何故なのか、換羽の真っ最中の時みたいに全身の羽毛が剥げていて、疲れ切っているようだ。それでも、さえずるくらいの体力はあったようで、かねてから待ち受けていたらしい1羽と一緒になって、ピヨピヨと何かを話しかけている。


シェイエラ姫は長い銀髪を揺らし、「うーん」と考え込むような仕草をした。


『何を言ってるのか良く分からないの、ごめんなさいね。《精霊語》がどれだけ出来るかは個人差が大きいから。私の娘は、オババ殿がビックリするくらい《精霊語》の才能があるから、明日、いろいろ話して、遊んでやってくれると嬉しいわ。実を言うと、ピッピの言葉を聞き分けて、今夜ポポンが来るらしい、と教えてくれたの、アリージュなのよ』


シェイエラ姫の《精霊語》は、半分以上は人類の側の方式。全体としては、たどたどしい物になっている。


しかし、2羽の白文鳥のほうは理解できたようで、そろって首を傾げた後「ぴぴぃ」と返していた。


夜空が闇の度合いを増したような気がして……再び、振り仰ぐ。


いつしか、もうひとつの背の高い、なじみ深い人影が、シェイエラ姫の傍に立っていた。お父さまだ。


鷹匠。


その腕には……ビックリするくらい大きな白タカ《精霊鳥》が止まっている。白タカ《精霊鳥》シャールよりも、もっと大きい。むしろ白ワシに近いかも。


ふたつの人影となった両親は、再び満月を眺め始めていた。


皆既月食だ。


暗赤色をした闇の月。さらに向こう側に謎の天体《炎冠星》が重なる。奇妙に闇色を思わせる暗い金色の炎冠が、暗赤色をした月影の周縁をチラチラと取り巻いた。


太古から続く天空の舞踏劇――《闇と銀月》の時間。


やがて銀月から暗赤色の陰影が外れてゆき、暗い金色の炎冠も消えた。


かの《闇と銀月》の極まる時間は、10分かそこら……《魔導陣》の効果が、長くても10分くらいしか続かないのと同じように。


闇と銀月……


そのような題名の四行詩を見た記憶がある。無名詩人カビーカジュ・作。


――千と一つの夜と昼 すべての星が落ちる時

天の果て地の限り やよ逆しまに走れ 両大河ユーラ・ターラー

千尋の海の底までも あまねくべるは 闇と銀月

三ツ辻に 望みを捨てよ 巌根いわねひとつを ともにして――


そして、夢の場面が変わった。


……母シェイエラ姫が死んだ日だ。


幾何学的紋様に彩られた仕切り扉の向こうで、人が倒れたような音――そして、オババ殿の叫び声。


幼いアリージュ姫は、全身がグラリとかしぐと共に、時が止まったような不吉な空気を感じ……不意打ちの直感のままに、格子細工の扉を開けて、飛び込んだ。


床に散らばった、長い銀髪。


いつもの母親の姿とは似ても似つかない。けれども目鼻立ちは共通の……骨と皮だけになって横たわる、骸骨のような女性。見える手先や顔面には、びっしりと、暗い黄土色をした紋様が張り付いている。


――生贄《魔導陣》。


オババ殿がものすごい力で引き留めたため、アリージュ姫は、それ以上、母親と思しき女性に近づけなかった。


見る間に、生贄《魔導陣》は暗い色をした黄金の炎を噴出した。横たわった骸骨の如き姿をしたものは、お焚き上げされているかのように全身を燃やされ、本物の白骨死体になり……


……《銀月の祝福》によるものであろう、一瞬、暗い色をした黄金の炎の中で、銀月の色が閃く。


そして、細かく砕けながら、暗い黄金の炎をした闇に呑み込まれていった。


『九百の夜と昼……』


地獄の底で巨大な怪物がうめいているような……古代めいた《精霊語》による、不気味な音声が陰々と轟き。


暗い色をした黄金の炎が消え、そこに残ったのは。


その時、母が身に着けていた長衣カフタンその他の、着衣だけだった……

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