人質の塔の姫君(前)
日没の刻を過ぎてなお冷めぬ熱砂が、大地いちめんに広がっている。
御年17歳、亡き母君の形見でもある祖国伝統の花嫁衣装をまとったアリージュ姫は、フツフツとたぎる怒りに、全身を震わせていた。
「やっと来た婚礼の夜だよ。花嫁はニコニコしてないとね、姫さん」
世話役オババが、近くで卓上ランプを調整している。
「帝都の回し者へ向ける愛想はひとつも無いわよ、オババ殿」
ダン! と、姫君の足が踏み鳴らされた。
ボコボコボコボコ……!
コーヒー滓を詰め込んで梁から吊るしていた消臭用の麻袋に、強烈なパンチとキックを続けざまにお見舞いする。長く引いた長衣ドレスの袖や裾が、白い花弁のようにひるがえった。
「まして祖国を滅ぼした敵どもには! お従兄様が行方不明で! 生死不明なのも! 奴らのせい!」
べっこぉん。
会心の回し蹴りで、一連の攻撃セットを仕上げる。
麻袋に描かれた似顔絵が凹んだ拳痕や足跡だらけになったところで、姫君は「フーッ」と息をついた。ほとんど威嚇のほうの息遣い。
オババは困ったような顔でアリージュ姫を眺めていた。その紺の長衣の上には多種類のエスニックな首飾りが重なっていて、所作のたびに、数珠やチェーンがシャラシャラと鈴のような音を立てる。
「また市場を駆け回って、方々の隊商の話を聞き込んで来たんだね。7歳の頃は、姫さんは、あんまり事情を分かってなかった筈だけどねえ」
――それは否定しない。
10年前、7歳の時に。亡国の唯一の王女として、敵方のハーレムへ既に輿入れしていた状態だった。
――という政略結婚の事実も、理解していたとは言いがたい。
この輿入れは、戦乱の中で行方知れずになった5歳上の従兄・シュクラ王太子ユージドに代わる人質も兼ねていた。元・シュクラ山岳王国すなわち現『属国シュクラ・カスバ』の民が、東方総督ひいては帝国への反乱など考えないようにするために。
当然、このささやかな塔の中の居住スペースは、人質を押し込めておくための軟禁仕様だ。出入りは、この部屋の扉に限られている。
もっとも山育ちで身軽なアリージュ姫にとっては無意味な措置であった。
アリージュ姫は、扉に控えている見張りの目を盗んで、バルコニーからロープを垂らして抜け出し、宮殿をめぐる城壁を伝い降りて城下町へと紛れ込み……従兄ユージドの消息や時事情報を求めて、日ごと市場へ繰り出していたのだから。
――でも、今は。
何もかもが恨めしい。
偶然シュクラ王国の姫に生まれついていたことも、ハーレム妻として生きるしかない女の身であることも、オババ殿を抱えて逃げ出せるだけの腕力が無いことも。
大きなバルコニー窓へ、怒りの眼差しを向ける。
地平線の彼方、何処までも広がる砂漠は、まだ残照の赤らみを含んでいた。空は、紫色から藍色のグラデーション。
幾何学格子の窓枠で紗幕を揺らすのは、オアシスの水面のうえを吹き渡って来る夜風。
やがて、光量を増したランプが、部屋の中を明瞭に照らし出した。
豪華な宮殿の一角にある塔の、バルコニー付きのささやかな居住スペース。それなりに格式と華のある家具調度が整っていて、うら若い姫君の部屋らしい雰囲気。所々に祖国シュクラの古い小物や織物が仕舞われている。
オババの促しに従って、特製の麻袋を片付け。
姫君は、しかめ面をしながらも、ランプの傍に腰を据えた。
王女として育った娘であり、手肌や髪はひととおり手入れされているが……貧相さが不自然に目立つ。
「ハーレムの13番目の妻……13番目って!」
世話役オババとしては、苦笑いをしながらも、たしなめるしかない。
「寛大な配慮はしてもらってるんじゃ無いかねえ。王族は全員斬首のところ、軟禁だけで。ここより他の城砦へは移動禁止だけど。まして、あたしゃ、可愛い姫さんの花嫁姿を見られたんだからね」
アリージュ姫は、お行儀悪く鼻を鳴らした。
「オリクト・カスバのローグ様との、シュクラ王家の霊廟の相談や時節ごとの挨拶状さえ検閲されるって変よ。今は亡きシュクラ王妃さまの実家のところで、お従兄様の親戚でもあるのに。取次してくれる元・シュクラ侍従長っていう人とも、顔を合わせることもできないし」
弾劾の言葉が延々と続く。軟禁の人質生活も、もう10年だ。言いたいことは山ほどある。冒険者たちの話に聞く、世界最大の幻の山脈《地霊王の玉座》くらいには。
「東方総督トルーラン将軍が、シュクラ王国の財産ゴッソリ持って行ったうえに、帝国領土を宣言したという経緯だって、どう考えても不自然。『三つ首の巨大化《人食鬼》大群を発生させて帝国に攻め込もうとし、国境の安全保障における重大な条約違反と欠陥を呈したシュクラ王国ゆえ、ユーラ河の水源の保護管理も含めて、帝国の名のもとに確実に領有する』――」
「あぁ、まだベールを降ろさないで。紅を入れるから、動かないで」
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帝国の東方領土の支配の拠点、『東帝城砦』。
東方総督が住まう宮殿を擁する城砦。
大規模なオアシス都市であり、同時に、帝国の支配下にある東方諸国の城砦の交易ルートを束ねる、東方最大の市場都市でもある。
今宵は、いつもとは違い。
宮殿に併設されている豪華な聖火礼拝堂は、隅々まで《火の精霊》による特別な聖火が灯され、煌々と明るかった。華燭の典に向けた準備が、おごそかに、とどこおりなく進行してゆく。
緻密な幾何学的パターンを成すモザイクタイルとステンドグラスが荘厳するドーム空間の中、近隣諸国の城砦から招かれた貴賓たちが、そろい始めていた。
東方総督トルーラン将軍の御曹司トルジンのハーレムにて、13番目の幼妻が成人を迎えたのを機とした、改めての正式な輿入れおよび披露宴、床入りの夜となっていたのだった……