嘘つき騎士と鈴の音と一緒
嘘をつくと、鈴が鳴る。
それは背中に憑いた小さな悪魔が罪を重ねた数を、鈴を鳴らして数えているからだという。
学園に入るまでは、母から聞いたそんな話を大真面目に信じていた。
真実だけ話す方が難しいことに気付いたのはいつだっただろう。
人を傷つけることを避け、自分も傷つくことから逃げていたら、気付かないうちに誤魔化すことが普通になってきた。
別に好んで嘘をつきたい訳じゃない。皆が望むわたしでいたいだけ。
でも気づいてみれば、嘘をついて生きるのが嫌なくらいに上手くなっていた。
---
ソフィアは呼ばれた屋敷の庭で、一人夜風に当たっていた。
北東から吹く秋風は冷たく、思わず小さなくしゃみが漏れる。
数分前に日が沈んでから急激に冷えが増した気がする。闇夜とともに忍び寄る冬の気配と二人きりで過ごすには、ストール一枚では心許なかっただろうか。
とはいえ会場に戻る気にもなれない。趣味の悪い劇に巻き込まれることも憂鬱だ。
ソフィアはストールを身体に巻きつけると、首を縮めて丸くなった。
こうして寒空の下、屋外で震えているのには理由があった。
薄着で寒さを感じないわけではない。むしろ寒がりなほうだ。
夜会の始まる前、こそこそと裏で女性と複数の男性が話しこんでいるのを聞いてしまった。
女性のほうは見たことのない顔だったが、男性陣は騎士団長の長男に、公爵家の令息、リヴァク商家の一人息子、と知らない者の居ないそうそうたる顔ぶれだ。
わいわいと口々に下卑た笑い声をあげながら、責任を取らせるとか、婚約の破棄だとか、物騒な言葉を交わしていた。
どうやらパーティでなにやら騒動を起こすつもりらしい。
ソフィアは貴族には珍しくこの歳にもなっても未だ婚約していないため、巻き込まれることはないとすぐに分かったが、けして気分が良いものではない。
父に言われて仕方なく出席した夜会だったが、こんなことなら仮病でも使ってふかふかの布団で寝ていればよかった。
後悔しながらこうして花壇に腰掛け、じっと時間が過ぎるのを待っていた。
案の定、開始時刻から30分もしないうちに、屋敷の方から一際甲高い叫び声が聞こえてきた。
どうやら始まったらしい。
あの声は聞き覚えがある。公爵令嬢のアステイラ嬢だ。確か騎士団長の長男と婚約していたような。
さて、婚約破棄される渦中の令嬢は彼女か。
ソフィアはあまり関わったことはないが、苛烈な性格で、身分が低いものに対してはいじめのような事を繰り返していたと噂で聞いている。
まあ、自業自得だろう。正直なところ同情する気にはなれない。
それから口々に様々な声が飛び交う。相当混沌としているようだ。
貴族間での婚約破棄なんてまずあり得ないことだから、もし本当にそんなことが始まったのであれば当然だろう。
ふと、婚約破棄されるのはもしかして一人でないのでは?という荒唐無稽な考えが浮かんで思わず苦笑した。
一人でも大事件なのに、もしそんなことになったら王国始まっての醜聞だ。しかもその騒動を起こしたのが騎士団長の長男や、公爵家令息であってみろ。
いったい誰が、どうやって責任を取ればいいか、見当もつかない。
向こうがどうなっているかは分からないが、関係者たちで数分お話ししてはい終わり、という訳にはいかないだろう。
傍から見る分には喜劇だが、当人たちにとってみれば一世一代の修羅場だ。喧噪は収まるどころか徐々に大きくなっていく。
あの調子だと少なくとも2時間はここでこうしていないといけないだろう。
「はぁ……。」
思わずため息が出る。吐いた息で目の前が白く染まる。
頭上の満点の星々は地上の喧噪に興味がないかのように、思い思いに煌めいていた。
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『チリン……。』
20分ほどそうしていただろうか。
ふと、庭園の入り口の側から鈴の鳴る音が聞こえてきた。
初めは幻聴かと思ったが、どこか現実離れした橙髪の青年が兵舎のほうから現れたことで、現実だと分かった。
彼が踏み出すたびに、鈴の音が鳴る。騎士の制服を着た彼はにこやかに微笑みながら、ソフィアに近づいてくる。
騎士特有の重厚な歩き方ではなく、軽々とした脚運びだ。
どこか人間離れしたものを感じて、幼少のころに一度だけ行った神域の森の様子をふと思い出した。
青年はソフィアの目の前で止まると、鈴のような涼しげな声で囁いた。
「貴女は中には行かないんですか?」
もともと知らない人と話すのは得意ではない。一人で思索に耽るのは好きだが、いざ話を振られるとどうにも言葉が出てこない。
もちろん貴族であるからには『演じる』術は身に着けているが、いざ自分の言葉で話せとなるとあがってしまう。
しかし、ソフィアはこれまでに類を見ないほど落ち着いていた。
寒さがピークに達し、どこか現実離れしていて、夢の中にいる心地だったからだろうか。
「あら、わたし抜きでもお友達同士で楽しそうですもの。」
そういって、会場の方に視線だけ向けてみせる。無論皮肉だ。楽しそうとはほど遠い、先ほどからから泣き叫ぶような声が響き渡っている。
修羅場も佳境だろうか。悲鳴に合わせて、ガラスの割れるような音が鳴る。
「ふふっ、ホントだ。」
あの騒動が聞こえなかったわけでもあるまいに、青年は耳を傍立てると、楽し気に眉を少しだけ上げてみせる。
「お暇潰しましょうか、お嬢様。」
わたしの返事も待たずに、ふいと隣に腰掛ける。
格式ばった場でないとはいえ、貴族と一介の騎士が隣り合って座るのは、あまりに非常識だ。だが、不思議と無礼な感じはしなかった。
風で騎士服が巻き上がり、その拍子にリンと鈴が鳴る。
「その鈴は何?」
「ああ、これ?」
騎士服の裾に付いている銀の鈴を持ち上げる。
「最近王室で流行っているお守りだよ。邪気を払って安全祈願になるんだって。」
笑顔の青年をじっと睨みつける。深い赤の眼に吸い込まれそうになる。
「…嘘でしょ。聞いたことないもの。」
「あれ?ばれた?」
彼は悪びれる様子もなく、くすくす笑う。
あまりにお粗末な嘘、ばれないと思ったのだろうか。王室の動向はありとあらゆる貴族が、常に把握している。
もし本当にそんなものが流行っているのなら、夜会は鈴で鳴りやまなくなるだろう。
「うーん、人の注意って単純なんだよ。」
そういうと、裾に付いた鈴を軽く揺らす。
「こうやって音を鳴らしていると、音が鳴っているということだけ覚えているんだ。絶対に顔が覚えられなくなるんだよ。」
青年はチリチリ音を立てる。不思議と音が鳴るたびに輪郭がぼやけていくような気がした。
「ほら、ちょっと前に話題になった、顔にテープを貼った盗賊団って覚えてない?」
そういえば、聞いたことがあるかもしれない。
「確か、リスティン家が狙われた?」
「そうそう、よく知ってるね。」
「もちろん。だって……。」
あの奇妙な事件を忘れるわけはない。
数か月前に巷を騒がせた、資産家を狙って強盗を繰り返していた一団の話だ。白昼堂々、正面から押し入り、家人を殺傷して金品を奪う。
それでも目撃者は誰一人、彼らの顔を覚えていなかった。
「彼らが揃いも揃って、頬に赤のテープを貼っていたから。」
「ええ、そうね。覚えているわ。」
数多くの目撃者がいたが、揃って彼らは赤いテープのことを主張したが、他の特徴についてまともに覚えていたものは皆無だった。
男か、女か。犯人たちは顔を晒していたにも関わらず、それくらいの情報しか出てこなかった。
人は覚えたいことですらも、ほとんどまともに覚えていられない。
「殆どの人が、テープしか覚えていないんだよね。そんなもの、剥がしてしまえば何の手掛かりにもならないのに。」
青年は寂しそうな笑みを浮かべて遠くを見やった。
「つまり、貴方が鈴をつけているのは、そうしていると誰にも顔を覚えられないからってこと?」
「そういうこと。」
的を射たりとばかりに、指を立てる。
まじまじと顔を見つめる。確かに凡庸な顔立ちだが、覚えられないとは思えない。
しかし真剣な顔でわたしを覗き込む青年は、到底嘘をついているようには見えない。
少し考えて、わたしは呟いた。
「…やっぱり、それも嘘でしょ?」
「さあ?どうだろう。」
どこまで本気なのか分からない。
何故か悲しそうに笑って見せた顔は、闇に溶けるようで、ふと覚えていられるか不安になった。
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彼はリエルと名乗った。本名かどうかは怪しいところだ。
どんな話をしても嘘かどうか分からないように飄々としていて、終始はぐらかすような態度を崩さなかった。
リエルは騎士になる前は冒険者をしていたと語った。彼が踏破した地の果てには、巨大なキノコの森や、船をまるごと呑み込む鯨も居るらしい。
どれも荒唐無稽で、すぐに嘘とわかるような代物だったが、不思議と耳ざわりは悪くなかった。
ソフィアも久々に、素の自分を晒した気がする。
誰と話していても、『貴族』という肩書はついて回る。親であっても、執事であってもそれは変わらない。
家の名を背負って会話をする。フィルタを介して自分の発言が外に出ていく。
そうでない、自分の口から直接出た言葉は新鮮だった。
閉塞感のある暮らしに飽き飽きしていたこともあって、ソフィアも作り話に乗った。
さも自分も体験したことがあるように空想の話を続けているうちに、やがて何が本当で何が嘘かなんてどうでも良くなった。
気が付けば、わたしは古代に滅んだ王国で、唯一生き残った第一皇女ということになっていた。
リエルと顔を見合わせて悪戯っぽく笑う。
ふと我に返ったときには喧騒はとうに消え、あたりは静寂に包まれていた。
「あら、すっかり話し込んじゃった。」
思わずソフィアは立ち上がった。庭はすっかり静まり返っており、誰の気配もしない。
「本当ですね。名残惜しいですが切り上げましょうか。」
「ええ、本当にね。…でも、何も連絡しなかったなんて、執事が心配するわ。」
「ふふ、そうですね。白髪の執事さんに心配されますよ。お嬢様。」
リエルは揶揄するように微笑む。執事が居るのは本当なのだが、嘘の延長だと思われているらしい。
まあ、確かにお嬢様がこんなところで一人さみしくパーティを眺めている訳がないので、リエルの勘違いは仕方ないかもしれない。
ソフィアはドレスの裾を叩くと、リエルに向き直った。瞳をじっと見つめる。
「またお話してもいいかしら?」
「ああ、いいですけど、僕は明日になったら消えているかもしれませんよ。」
どこまでもとぼけるつもりらしい。
覚えられないと言っていたが念のためにしっかり覚えておこう。橙の髪と、青の騎士服に身を包んだ青年の姿をじっと観察する。
赤の瞳の特徴的な顔は特に念入りに。
「そんな見られると照れますね。」
顔色一つ変えない癖によく言う。ソフィアの方が気恥ずかしくなって顔を逸らした。
「どうですか?覚えていられそうですか?」
「もちろん。わたし、自慢じゃないけど人の顔を覚えるのは自信があるの。」
嘘である。初めましての3人と挨拶したら全員ごちゃ混ぜになる自信しかない。
でも、ソフィアはあえて自信満々に頷いた。
それを知ってか知らずか、リエルは薄く微笑む。
「では、消えないように願っておきます。」
「もし消えていたら、わたしがまた呼び出してあげますから。」
「おや、それならどこにいても召喚されそうだ。」
"召喚"という言葉を使ったのはわざとだろう。魔法が使えるのは、王家の血を引く一握りだけだ。
「ええ、秘密の王室の力でも使ってあげる。」
そういってソフィアは笑ってみせた。できもしないことを言ってみると、本当にできるような気がした。
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「リエル…ですか?そのようなもの、うちには居りませんが…?」
翌日、執事の小言もろくろく聞かずに飛び出したソフィアは、騎士団長のもとを尋ねていた。
騎士団長は白の手巾でしきりに汗を拭きながら、憂鬱そうに答えた。
息子が起こした一大スキャンダルで相当精神をやられているらしい。
昨夜のパーティでの一部始終が王宮にまで知れ渡った、今朝の大騒動を思い返して同情する。
いくら公的なものでないお遊びの夜会とはいえ、貴族の集まる場には違いない。国が始まって以来の大スキャンダルだ。
謹慎で済んだだけマシだろう。追放されなかったのは寛大と言わざるを得ない。
さて、リエルというのは本名じゃなかったらしい。
とはいえ、これは想定していた。彼が本当のことを言っていたとは、初めから思ってはいない。
「じゃあ、橙の髪の人は居る?」
「橙ですか…?アルフレドと、リーアムと…。」
騎士団長はゆっくりと指折り数え始めるが、指を二つ折ってから全く進まない。
その二人はソフィアも知っている。子供の時によく遊んでもらった。優しいおじさんのような感じだ。
「違うの、もっと若い方よ。」
「もっと若い、ですか。はて…?」
頭を抱えて唸る騎士団長に、これは聞いても無駄だったかなと思い始めたその時、後ろから声がかかった。
「もしかして、あいつじゃないですか?つい先月入ってきた。」
声をかけてきたのは細身の眼鏡の騎士だった。
運びかけだったのだろう、自身の腰丈ほどもある大きな水樽に、もたれかかって休憩していた。
「あら、ジーン。知ってるの?」
「ええ、ソフィア様。つい先月入ってきたばっかりの腕白坊主ですよ。」
「その人のこと、詳しく教えてくれる?」
「もちろん、昨日も夜遅くまで出かけてましてね。そのくせ剣の腕はいいから、まあ生意気だ。」
両手を広げて嘆くように空を見上げてみせる。
「でも、珍しいわね。ジーンがそんなに後輩のこと気にするなんて。」
皮肉ではない。ジーンは常に合理主義で、あまり他人を覚えたりしない。
かといって冷たいわけでもなく、場面場面ではしっかり気を回すようなタイプだから、単純に他人に興味がないだけなのだろう。
「…あいつ、忌み眼なんですよ。いや、我々が気にしている訳ではないですよ。でも、年寄りとか、気にする人は気にしますからね。騎士団に入る前は色々あったみたいです。」
指を鳴らしたくなった。
忌み目。過去に国家転覆をはかった悪人グレゴリオと同じ紅の瞳を指す。
ソフィアはそんな迷信気にもしていなかったから、すっかり忘れていた。
そうだ、その特徴を言えば一発だっただろう。
「その人の名前は?今どこにいるか分かる?」
「リンって名前ですよ。さあ、新人だから兵舎の裏手で薪割りでもやらされてるんじゃないですかね?あるいは兵舎の部屋か。」
「ありがとう!ジーン!」
ソフィアはそれを聞くや否や駆け出した。振り向きながら手を振る。
およそ貴族とは思えないソフィアの動きを目にして、呆れたようにジーンは手を振り返した。
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ソフィアにとって、兵舎は庭のようなものだ。
基本的にいい子だったわたしだが、唯一歴史の教育は嫌いだった。どうしても頭に入ってこなくて、そのくせ重要だと繰り返し言われるのだから、子供ながらに反発心があった。
小さな頃はよく教育を抜け出しては、兵舎に入り浸っていた。今思えばバレていなかったわけがないので、見て見ぬふりをされていたのだと思う。
騎士たちがたくさん見ているから危険はないと判断されていたのだろう。
当時は意味が分からなかったが、あまり根を詰めすぎても、窮屈になってしまうからなと父がよく話していた。
ソフィアは首をひねった。てっきりすぐに出会えると思っていた。
もし居なくとも、訓練生にでも話を聞けば芋づる式に捕まえられるだろう。
そう思っていたが甘かったようだ。
もぬけの殻になった部屋の中を覗き込む。『リン』と記された表札には小さな鈴がぶら下がっていた。
なかなか手が込んでいる。ここまで厄介だとは思わなかった。
訓練生に話を聞くと、今朝方失踪したらしい。
荷物はほとんどそのままで、着のみ着のまま消えてしまったそうだ。
訓練がキツくて、逃げたんじゃないですかね。ソフィアを案内してくれた年若い訓練生は遠くを見つめながらそう呟いた。
眼が死んでいる。一体どれだけ厳しいんだろう。
兵士から聞き込んだところによると、いつも少し不機嫌そうで、何を考えているかわからない。それがリエル改め、リンに対する総評だった。
その評価は、昨夜中庭であった微笑んでいる彼とは似ても似つかず、ソフィアは奇妙に感じた。
あの仕草の一つ一つも嘘だったのだろうか。
煙に巻くような彼の笑みを思い出し、それもあり得るなとソフィアは一人頷いた。
彼に対する調査は難航を極めた。
兵士になるためには最低限貴族である必要がある。だから家から辿ればよほどのことがない限り、素性を追いかけることができる。
しかし、男爵家の三男と名乗っていたらしいが、調べてみると彼が名乗っていた男爵家はとうに経営破綻していた。
無論、略歴証は偽造。出身も経歴も虚偽。彼を紹介した兵士は数日前に辞めて消息不明だ。
ここまで来るとリンという名前も本名かどうか怪しい。
公文書の偽造ともなると一人で可能なレベルではない。何かしらの組織が絡んでいる、ということを意味する。
その時点で兵士たちは手を引くことにした。既に居なくなった者の行方を探すことほど難しく、無為なことはない。
唯一心残りを見せていたソフィアの執拗な捜索にも関わらず、それから数カ月にわたってリンの足取りは一つとしてつかめなかった。
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紙の上に線を二本描いてみることを想像してみよう。それらの線は多くの場合、どこかで交わる。
どれだけ遠く離れているように見えても、線が続く限り、いつかは出会う日が来る。
人と人はそれぞれの生活のどこか、お互いに意図しないタイミングで交わるようになっている。
でもそこから一度離れてしまうと、次に交わることはない。
一度きりだから、人と人との出会いは大切にしないといけない。
母が寝室で話してくれたことを覚えている。
父と母は恋愛結婚だった。
「わたしは線を飛び移ったの。」というのが口癖だった。
「いい、ソフィーはその時が来たら、強引にでもいいから飛び移りなさいね。」
そう強く言われた。
その時っていつ?と尋ねたわたしに、その時が来たら分かるわ。と言って、優しく頭をなでてくれた。
母はそれからしばらくして亡くなった。
人が望むことをするのは得意だったが、母が望むわたしになれているかは、今でも良く分からない。
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「ソフィー、入りなさい。」
嫌な予感というものは当たるものである。
部屋の中央では長掛けのソファーに座り、父が満面の笑みを浮かべていた。
父がいつもわたしを第一に考えていてくれることは、十分に承知している。
だがここ数年、父がわたしのためにと実行したことの大半は、わたしにしてみればどこか的外れで、心から喜べないものが多かった。
案の定、今回もそのパターンだった。
「紹介しよう。隣国のルシウス・コーデリウス様だ。お名前は当然知っているだろう?」
父のそばで微笑んでいるのは、見目麗しい好青年だ。
豪華な家具に馴染む衣服に、嫌味さを感じさせないネックレス。落ち着いたその一挙手一投足が、身分の高さを物語っている。
顔を見るのは初めてだが、当然名前は知っている。知らないと不敬にあたるような人物だ。
「…はい、お父様。」
仕方なく頷く。不服な気持ちが、間違っても声色に乗らないように気を付けて。
「いや、ソフィーもそろそろ将来のことを考えるべきだと思ってなぁ。」
きた。やっぱりだ。
父は昨年ほどから、わたしに結婚の打診をするようになった。
心に決めた相手が居ないかと執拗に聞かれ、居ないと分かるとこうして相手を連れてくる。
わたしにはまだ早いと何度か言ってはいるのだが、父はまったく聞く耳を持たない。
穏和な見た目によらず頑固なのだ。
それなら先に婚約者を決めてしまえば話が早いような気もするが、そうはいかないらしい。
わたしにも恋愛結婚をして欲しいというよく分からないことを言って、こうして回りくどい手段をとっているのだ。
父はよく亡くなった母の話をする。母がいかに優しかったか。どれだけ美しかったか。
母の話は数えきれないほど聞かされて、そらで言えるようになってしまった。
若かった二人は周囲の反対を押し切り結婚まで至った。
一時は駆け落ちまで考えたと笑っていた。長男である父の立場で駆け落ちは洒落にならない。
それはそれは大恋愛だったそうだ。
羨ましさがないと言えば嘘になる。
とはいえ、それをわたしに望まれても困る。
いくら顔のいい美青年を連れてきたところで、はい一目惚れしました!と単純に恋に落ちるものでもない。
一度婚約してしまえば相手を知るほかなく、そのうちに好きになるようなものかもしれないが、どこか不純な感じがして後ろめたく、踏ん切りがつかないでいる。
そうしてわたしには困惑しながら、やんわりと当たり障りない対応を取ることしかできず、最後には相手も申し訳なさそうな顔して帰っていく。
不毛だ。
いや、わたしが我儘を言っているだけということは分かっている。
恋愛結婚をした父のようなケースは稀で、通常の貴族以上であれば容姿も分からない相手と結婚をすることが普通だ。
こうして顔合わせまでして、わたしの意思を尊重してもらえているということは、むしろ恵まれている方なのだろう。
父にばれないように、口元を扇で隠しながらこっそりとため息をつく。
どうせここで断ったとて、ほかの候補がまたやってくるだけだ。
わたしが受け入れればそれで済むだけなんだろう。
そろそろ潮時かもしれない。
ルシウスの視線が刺さる。子供のころから、数えきれないほど浴びてきた視線。
向けられているのは痛いほどの羨望と、好意。
でも、その視線はわたしに向いていない。肩書という幾多ものヴェールを通過した結果、どこかはるか彼方を見つめている。
こうあるべき、というのは分かっている。貴族である以上、人々から期待される理想で在り続けるのは一つの義務だ。
「初めまして、ルシウス様。わたくし、ソフィアと申しますの。」
裾をつまんでお辞儀する。意思にかかわらず、身体が勝手に動く。
もう何百度となく繰り返した動作だ。どう見られているか、コントロールするためだけの技術。わたしをわたしでなくすための。
「友人からはソフィーと呼ばれていますので、そう呼んでいただけると嬉しいですわ。」
笑顔を顔に張り付けて微笑んだ時、耳元で鈴の幻聴が聞こえた。
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月が変わった雨の日のことだった。
灰一色の曇り空の下、ソフィアは窓枠に手をついて、ぼんやりと硝子を滑り落ちる水滴を眺めていた。
家庭教師のマナーの講義をそつなくこなして、無事に自由時間を手に入れたはいいものの、雨が降るとお茶会も中止になるし、ましてや服も買いに行けない。
今日はもともと商人が家に新しいドレスを持ってきてくれることになっていたが、雨が降ったので中止になった。白を基調とした服に、万が一にも汚れがあってはいけない。
こうして寄る辺もなく窓の外を眺めだしてから、はや半刻も経つ。すっかり午後の退屈を持て余していた。
先月のお見合いから、台本でもあったのかと疑うくらいとんとん拍子で話が進んだ。
ソフィアが特に動いたわけではない。口当たりの良い言葉を並べ、終始微笑んで、頷いていただけだ。
ルシウス様に不満があるわけではない。きっと婚約してしまえばそのうち好きになるだろう。
以前のお引き取り願うような態度とは明らかに異なるわたしに、父は隠そうともせず喜んでいた。
一人娘の婚約先が決まらないことをこっそり気に病んでいたようだ。
数日先にも何度目かになるお見合いが設定されている。
お見合いとは言っているが、その実、最終意思確認のようなものだ。
恙なく進めば当日中に、婚約発表まで行くだろう。
ぼんやりと庭を眺めていると、ふとソフィアは違和感に気付いた。
庭先に佇んだ、紺の雨着を着た人影。てっきり庭師だと思っていたが、先ほどから動く気配がない。
フードを被っていて顔はわからないが、雨具の裾からやせ細った腕が見える。
はて、あんな痩せた人、うちの使用人にいたかしら?
心当たりの顔を頭の中で検索していくが、どうもシルエットとつながらない。
もともと顔を覚えることは苦手な方だから、使用人全員の顔と名前を覚えているわけもない。
どこかで見たことがあるような気がするんだよなぁと思いつつ、ソフィアが諦めかけたその時だった。
「あっ!」
人影がふらっと動き出して、ソフィアは思わず椅子から飛び上がった。
一瞬だけ窓を見上げたその横顔は見覚えがあった。
あの時見せたような笑みではなく物憂げな顔をしていたが、見間違えるはずもない。あの顔はリエルだ。
いや、本名はリンだったか。
こちらを見上げたのは一瞬で、またフードを被り直し足早に去っていく。
このチャンスを逃しては、次に逢えることはないかもしれない。
部屋から飛び出し、階段から一段飛ばしで駆け降りる。
傘を掴んで建物から飛び出した時には、リエルの姿はすっかり見えなくなっていた。
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普段のソフィアならそこで諦めていたかもしれない。
服に泥が跳ねるのにも構わず彼の消えた方向へ駆け出した時、一番驚いたのは当のソフィアだった。
当てがあって駆け出したわけではない。ここ数年お利口に過ごしていた分が爆発したような感じだった。
直観に任せて角を曲がって路地を駆け抜けていく。数度はためく雨着の陰を見、鈴の音を聞いたような気もしたが、幻かもしれない。
より細い路地へ導かれるように走り続けたソフィアだったが、行き止まりの壁に突き当り、ようやく息を切らして立ち止まった。
ひび割れた壁、襤褸切れの塊、割れた硝子。走り回るうちに寂れた街の端まで来てしまっていた。
近くを通ることすら禁じられていたスラム街。
場所は知っていたが、遠くから見ることもなかった。あまりにも、遠い世界だから。
たとえリンがこの近くにいてもすぐに帰るべきだろう。理性はそう感じている。
けれどソフィアは諦めきれずに視線を落とした。目の端で銀色に輝くものがあった。
恐る恐る手を伸ばしてそれを摘まみ上げると、小さくチリンと音を立てた。
見覚えのある。この銀の鈴は。
「ふざけんなてめぇ!」
突如壁際の家から怒号が聞こえてきて、思わずソフィアは身を竦めた。
硝子が割れるような音と人が倒れる音。
窓から恐る恐る覗くと、まず最初に目に飛び込んできたのは黒の髪だった。
紅の模様のついた床に横たわる青年。
その顔は、もう見間違えようがない。リエルだ。
覗く肌には、大きな痛々しい痣が浮かぶ。後頭部を抱えて身体を曲げている。
リエルが咳込んで、濃赤混ざりの痰を吐き出したことでようやく床に広がる模様が血だと分かった。
橙の髪は染めただけだったらしい。髪まで嘘だったのか。
最初に思ったのは、それだった。
「なんもできねえのか!騎士団から勝手に帰ってきたときに殺しとくべきだったなぁ!?」
恫喝する男がリエルを蹴り飛ばす。
抵抗もできず、勢いのまま転がる。
うめき声が上がる。
「あの時半殺しで止めてやったんだ。これが最後のチャンスって言ったよなぁ?」
女一人攫っても来れないのか。そう言って、唾を吐きつける。
身体を丸めるリエルの頬に、赤のテープが貼ってあることにその時気付いた。
思わずソフィアは飛び込んでいた。
もちろん後先なんて考えていない。
四方八方から突き刺さる視線が飛んでくる。布着を身にまとったガラの悪そうな男たち。中には短剣を抜いている者もいる。
ざっと見ただけで5,6人くらいは居るだろうか。彼らの頬には、赤のテープが貼られていた。
頬にテープを貼り付けた、奇妙な強盗団の話を思い出す。
唐突な闖入者に驚いたのか、ぽかんと口を開けていた。
わたしは両の手を大きく広げて、倒れこんだリエルの前に立ちふさがる。
ひゅうとリエルが息をのむ音が聞こえた。
---
刹那、静かな時間が流れた。
戸惑っていた彼らだったが、やがて状況を理解し始めたのか笑い声を上げ始めた。
「おいおい、嬢ちゃん、何しに来たんだ?」
入り口に近いところに立っていた二人が、示し合わせたかのようにわたしの退路を絶つ。
「ここはさ、遊びに来るところじゃねえんだ。」
リーダー格のような、顎に傷のある禿頭の男が、下品な笑みを浮かべながら近づいてくる。
「まあ、"商品"になってくれるっていうなら大歓迎だけどよ。」
無言でわたしを囲むように動く男たちを順に睨みつける。
もう少し動きやすい格好でこればよかった。
動きやすかったところで、多数の男相手にどうしようもないが。
「よく見りゃ顔もなかなか上玉じゃねえか。高く売れるぜ。……ん?」
禿頭の男がぐっと顔を近づけて、わたしの顔をまじまじと見たかと思うと、突然笑い出した。
「おいおい、リン、これはお手柄だなぁ。」
「……っ!」
勢いよく唾が飛んできて思わず顔をしかめた。
「攫ってこれないとか甘えたこと抜かしていたくせに、ちゃんとこうして連れてきてるなんてなぁ。」
リエルがはっと息を飲んだ。
「…駄目だ……、帰るんだ……!」
呻くように口の端から息を吐き出しながら、立ち上がろうとしてバランスを崩した。
思わず抱きとめる。泥だらけの顔。紅の瞳と目が合う。
「なんで、……ここに。」
「……言ったでしょ。」
泣き出しそうだ。脚が震える。
ああ、逃げ出したい。そう、何でここにいるんだろう。
こんな時、貴族としての正解はなんだろう。分からない。
だけど、この瞬間だけは嘘でも、演技でもいい。
わたしの言葉で。
「消えてたから、呼び出しに来たのよ!」
ほとんど悲鳴のような声で、そう宣言した。
---
予想に反して男たちの動きは緩慢だった。徐々に輪を狭めてくる。
どうせ逃げられないと分かっているのだろう。にやにやと浮かべた笑みに嫌悪感が増す。
追い詰められているのはひしひしと感じていた。どうしようもない。
けれど、どこか万能感が湧いてきていた。脚の震えは止まっている。
もう、わたしの気持ちは決まったのだ。あとはなるようになる。
振動が響き始めたのはその時だった。
扉から、窓から大勢の男たちが飛び込んできた。青を基調とした外套に、金の獅子の刺繍。
国を守る最大兵力。騎士団だ。
「姫!ご無事ですか?」
先頭で飛び込んできたジーンが、鞘のついたままの剣で一人を殴り倒す。
返す刀でもう一閃。
技術の差、数の暴力。チンピラと騎士団では勝負になりようがない。
瞬く間に決着はついた。
後ろから遅れて入ってきたのはよく見た顔だ。騎士たちが訓練された仕草で道を開く。
騎士団長。小さいころから迷惑をかけすぎて、良く叱られた。
わたしを叱れるのは、父と彼くらいなものだ。
ただ、今回は怒っているというより、心配そうな顔をしていた。
「まったく、急に飛び出して、よりにもよってこんなところに…。」
お気に入りの白の手巾で額を拭い、もし、何かあったらわたしの首が飛びます、と付け加える。
「それは、悪かったわ。」
「驚きましたよ。御身に何かあったらどうするんですか?よもや、第一皇女という立場をお忘れで?」
忘れたわけではない。これまで王宮から抜け出すことはあっても、白昼堂々飛び出すことはなかった。
これまでいい子で過ごしていたわたしが急に飛び出したとあっては、騎士団も大慌てだっただろう。
「陛下が心配されますよ。」
「ええ、ごめんなさい。」
そう、わたしの父は国王だというのに心配性だ。
しっかりした母が亡くなってからというもの、より拍車が増した気がする。
「ごめんなさいじゃないでしょうに……。明日は婚約発表でしょう?」
あ、とわたしは声を上げた。
「あ、そうでした。やっぱりそれキャンセルします。」
えっ、と口を開けたまま騎士団長が固まった。時間が止まったような気がする。目を白黒させている。
まだ婚約していないのだから、これは婚約破棄ではない……はず。
セーフ。誰が何と言おうとセーフ。
わたしの腕の中で、目を見開いているリエルと目が合う。
まったくどういうことか理解できていない様子だったが、ぽつりと呟いた。
「お姫様…?」
「ええ、そう言ったでしょ?」
リエルはこれ以上ないというくらいに、呆けた顔をした。
「……わたしも恋愛結婚してみたくなりましたので。」
居並ぶ騎士たちにそう宣言して、リエルを抱きしめた。
「うえっ……?」
リエルが腕の中で戸惑っているのに構わず、力をこめる。
「いやっ……おっ、俺、貧民だし!」
「ええ、知ってますわ。」
騎士にしては動きが軽すぎた。マナーもところどころ抜けていたし、おそらく貧民街出身だろうと当たりはついていた。
あの時は範囲が絞れず、見つけることはできなかったが。
「まさか姫の頼みを断るといいますの?」
「いや……、えっ…でも……。」
頭が追いついていない様子だ。怪我を忘れたかのように、唐突な展開に戸惑っている。
気にせず、ソフィアは淡々と続けた。
「もし断るというのなら、残念ですが諦めますわ。……そのあと、どうなるか分かりませんけど。」
「そ、それって脅迫では……?」
姫が消せといえば、誰か一人消すことは容易。
リエルに微笑みかけながら、ふとこの抱きとめる構図、まるで騎士がお姫様を抱きとめているような構図だなと思う。
配役は逆だが。
フラフラと、騎士団長は頭を抱えてしゃがみこんだ。本気で頭痛がしているみたいだ。
「そ、そんな、陛下が聞いたら何というか…。」
これまで、わがままらしいわがままを言わなかった、大人しい少女が急に牙をむき始めた。
でも、譲る気はない。わたしにも母が言っていた、"その時"は分かるのだ。
「姫……、お願いですからわがままは……。」
「ふふ、わたしは、この国で一番わがままを言って良い女の子ですわ。」
騎士団長は途方に暮れた顔をした。
線が離れたのなら、もう一度追いかけて交わらせよう。
今度はそのまま飛び移ってやる。
「それに、わたしのお父様は、恋愛結婚大賛成ですの。」
ソフィアはそう言って、鈴が鳴ったような笑い声を立てた。
血は争えないなぁという、呆れたような声が聞こえた気がした。