始まり
トーストと、コーヒーの残り香が、柔らかなリビングの雰囲気を作る。食器の擦れる音を背中に受けながら、鈴木圭太は、幼稚園の支度を中断して、大してわかりもしないままにニュースを眺めていた。父が出勤するまでの間は、ニュース番組をつけておくのが鈴木家の鉄板である。
「圭太、制服を着てからにしなさい」
「はあーい」
母の声に、息を吐くような生返事を返す。母の注意を流すほど興味を示すそれは、ここ最近、巷を騒がすものである。圭太は、振り返って、食器洗いをする母に問いかけた。
「お母さん、吉川市って近い?」
母は一度お皿を洗う手を止めて言った。
「そんなに近くないよ。どうして?」
「来たんだって。天使」
天使が来た。
素っ頓狂なその言葉に、母は当たり前のように「大変ね」と返した。
天使。宗教上の存在であり、神の使い。今ではキャラクターのように、二次元的に親しまれることも多い。それが、来たのだ。比喩的なものではなく、まさにそれそのものが。現実世界にあり得ないこの状況が、今では知らずと受け入れられて、ここに存在している。
圭太はもう一度、テレビに目を戻す。吉川市の、中継モニターの映像が映し出された。背中の真っ白な羽と、頭上に浮かぶ輪を除けば、人の子供と見分けがつかない。しかし、それよりも目を引くものを、天使らは握っている。古く、きらびやかで巨大な、凶器。背丈に見合わないちぐはぐなその姿は、不吉さを物語っているようにも見えたし、あるいは、現実離れしたものに対する新鮮さと興奮を、人々に与えているとも見える。
圭太が感じるものは、まさしく後者である。
「すごいね!」
思わずそう叫んで再び振り返ると、母が眉をひそめて、たしなめた。
「やめなさい、圭太」
続けて父が説得するように言う。
「俺達の所は大丈夫だけど、そうじゃない所もあるんだ。天使のせいで、色んな人が傷ついたから、あまり外では言わないようにな」
だって、すごいんだもん。
そうは言えず、圭太は不服そうに口を閉ざした。
一ヵ月前。天使は突然に降ってきた。雲の切れ間、日の光に沿って悠然と現れたそれらは、たちまちSNSを通じて広まった。吉を意味する存在として知られていた天使は、人間に良いものを運んできたことを想像させた。好奇心や興味、あるいは恐怖心。すべて入り混じって天使に釘付けになっていた野次馬が、その天使の手によって、死んだ。
辺りは騒然。蜘蛛の子を散らすように逃げ纏う人々。居合わせた何千人もが、天使に殺戮された。その時、天使らは口をそろえて言う。
「参りましょう」
その言葉が何を意味するのか、未だに専門家同士の討論が行われているが、良い意味ではないことは確かである。
そんな凄惨な発端も、無知な幼稚園児には知り得ないことだ。まだ夢うつつと天使を認知する人も少なくない。また、彼らの見た目より、「天使」と称しているが、本当に天使なのかさえわからない。
圭太が口を尖らせて、未だに輝いた目をテレビに向けていると、インターホンが鳴った。父の出勤時間と同時だったので、父が「俺が出るよ」と、動き出そうとした母を制止し、玄関へ向かった。圭太と母は、数日前に注文したホットプレートを思い出した。ホットケーキを食べたいと駄々をこねる圭太の要望により、買うことになったのだ。
「ホットケーキ?」
テレビから客人に興味が向いた圭太は、父の後を追って廊下へ飛び出す。
父の背中に追いついた時、ちょうど玄関扉が開いて、客人の姿が見えた。
「参りましょう」
ニュースで何度も聞いた文言。馴染みのない、幼い子供の高い声。複数に重ねて笑った、あどけない顔のそれは──天使。
父は勢いよく扉を閉めた。たちまち張り詰めた空気に、冷や汗が伝う。
「圭太!」
名前を呼ばれ、口をハクハクと動かすのが精いっぱいだった。父が必死に抑える扉は、今にも壊れそうなほどガタガタと揺れている。輝いて見えた天使の実物は、思っていたよりもずっと、不気味だと、小さな頭ではっきりと認知した。
「奥の部屋に行け! 早くしろ!」
緊迫して荒げた父の口調から、ただならぬ気配を察知した母がリビングから出て、二人の姿を捉える。
「天使だ!」
また一層、糸を張ったような緊張感が増した。圭太の腕を乱暴に掴み、母は二階の奥の部屋へ急いだ。扉を叩く鈍い恐怖は遠くになるはずが、圭太の脳に響き続けていた。母は、カーテンを閉めて、窓を施錠する。そして、大きく息を吸い込むと、圭太の肩を掴み、膝を折って目線を合わせた。暖かな笑顔と裏腹に、髪は乱れていた。
「鍵を閉めて、ここにいて」
優しい目をした母の、真剣な眼差しに、圭太は一心に頷いた。震える小さな頭をくしゃくしゃと撫で、包むように抱きしめる。数十秒して、母は部屋から出て行った。圭太は扉の鍵を閉め、部屋の中央にうずくまった。そして、事態を改めて受け止め、震える腕を抱いた。まさか、自分の身に降り注ぐものだとは思ってもいなかったのだ。
下の階から、鈍い音が轟いた。
圭太の心臓が、ドクンと揺れる。
金属の擦れる音がした。
水の音がした。
柔らかいものが叩きつけられる音がした。
悲鳴がした。
名前を呼ぶ声がした。
何も聞こえなくなった。
圭太は弾いたように部屋の家具を、扉の前に移動させ始めた。幼い体には重労働で、手の皮がめくれ上がった。爪も割れて、血が滲んだ。家具に血が付いた。
「動け、動け」
祈るようにそう繰り返し、家具に爪を立てて引く。本棚が、床に引っ掛かった。もたれかかるように本棚が倒れてくる。ハッと息を飲むうちに、圭太の足は、下敷きになった。骨が妙にギチリと擦れ合う音と共に、高い痛みが全身を走り抜ける。
「痛い!」
叫んだ。痛くて、熱くて、どうにか引き抜こうと足を引っ張るが、逆に痛みが増すだけであり、また、焼くような痛み。
「痛い痛い痛い!」
呼吸が荒くなる。心臓がうるさい。轟音が耳の中で反響する。
「痛いよ、助けてよ! お母さん! 来てよ!」
返事の代わりに、窓が叩かれた。思わず、痛みも忘れて窓に意識を向ける。乾いた口で浅く呼吸を繰り返し、不毛にも息を殺した。首を不器用に回して、視線を向ける。
カーテンの影に、天使の輪が映った。天使だ。
見つかった。
「うわあああ!」
悲鳴を上げた。一層、窓を叩く音が大きくなった。
ドンドンドンドン
「ごめんなさいごめんなさい!」
視界が揺らいで、フローリングに水滴が落ちた。口が強張って呂律が回らなくなる。
「やめてくらさい、殺さないで、やめて」
必死に懇願した。体液でぐちゃぐちゃになった顔を歪ませて泣いた。音は止まなかった。
突如ある一点、凛とした声が、脳の喧騒を掻き消した。
「やあ」
この状況に似つかわしくない挨拶が、圭太の隣から聞こえた。涙が止まり、目を見開いて顔を向ける。
赤い肌をした異様な女が頰杖をついて座っていた。どこが異様かと言えば、赤い肌は勿論、この現代社会に着物を着ていて、白目があるはずの部分が黒く、黄色い眼光が光っている。極めつけは、額に生えた二本の角。栗色の髪に映えて、赤黒く異彩を放っていた。
圭太が驚きと恐怖から黙っていると、その女はまた口を開いた。
「なあ、君。生きたいか?」
細めた目に、圭太が映った。
「そう怯えるな。私は天使じゃない」
的外れな弁解をして、女は再び問う。
「生きたいか?」
圭太が息を呑んで黙っていると、女は顔から感情を失くし、ため息を吐いた。そして、圭太の双眼を鋭く睨みつけた。
「答えろ。お前の口はお飾りか?」
背筋が凍るような声色に肩を震わせる。声が絞り出せず、こくりと頷いた。それを見て女はまた口を開いた。
「なら簡単な話だ。お前は私と契約すればいい。お前は助かり、私との利害は一致する。どうだ? 私と組まないか?」
女が饒舌に話すが、齢4才でわかるようなものではない。訳もわからず女の顔を見ていると、再び問いかけられた。
「どうだ?」
天使が、窓を叩く音がする。不意にその音が耳に戻り、現状を思い出して、汗が滲んだ。カーテン越しの天使の影を見て、女の顔に目を戻す。まだ返答を求められている。心臓の音がやけに大きく響いた。もはや外部の音も、内部の音も区別が付かなくなり、焦りだけが加速していく。足の感覚はもはやない。
何を答えればいいのかも既に朦朧としていて、床に目を向けた。
その時。
「遅い」
左頬に鈍い衝撃が走った。殴られたのだと理解するのに時間を要した。床の質感が頬にあたる。挟まれた足が無理に姿勢を変え、再び痛みを主張する。殴られた痛みが、遅れて頬に広がり、燃えるように熱い。
「お前はイエスかノーさえ言えないほど低能なのか? 何か言ったらどうだ、私はお前を見殺しにもできるんだ。態度には気をつけろ」
髪を乱暴に掴まれ、無理に顔を上げられる。瞳孔が開いた冷酷な目で圭太を覗き込む女。その顔は鬼と形容するに値するほど、幼い体に恐怖心を植え付けた。
「未だ話さないのはなぜだ。お前の意見を聞いてやろうというのに、お前は無視をするのか」
話そうにも、強張って声が出ない。息さえままならない圭太に、女は呆れ、息を吐いた。
「話すだけ無駄だな」
目の前に火花が散った。左目を殴られたらしい。痛みと恐怖から、圭太は声を荒げて泣いた。
「泣くな、黙れ」
また殴られる。なぜこんな仕打ちを受けるのかわからず、涙が止まらない。
「声が出るんじゃないか」
殴る。
「ああああああああああああああ‼」
また痛みが増した。段々と骨の音に水音が混じり出す。口の中に鉄の味が広がった。何度も殴られ、腫れあがった感覚だけがある。痛みは鐘のように何度も響き渡った。
「ああ、うあっ、ぐ」
殴られる度に、声が漏れた。怖くてたまらない。恐怖で体に力が入らない。
女は突然、殴るのをやめた。次に来る痛みに慄いていた圭太は、この悪夢が終わると、やっとのことで息を吸った。
が、それも束の間。
新たな痛みが圭太を襲った。女が圭太の傷口に噛みついたのである。
「あああああああああああああああああ‼」
傷を抉られて、叫ぶ。喉が潰れる程の声。その声に隠れて、窓にひびが入った。
女は構わず、傷口を貪り、吸い付く。
痛い、痛い、痛い、痛い! 怖い! 苦しい!
女は圭太の左目を抉り出した。目玉が宙に浮き、次の瞬間、視界が揺れ、消えた。ちぎられた。圭太はついに意識が遠のき、女の腕の中で脱力した。
女は、目玉をまるで飲むように、喉に通した。
女が目玉を飲んだのと同時に、けたたましい音がして窓が破壊され、天使が侵入した。天使のことはまるで気にせず、女は高らかに笑った。そして、息も絶え絶えに横たわった圭太に興奮した様子で呼び掛けた。
「お前、いいぞ! なあ、お前はよかった! 今までに会った奴らよりずっとだ! だから、さあ」
女は、煙のように姿を変え、圭太の中に消えた。しばらく静かであった。そして、今さっき意識を失ったはずの圭太の体は、ピクリと動いたかと思えば、足を下敷きにした本棚を軽々しく押し避ける。そして、何事もなかったかのようにすくりと立ち上がり、天使に向き直った。天使が見たその右目は、黒い闇に爛々と輝いていた。
天使は、「参りましょう」と笑いかけ、幾つもの凶器を圭太に振りかざす。
しかし、恐れることなく、圭太は不気味に弧を描く目と口で、笑いを噛み殺すように、無邪気に言った。
「殺戮だ」
はじめまして。まだわからないことが多いかと思われます。どうぞよろしくお願い致します。