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夜会当日。マグリットは自身の変わりように驚いていた。
昼のうちからドレスと共にメルを筆頭とした公爵家のメイドがやってきて、マッサージや化粧やヘアセットをしていく。
現在公爵家には女性がいないので、ようやく腕を振るえると言ってメルたちは張り切っていた。
ドレスを着るのはかなり久しぶりだったが、ぴったりと体にフィットした。
事前にサイズを測られてはいたけれど、こんなに早く仕上がるものなのかと疑問を口にすると、パートナーの話が決まってからすぐに注文し、フェンの口聞きで最優先で仕上げられたのだという。報酬だからといってもやりすぎなのではないだろうか。
採寸の時に、時間がないので出来合いのものを直したらどうかと伝えたのだが、そういう訳にはいかないと青い顔をした仕立て屋に言われてしまった。
他を断る口実とは言っても、フェンのパートナーともなると適当にはできないのだろう。
フェンが色を決めたというドレスは淡いグリーンをベースに金の蔦模様の刺繍が入り、腰には紺色の大きなリボンがついていた。
ベースの色こそ違うものの、金と紺はフェンの色である。迎えに来たフェンのポケットにも同じグリーンの生地のチーフが入っていて、今日のパートナーであるとわかりやすく示すそれが恥ずかしくもあったが嬉しかった。
パートナーと揃いの衣装など、着たのは初めてなのだ。
「思った通りだ。よく似合うよ」
ストレートに褒めてもらえて顔が熱くなる。
「ありがとうございます。装飾品も貸して頂いて…実家への連絡まで」
「いや、大事な娘さんをお預かりするんだからね。ご両親への挨拶は当然だよ」
実家からは、数日前に楽しんできなさいとの手紙が届いていた。フェンが話を通してくれたらしい。
一緒に会場に入ると、途端に多くの視線が突き刺さった。
王族とも懇意の麗しい公爵子息に、注目が集まらない訳がない。しかも今日は、かつて婚約破棄騒動を起こした令嬢をパートナーに連れているのだ。何故、という気持ちは当事者の自分でもわかる。
令嬢たちからのあからさまな妬みや嘲りの視線もあったが、フェンが隣にいるので声の届く距離では何も言えないようだった。
「疲れていない?」
主催者や他の招待客たちに挨拶した後、飲み物を渡してくれながらフェンが言った。はいと答えて口に含む。お酒ではなく、飲みやすい果実水を選んでくれたようだ。
こういう細かい気遣いが他の男性より優れているので人気があるのだろう。
「ちょっとやりすぎたかな…」
僅かに眉を顰めてフェンが言った。
「ドレスの注文を急がせたことですか?」
「いや、急ぎなのはいいんだけど、目立ちすぎると困るね」
今日だけのパートナーなのに、噂など立てられたら困るということだろうか。
この間カフィアにわきまえていると言ったはずなのに、胸の奥がチクリとした。
「君があまり…」
フェンが何かを言いかけたところで、年配の男性が声をかけてきた。
「フェン君、先日はどうも。ちょっと確認したいことがあったんだよ、会えて良かった」
「……こんばんは、ムアール卿」
どうやらお仕事の話のようだ。
「フェン様、どうぞお話なさって下さい。私はあちらで休んでおります」
壁際のほうを示すと、フェンは躊躇したが、無下にはできない方なのか申し訳なさそうに答えた。
「ごめんね、すぐに行くから待っていて」
フェンと離れてから少しすると、綺麗に着飾った令嬢三人が近づいてきた。あまり話したことはないが、学園で一緒だった人たちだ。嫌な予感がするが、壁際で動けないので仕方がない。
「お久しぶりね、クリークさん。わたくしのことは覚えていて?」
彼女は同じ伯爵家の令嬢だ。あちらのほうが王都に近い領地のため、なんとなく下に見られていた記憶がある。
「お久しぶりです、アイビー様」
「なかなかお会いできなかったから、少しお話したいと思いまして。バルコニーに行きませんこと?」
「せっかくのお誘いですが、ここで待つように言われておりますので…」
「お連れの方はイーヴン様でしょう?目立っておりましたものね。大丈夫ですわ、出てすぐのところでしたらこちらからも見えますし、ほんの少しの時間ですから」
やんわり断ってみたが駄目だった。確かにあまり奥へ行かなければホールの中から見えるので、人目はある。
すぐに戻ればいいかとついていくと、やはりフェンのことを聞かれた。
「あなたは侍女になったのではなかったの?どうしてイーヴン様にエスコートされているのかしら」
「王太子妃殿下を通じてたまたまご縁があっただけです」
「そう。妃殿下のお願いで断れなかったのね。あなた学園にいた時から妃殿下に擦り寄っていたものね、上手くやったものだわ」
「仰る意味がわかりませんが、王太子妃殿下を貶めるような言い方はされないほうがよろしいかと」
「いやね、妃殿下がいなければ何もできないくせに。イーヴン様はあなたのような人に構っている暇はないのよ。真実の愛を探してらっしゃるんだから。関係のない人は自重するべきだわ」
「真実の愛?」
嫌なワードが出てきて、つい反応してしまった。
「あら、知らないの?イーヴン様にまだ婚約者がいらっしゃらないのは、真実の愛を探してらっしゃるからよ。ああ、だからあなたに聞きたかったのかしら。間近でご覧になりましたものね」
他の二人と一緒にクスクス笑い出したので、イライラを抑えるために一度ゆっくり瞬きをしてから声を出した。
「お話はそれだけでしょうか」
「そうね、大体わかったからもういいわ。ご機嫌よう」
勝ったとでも思ったのか、そう言うとあちらのほうからさっさとホールへ戻ってしまった。嫌味を言うためだけに連れ出されたのだろうか。
くっついていた二人は伯爵家より下の家格だから発言しなかったが、態度を見ると立場をわきまえてというより、わざとだった気もする。
すぐ戻ってはまた絡まれかねない。溜め息をついてバルコニーから庭のほうを眺めると、見覚えのあるジャケットの男性の後姿と金色の髪の女性が向かい合っているところが見えた。
フェンと──ルミフ侯爵令嬢?
「──は、出会った瞬間に──ですわ」
「──ているね」
「──色は、私の瞳──」
二人は何か話している様子だったが、言葉は所々しか聞こえない。
すると突然、ルミフ侯爵令嬢がフェンに抱きついた。
「!」
その瞬間、マグリットの脳裏には学園の中庭で見た景色が浮かび上がった。
自身の婚約者に抱きつく金髪の可愛らしい少女、微笑んで抱きしめ返す婚約者、真実の愛を見つけた、という言葉──
そこに、現実のフェンの声が重なった。
「──真実の愛だと思う」
もう庭のほうを見ていることはできなかった。
バルコニーを出たマグリットはそのまま屋敷の出口に向かい、乗ってきた公爵家の馬車の御者に、具合が悪くなったのですぐに王宮へ帰してくれないかと頼んだ。
本当に青白くなっているマグリットの顔を見た御者は、願いを聞き入れてくれた。屋敷の使用人にフェンへの伝言を頼む。
王宮で与えられている自分の部屋へ入るまではなんとか持ちこたえたが、ドアを閉めた途端に涙が溢れた。
かつて婚約破棄を言い渡された時にも表情を変えなかったのは、何も感じていなかったからではない。悲しみ、悔しさ、諦め、羞恥。いろいろな感情が一度に押し寄せ、呆然としているうちに宰相が乗り込み、友人たちが駆け寄り、あっという間に収束してしまっただけだった。
今日は側にいてくれる人はいない。馬車の中で整理する時間もあった。
たくさんの女性と話したいと言って、婚約者のいなかったフェン。
いつか王太子に、「諦めていない」と言っていた。
フェンが選んだグリーンの生地。
ルミフ侯爵令嬢の瞳は、エメラルドグリーン。
美しい侯爵令嬢と、地味な伯爵令嬢。
真実の愛によって婚約破棄された自分。
フェンの口から発せられた『真実の愛』という言葉──
久しぶりに着飾って浮かれていた自分が馬鹿らしくなった。
現実と物語は違うと理解したのではなかったのか。
釣り合わないことはわかっていたのではなかったのか。
彼が優しいのは全ての女性に対してなのだと、知っていたのではなかったのか。
一体何をわかっていたのだろう。
涙が出るほど、彼に心を傾けていたんじゃないか──
誰もいない真っ暗な部屋で、マグリットは一人声を殺して泣いた。