とこしえの炭火
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共に、この場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
ゴホ、ゴホ、なんだいこりゃあ。部屋に入ったとたんに、ほこりが舞ってきて……ゴホ、ゴホ。
最後に掃除をしたのは、いつなんだいこれは? 一か月や二か月なんてもんじゃないぞ。すっかり綿ぼこりにコーティングされたペットボトルとか、もはや化石だな。
自分が住んでいる分には、不思議と気にならないんだよねえ、こういう状態。そのくせ、相手のものだと、とたんに粗探しセンサーがびんびんさ。
「隣の芝生は青い」というが、これは何も、良い点ばかりが目に付くって意味に限らない。悪い点も外側からだったら分かる、「岡目八目」みたいな意味も含まれているんじゃないかと、このごろ思うようになっているんだ。
我々もほこりや汚れを普段、気にしていなかったとしても、来客があると知ったなら、かたしにかかるだろう? こいつは外から来た人にとっては、ささいな汚れから受ける影響が、大きいためじゃなかろうか。体調、印象……どれも良い方向には向かわなそうだ。
そのためにも掃除っていう奴は、とっても大切。だからこそ気を抜いたり、片手間に取り組んだりすると、えらい目に遭うことが。
それに関する昔話、ひとつお聞かせしようか。
江戸時代。「火事と喧嘩は江戸の花」と呼ばれるくらい、将軍様のおひざもとでは大火がよく起きた。
大小を問わない火事ならば、およそ300年の治世で2000回足らず。原因には気候の他、人口の増加や治安の悪化も関わっていたらしい。そのたびに、人々は建物を壊しては建て直し、たくましくも華やかに生きていたそうだ。
その街中の一角。奉行所に勤める夫を持つ、一家について。
この時、家の中ではすでに春先だというのに、年末の煤払いの様相を呈する大掃除が実施されようとしていた。
近日、姑がやってくるんだ。
かの家では、嫁と姑の仲はそれほど険悪というわけではなかったものの、良好というのもはばかられた。すでに還暦を越えているのに、まだまだ足腰の衰えを見せない姑は、来訪に際して家の各所を見て回り、嫁の家事にダメ出しをしてくるのだ。
その評価の目は、もちろん部屋の汚れ具合にも向けられる。畳や障子にわずかな汚れでもあれば、替えの準備に取り掛からなければいけない。
しかし、小ぶりなお屋敷ほどはある、広い家の中。人手があったら使いたくなるのは、道理。
嫁は居間を見て回りながら、自らの子供たちに他の部屋の掃き掃除、拭き掃除を頼んだんだ。
さほど歳が離れていない、十歳前後の兄弟。遊びたい盛りの彼らにとって、公に家の中を巡ることになる大掃除は、楽しい行事のひとつだった。
最初こそ、ほこりが入らないよう手拭いを口に巻き、言いつけ通りの掃除を行っていた二人。ところが場所が屋根裏部屋へ移り、色々なものをどかしていた時、つい埋もれていた洒落本を発掘してしまったんだ。
すでに寺子屋が開かれて久しい時期。彼らも生活に必要な読み書きは、できるようになっていた。
ぱらぱら本をめくってみると、文章は平易、挿絵も多いといかにもな子供向け。しかも、のっけから面白い。
こうなると、掃除どころではなくなる。もっと明るいところで見ようと、屋根裏から居間へ。しかし、今日は曇り空で陽が入って来ないためか、まだ若干、部屋の中が暗い。
火を持って来よう、と二人は本を抱えたまま、囲炉裏のそばへ。
当時はまだ着火に手間がかかる時代。そのため、多くの家庭が「埋火」を行っていた。
囲炉裏などの灰の中へ、炭火を埋めたままにしておく。夜にこの作業をしておけば、朝にはこれを火種とできる。それほど炭の火というのは長く燃え、重宝される理由となってきた。
二人はその火種をロウソクなりに移し、手元の明かりにしようと思ったのさ。
ところが、兄弟が囲炉裏のふちにかがみこみ、そばに立てかけてある火箸でもって、兄がさくっと積もった灰の山を掘った瞬間。
山が一気に崩れたかと思うと、その下から一気に火の粉が飛び出した。
それは火箸を握った兄よりも、更に近く。興味津々で灰の山をのぞき込んでいた、弟の顔へ舞い散ったんだ。
泣き出す弟。畳の上へまぶされる灰。駆けつける母親と、とんとん拍子の三拍子。兄はこっぴどく怒られる羽目になり、その日一日は徹底的に囲炉裏周りをきれいにさせられた上に、他の場所も母親の監視の下で、仕事をする羽目に。
弟はというと、火の粉に当てられてから、ぎゃあぎゃあと泣きわめき続け、戦力外扱い。掃除を手伝わなくていいというお達しが。
――俺も泣いとけば良かった……まったく、火の粉のバカ野郎め。
頭の中でぶちぶち愚痴る兄は、すっかり掃除が嫌いになっていた。
そうして、姑が家にやってきた。
彼女は家に来るとまず、亡き夫も奉ってある家の仏壇に線香をあげる。その際も、例の囲炉裏の灰の中から、火種をもらったロウソクを用いた。
「あんたたちも、ちゃんとやっておきなさい」
そうおせっかい気味に告げるのは、まさに老婆心とでもいうべきか。
家族は順番に、今朝も姑が来る前に済ませていたのと同じように、線香を上げる。歳の順で、その日は仕事がない父、母、兄、弟の順で、線香に火をつけていった。
「分かっていると思うが、口で吹いて火を消してはならんぞ。口より出ずるのは穢れしもの。仏様にたいそう失礼じゃ。そして、吹いたのならば、吸わねばいかんのが道理。火を吸ってはならぬのじゃ」
後ろからお説教臭くいう姑に、家族は何もいわない。すでに何度も同じことをされて、慣れていたからだ。
弟がロウソクの火を消すのを見届けると、一同はもう仏壇を見やらず、少し離れた居間の方へ。母親はすでに、これから待つダメ出しを思っているのか、表情に少し陰りが見えていたんだ。
しかし、兄がひょいと振り返ると、弟がついてきていない。代わりに仏壇の部屋から、乱暴に障子を開け閉めする音。そして線香とは違う、焦げ臭い煙が……。
「もしや」とみんなが駆け付けた時には、火のついたロウソクが畳の上に転がり、い草を焦がしにかかっていたんだ。
確かに、弟が火を消したところを全員が見ていた。そして、彼の姿が見えないところから、自然と考えが絞れてくる。弟が改めて火種を取り、ロウソクに火をつけ、転がした上で逃げ出したんだ……。
ふらりとめまいがして、手近な柱へ寄りかかってしまう母親。それに対し、父親はすぐに水を汲んできて、燃え広がろうとする畳の「ぼや」の上へ叩きつける。焦げは残ったものの、火は鎮まった。
「誰か、あの子が火に触れるところを見たか?」
姑が強い声音で、主に嫁を睨みつけながら、詰問してくる。
目に涙を浮かべかける嫁の代わりに、答えたのは兄。彼は掃除の際に起こったことを、洗いざらい話した。姑の来訪前に、取り繕いの清掃をしていたこともバレた。
「その場限りでは、意味のないものを」と苦々しい顔をしながらも、姑はすぐに番所へ届け出ることにしたのだそうだ。
その日から、江戸の各所では小さな失火が相次いだ。ほとんどが家屋のごく一部を焦がした時点で消し止められたが、数件は半焼に及ぶものもあったらしい。
件数が重なるにつれ、目撃証言も上がってくる。火事が起こる直前、現場をうろつきまわる子供の影が見られたとのことだ。
町の各所では、火の用心の拍子木を打ち鳴らす者たちが練り歩き、警備が強化される。昼間も岡っ引きがうろつくようになり、網が各所に張られた。
そしてひと月半が経ったところ。小屋の影で火打石をぶつけていた子供が、現行犯として捕縛される。それは、紛れもなく、あの弟だった。
ほとんどぼろ布になった服をまとっており、その手には服と同じ生地の布を握りしめている。これに火を移して火種にしていたのだろう、と推察がなされた。
放火は、殺人を超える重罪。しかし、齢15以下の者には更生の余地ありとみなし、家族の下へ引き渡された後、15歳を迎えた際、島流しに処する決まりとなっていた。
家へと連行される時、そして家族を前にした時も、彼はいささかもじっとしておらず、外へ飛び出そうとしたらしい。父母も、兄も、姑も、その言葉が届いた様子はなく、弟はただ「燃やさなきゃ……燃やさなきゃ……」とつぶやきながら、じたばたしたらしい。
夜になるとその勢いは更に強まり、家族はもちろん、近くに住まう人の力を借りなくては、跳ね飛ばされかねないほどになっていたとか。
幾重にも重なった人の山の下で、弟はおめき叫ぶ。
「燃やさなきゃ! 燃やさなきゃ! 消えてしまう……途切れてしまう……。我の身体、我の命が……」
悲痛な声に、一同は耳をふさぎながらもなお押さえ続け、更に一刻。家の中に、黒々とした夜が染み渡る頃。
弟の声がふっと止んだ。同時に、積み重なっていた男たちの山がずんと、下へ沈む。
先ほどまであった、弟の身体はそこになく、ただたくさんの灰が残るばかりだった。その山の中には、ほのかな火の粉がちろちろと躍っていて……消えた。
ほどなく、父親は仕事を辞めてしまい、一家もどこへともなく引っ越していってしまう。
顛末を聞いた人々は、弟の身体の中へ入り込んだ火の粉が、「命」を学んだのではないか、と語った。
本来なら燃えて消えていくのに、疑問を持たない身体。それが命に触れたことで、身を惜しむようになり、自分の命にあたる種火を、あちらこちらに点け続け、生き永らえようとしたのだろう、と。